表紙 > 曹魏 > 『三国志』巻16・蘇則伝、漢魏革命に動揺するが、麹演をたいらげる

漢魏革命に動揺するが、麹演をたいらげた蘇則伝

驢馬の会をうけて、蘇則伝を復習。『三国志集解』を読みます。

扶風の著姓、興平のとき北地に避難する

蘇則字文師,扶風武功人也。少以學行聞,舉孝廉茂才,辟公府,皆不就。起家為酒泉太守,轉安定、武都,所在有威名。
魏書曰:則剛直疾惡,常慕汲黯之為人。

蘇則は、あざなを文師。扶風の武功の人だ。

『郡国志』はいう。司隷の右扶風だ。建安十八(213)、右扶風は、雍州に属す。魏代に「右」の字がはずれた。

蘇則は、孝廉、茂才にあげられ、公府に辟された。みな就かず。起家して、酒泉太守となる。安定太守、武都太守に転じる。任地で、威名あり。

酒泉も安定も武都も、涼州に属す。ぼくは思う。公府といっても、建安に入ってからは、ほぼイコール曹操だ。曹操を拒んだとすると、どうも都合がわるい。建安より前に、孝廉や茂才にあがったのだろう。つぎ、興平の記事が裴注にある。
地元・涼州の太守を、3つも転任してる。こういう人事もあるのだなあ。よほど太守として、治績をあげたのだと思う。後漢末の涼州は、反乱ばかりである。

『魏書』はいう。蘇則の性質は、剛直で疾惡。つねに(前漢の) 汲黯をしたう。

魏略曰:則世為著姓,興平中,三輔亂,饑窮,避難北地。客安定,依富室師亮。亮待遇不足,則慨然歎曰:「天下會安,當不久爾,必還為此郡守,折庸輩士也。」後與馮翊吉茂等隱於郡南太白山中,以書籍自娛。及為安定太守,而師亮等皆欲逃走。則聞之,豫使人解語,以禮報之。

『魏略』はいう。蘇則は、世よ著姓だ。興平中(194-195)、三輔がみだれ、饑窮して、北地郡(涼州) に避難した。

ぼくは思う。興平に三輔がみだれるとは、献帝が長安を脱出したことをいう。著姓が故郷を捨てたくなるほど、みだれたのですね。長安の局地戦だけでなく、周囲の豪族を、あらかた巻きこんだ。

安定にゆき、富室の師亮をたよる。蘇則は師亮に冷遇されたので、慨然として歎じた。「ほどなく天下が平安したら、私は安定太守となり、輩士を折庸してやる」と。のちに蘇則は、馮翊の吉茂らと、安定の郡南にある太白山(武功県) にかくれた。

吉茂は、常林伝にひく『魏略』にある。

書籍を読んで、自娛した。のちに蘇則は、安定太守となる。師亮らが逃走したい。蘇則は「師亮の冷遇に、報復するつもりない」とつたえた。

ぼくは思う。 『漢書』巻120・汲黯伝を読まねば。前漢の武帝のときの人。好き嫌いがはげしく、地方政治はこまかく手をださず、言いたいことは言ったみたい。
いま蘇則は、師亮にムカついて「覚えておけ」と脅したが、じっさいに報復しなかった。ただ口がきたなかったのだ。行動は、常識的だけど。
どうやら興平より前に、酒泉太守となり、建安になってから、安定太守、武都太守になったようです。安定太守は、曹操の意向をうけたものだろう。


下弁の氐族、武都、金城を治め、劉備をふせぐ

太祖征張魯,過其郡,見則悅之,使為軍導。魯破,則綏定下辯諸氐,通河西道,徙為金城太守。是時喪亂之後,吏民流散饑窮,戶口損耗,則撫循之甚謹。外招懷羌胡,得其牛羊,以養貧老。與民分糧而食,旬月之間,流民皆歸,得數千家。乃明為禁令,有干犯者輒戮,其從教者必賞。親自教民耕種,其歲大豐收,由是歸附者日多。李越以隴西反,則率羌胡圍越,越即請服。太祖崩,西平麹演叛,稱護羌校尉。則勒兵討之。演恐,乞降。文帝以其功,加則護羌校尉,賜爵關內侯。

曹操が張魯を征するとき、蘇則の武都郡をすぎた。曹操は、蘇則に会ってよろこび、蘇則に軍導させた。張魯をやぶると、蘇則は下辯の諸氐をたいらげ、西道を通河した。金城太守となる。

ぼくは補う。下弁の氐族は、劉備への対策だ。曹操は氐族や武都をうつして、劉備がこれを利用できないようにした。楊阜伝にある。
『三国志』巻25・楊阜伝、涼州刺史・韋氏の父子につかえ、馬超をこばむ

