表紙 > ~後漢 > 『後漢書』周挙伝:順帝の希望より、前例と古典を優先させた尚書

01) 司徒を補佐し、順帝を制止

『後漢書』を、抄訳します。原文は、省かずに載せます。『資治通鑑』で概観した、後漢の後半を知るために、列伝を読んでいます。
岩波版の『後漢書』を参考に、適宜、李賢の注釈もひろいます。

司徒の吏で、李郃と朱倀を故事で補佐

周舉字宣光,汝南汝陽人,陳留太守防之子。防在《儒林傳》。舉姿貌短陋,而博學洽聞,為儒者所宗,故京師為之語曰:「《五經》從橫周宣光。」

周舉は、あざなを宣光という。汝南の汝陽の人だ。陳留太守の周防の子だ。周防は、「儒林傳」に列伝がある。周挙は、姿貌は短陋だが、博學で洽聞だ。儒者のリーダーとなる。ゆえに京師は言った。「『五經』に從横たり、周宣光」と。

吉川はいう。五経を自由自在にあやつる、周挙と。
ぼくは思う。見栄えが冴えなくても、儒教だけで出世する。こういうルートが、後漢にある。


  延光四年,辟司徒李郃府。時宦者孫程等既立順帝,誅滅諸閻,議郎陳禪以為閻太后與帝無母子恩,宜徙別館,絕朝見。群臣議者鹹以為宜。舉謂郃曰:「昔鄭武姜謀殺嚴公,嚴公誓之黃泉;秦始皇怨母失行,久而隔絕,後感潁考叔、茅焦之言,循複子道。書傳美之。今諸閻新誅,太皇幽在離宮,若悲愁生疾,一旦不虞,主上將何以令于天下?如從禪議,後世歸咎明公。宜密表朝廷,令奉太后,率厲群臣,朝覲如舊,以厭天心,以答人望。」郃即上疏陳之。明年正月,帝乃朝于東宮,太后由此以安。

延光四年(125年)、司徒・李郃の府に召された。ときに宦者の孫程らは、順帝を立てた。安帝の外戚・閻氏を滅した。議郎の陳禪は、閻太后と順帝は母子でないから、館を分けて、閻太后への朝見をなくしたい。郡臣は賛成した。
だが周挙は、李郃に言う。「陳禪の誤った議論は、後世は、あなた(李郃)の誤りだと認識する。閻太后の館を分けるなと、順帝に言え」と。李郃は上疏した。

順帝個人の感情より、古典の教訓に従えという提案。故事とは、鄭の武姜、始皇帝らの話。順帝は、これに従った。

翌年(126年)正月、順帝は東宮(皇太后の御殿)に朝した。太后は、安んじた。

  後長樂少府朱倀代郃為司徒,舉猶為吏。時孫程等坐懷錶上殿爭功,帝怒,悉徙封遠縣,敕洛陽令促期發遣。舉說朱倀曰:「朝廷在西鐘下時,非孫程等豈立?雖韓、彭、吳、賈之功,何以加諸!今忘其大德,錄其小過,如道路夭折,帝有殺功臣之譏。及今未去,宜急表之。」倀曰:「今詔怒,二尚書已奏其事,吾獨表此,必致罪譴。」舉曰:「明公年過八十,位為台輔,不於今時竭忠報國,惜身安寵,欲以何求?祿位雖全,必陷佞邪之譏;諫而獲罪,猶有忠貞之名。若舉言不足采,請從此辭。」倀乃表諫,帝果從之。

のちに、長樂少府の朱倀が、李郃に代わって司徒に。だが周挙は、司徒の吏をつづける。ときに宦官の孫程が、上表文をフトコロにねじこみ、上殿して功績を競った。順帝は孫程に怒り、遠縣に徙したい。洛陽令に、孫程を捕えよと命じた。周挙は、司徒の朱倀に言った。
「順帝を即位させたのは、孫程だ。前漢の韓信と彭越、後漢の吳漢と賈復よりも、功績が大きい。孫程を徙すな」と。朱倀は、順帝の機嫌を損ねたくない。「2人の尚書が、すでに順帝を諌めて、罪をうけた」と。周挙は言った。「明公(朱倀)は、80歳を過ぎて、三公だ。なぜ、わが身を惜しむか。順帝を諌めて、忠貞の名を手に入れろ」と。朱倀は、上表した。順帝は朱倀に従い、孫程を徙さず。

ぼくは思う。今回の周挙も、順帝の個人的な感情を、尊重せず。前漢と後漢の故事に比べて、孫程の功績の大きさを評価した。


太原郡の旧俗をやめて、民を寒さから救う

  舉後舉茂才,為平丘令。上書言當世得失,辭甚切正。尚書郭虔、應賀等見之歎息,共上疏稱舉忠直,欲帝置章禦坐,以為規誡。

のちに周挙は、茂才に挙がり、平丘令(陳留郡)となる。周挙が当世を論じた上書は、キツくて正しい。尚書の郭虔、應賀らは、周挙の上書に嘆息した。

郭虔は、胡広や左雄と、上書に連名する人。尚書の出番、多い。

郭虔は上疏して、周挙の忠直を称えた。順帝は、周挙の上書を、座席のそばに置き、規誡とした。

  舉稍遷並州刺史。太原一郡,舊俗以介子推焚骸,有龍忌之禁。至其亡月,鹹言神靈不樂舉火,由是士民每冬中輒一月寒食,莫敢煙ECE0,老小不堪,歲多死者。舉既到州,乃作吊書以置子推之廟,言盛冬去火,殘損民命,非賢者之意,以宣示愚民,使還溫食。於是眾惑稍解,風俗頗革。轉冀州刺史。

ようやく周挙は、並州刺史にうつる。太原郡(郡治は晋陽)で、介子推の亡月に、火をたかない旧俗がある。火をたかないから、老小は凍え死んだ。周挙は、この愚かな旧俗をやめた。民は、温かい食事ができた。

ぼくは思う。旧俗を廃するとは。現地の特色をなくし、中央集権することにつながる。身近な例で言えば、日本語を「標準語」に画一化し、方言を駆逐していくように。

転じて、周挙は冀州刺史となる。

つぎに出てくる左雄も、冀州刺史だった。冀州は、并州とならんで、まだ現地色が強い。腕前のある人が刺史となり、豪族を取り締まる必要があったのか。


左雄に推されて尚書となり、司徒を個人攻撃

  陽嘉三年,司隸校尉左雄薦舉,征拜尚書。舉與僕射黃瓊同心輔政,名重朝廷,左右憚之。是歲河南、三輔大旱,五穀災傷,天子親自露坐德陽殿東廂請雨,又下司隸、河南禱祀河神、名山、大澤。詔書以舉才學優深,特下策問曰:「朕以不德,仰承三統,夙興夜寐,思協大中。頃年以來,旱災屢應,稼穡焦枯,民食困乏。五品不訓,王澤未流,群司素餐,據非其位。審所貶黜,變複之征,厥效何由?分別具對,勿有所諱。」舉對曰:

陽嘉三年(134年)、司隸校尉の左雄が、周挙を尚書とした。

左雄伝にある。左雄があげた将軍・馮直が、ワイロした。周挙は、左雄に恩があるけれど、左雄を罰した。左雄は、ただしく刑罰が行われたので、周挙の裁きを喜んだ。

周挙は、僕射の黃瓊と同心・輔政した。朝廷で名が重い。左右は、周挙と黄瓊をはばかる。
この歳、河南と三輔で、日照。五穀が災傷した。順帝は、德陽殿の東廂に座り、雨乞した。司隸校尉と河南太守は、神を祭る。順帝は、日照への対策を聞いた。「儒教の教え・五品は、行き渡らず。役人は、ふさわしくない地位にいて、俸禄ドロボウである。どの役人を辞めさせれば、誤りが正されるか」と。周挙が答えた。

  臣聞《易》稱「天尊地卑,乾坤以定」。二儀交構,乃生萬物,萬物之中,以人為貴。故聖人養之以君,成之以化,順四節之宜,適陰陽之和,便男女婚娶不過其時。包之以仁恩,導之以德教,示之以災異,訓之以嘉祥。此先聖承乾養物之始也。夫陰陽閉隔,則二氣否塞;二氣否塞,則人物不昌;人物不昌,則風雨不時;風雨不時,則水旱成災。陛下處唐、虞之位,未行堯、舜之政,近廢文帝、光武之法,而循亡秦奢侈之欲,內積怨女,外有曠夫。今皇嗣不興,東宮未立,傷和逆理,斷絕人倫之所致也。非但陛下行此而已,豎宦之人,亦複虛以形勢,威侮良家,取女閉之,至有白首歿無配偶,逆于天心。昔武王入殷,出傾宮之女;成湯遭災,以六事克已;魯僖遇旱,而自責祈雨;皆以精誠,轉禍為福。自枯旱以來,彌歷年歲,未聞陛下改過之效,徒勞至尊暴露風塵,誠無益也。又下州郡祈神致請。昔齊有大旱,景公欲祀河伯,晏子諫曰:「不可。夫河伯以水為城國,魯鱉為民庶。水盡魚枯,豈不欲雨?自是不能致也。」陛下所行,但務其華,不尋其實,猶緣木求魚,卻行求前。誠宜推信革政,崇道變惑,出後宮不禦之女,理天下冤枉之獄,除太官重膳之費。夫五品不訓,責在司徒,有非其位,宜急黜斥。臣自籓外擢典納言,學薄智淺,不足以對。《易傳》曰:「陽感天,不旋日。」惟陛下留神裁察。

周挙が言う。「順帝は、文帝や光武帝の方法をやめ、亡秦の奢侈をする。後宮に女性をおおく抱えて、金をかけすぎだ。後宮を減らせ。無実の罪を、修正しろ。いま儒教の五品が行き渡らないのは、司徒の責任だ」と。

  因召見舉及尚書令成翊世、僕射黃瓊,問以得失。舉等並對以為宜慎官人,去斥貪污,離遠佞邪,循文帝之儉,尊孝明之教,則時雨必應。帝曰:「百官貪污佞邪者為誰乎?」舉獨對曰:「臣從下州,超備機密,不足以別群臣。然公卿大臣數有直言者,忠貞也;阿諛苟容者,佞邪也。司徒視事六年,未聞有忠言異謀,愚心在此。」其後以事免司徒劉崎,遷舉司隸校尉。

順帝は、周挙と、尚書令の成翊世、僕射の黃瓊を召し、得失を問うた。周挙らは答えた。「貪汚な人をのぞき、文帝の倹約をマネて、明帝の教訓を尊べば、雨は降る。日照はおさまる」と。これを踏まえ、順帝は聞いた。「百官のうち、貪汚・佞邪な人は誰か」と。
周挙だけが答えた。「私は地方官から、尚書になりました。郡臣をくわしく知りません。だが公卿・大臣のうち、しばしば直言する人は、忠貞だ。阿諛・苟容する人は、佞邪だ。いまの司徒は、6年も司徒を務めるが、いちども忠言・異謀がない。私は、司徒が佞邪だと思う」と。
のちに、司徒の劉崎を免じた。周挙は、司隸校尉にうつる。

周挙は、司徒の劉崎を、個人攻撃した。周挙は、李郃と朱倀のとき、司徒の吏をした。司徒のやるべき職務について、詳しかったのだろう。
周挙にとっての「忠貞」とは。皇帝の感情に流されず、故事にしたがった政治へと、皇帝を導く人。大陸の人は、歴史書を手本に生きる。その生き方は、歴史書の文体をまねて記される。結果、おなじことの繰り返しが、歴史として、再生産され続けるように見える。こういう価値観。変化=いいこと、ではない。


次回、順帝の八使として、地方を回ります。

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