このとき金城郡は、喪亂した後で、吏民は流散・饑窮した。戸口は損耗した。蘇則は、戸口を撫循すること、はなはだ謹ましい。そとに羌胡を招懷し、牛羊をもらい、貧老をやしなう。民と食料をわけて食べた。旬月の間に、流民は、みな蘇則に帰した。禁令をあきらかにした。耕作をおしえ、豊作となる。

ぼくは思う。金城は、韓遂の根拠地。だから、荒れた。けっきょく涼州は、後漢に属しにくい治安のわるい土地から、曹操と劉備の緩衝地帯へとかわった。涼州の地方官の仕事は、自国の近い場所に、人をあつめること。
ぼくは思う。この時期、劉備が領土を勝ちとるのは、なぜか。曹操に対抗できたのは、なぜか。もともと後漢で治まらない地域に、入りこんだからだ。劉備が曹操をこまらせたのでなく、涼州が漢室をこまらせたのだ。劉備は、のっかっただけ。

李越が隴西でそむく。羌胡をひきい、越県をかこむ。越県は、請服した。曹操が崩じると、西平の麹演がそむき、護羌校尉を称した。蘇則は、麹演をくだす。曹丕は、蘇則を護羌校尉、關內侯にする。

魏名臣奏載文帝令問雍州刺史張既曰:「試守金城太守蘇則,既有綏民平夷之功,聞又出軍西定湟中,為河西作聲勢,吾甚嘉之。則之功效,為可加爵邑未邪?封爵重事,故以問卿。密白意,且勿宣露也。」既答曰:「金城郡,昔為韓遂所見屠剝,死喪流亡,或竄戎狄,或陷寇亂,戶不滿五百。則到官,內撫彫殘,外鳩離散,今見戶千餘。又梁燒雜種羌,昔與遂同惡,遂斃之後,越出障塞。則前後招懷,歸就郡者三千餘落,皆恤以威恩,為官效用。西平麹演等倡造邪謀,則尋出軍,臨其項領,演即歸命送質,破絕賊糧。則既有恤民之效,又能和戎狄,盡忠效節。遭遇聖明,有功必錄。若則加爵邑,誠足以勸忠臣,勵風俗也。」

『魏名臣奏』はいう。曹丕は、雍州刺史の張既に聞いた。「金城太守の蘇則に、爵邑をあたえるべきか」と。張既はこたえた。「むかし金城は、韓遂に屠剝された。梁燒の雜種羌は、韓遂とむすんだ。西平の麹演は、そむいた。蘇則は、これらを平定した。蘇則に爵邑をあげたら、忠臣がはげまされる」と。

ぼくは思う。曹操が漢中を劉備にとられたあと、いちばん最後まで手こずったのが、金城だろう。だから蘇則をのこした。張既は、蘇則の上司として、蘇則の仕事を評価した。涼州は、曹丕のときまで、リアルタイムの懸案だ。解決していないから、蘇則に爵邑をあたえ、はげました。涼州は、張既がいるうち、かろうじて保たれた。張既が死ぬと、諸葛亮がチョッカイをだした。張既伝は、これ。
『三国志』巻15・張既伝、献帝がぬけた西方を、曹丕のとき収束する


第二の韓遂・麹演がそむき、越境して平定

後演複結旁郡為亂,張掖張進執太守杜通,酒泉黃華不受太守辛機,進、華皆自稱太守以應之。又武威三種胡並寇鈔,道路斷絕。武威太守毌丘興告急於則。

西平の麹演は、ふたたび叛乱した。張掖の張進は、張掖太守の杜通をとらえた。酒泉の黄華は、酒泉太守の辛機をこばんだ。張進と黄華は、みずから太守を名のって、麹演に応じた。
武威では、三種の胡族があばれ、道路が絶えた。武威太守の毌丘興(毋丘倹の父) は、蘇則に助けを求めた。

胡三省はいう。韓遂を誅したのは、麹演である。けだし麹演は、涼州に威行があった。ゆえに張進らは、麹演に応じた。
ぼくは思う。韓遂を誅したのが麹演だと、知らなかった。麹演は、第二の韓遂といえる。張既-蘇則のラインは、ある部分では、麹演の力をかりて、涼州を統治していたのだろう。曹操が死んだので、麹演は、張既-蘇則への協力を解除した。現地の豪族を手なずけて統治し、その豪族がそむくと弾圧する。この反復によって、統治を浸透させてゆく。ありがちなパタンである。


時雍、涼諸豪皆驅略羌胡以從進等,郡人鹹以為進不可當。又將軍郝昭、魏平先是各屯守金城,亦受詔不得西度。則乃見郡中大吏及昭等與羌豪帥謀曰:「今賊雖盛,然皆新合,或有脅從,未必同心;因釁擊之,善惡必離,離而歸我,我增而彼損矣。既獲益眾之實,且有倍氣之勢,率以進討,破之必矣。若待大軍,曠日持久,善人無歸,必合於惡,善惡既合,勢難卒離。雖有詔命,違而合權,專之可也。」於是昭等從之,乃發兵救武威,降其三種胡,與興擊進於張掖。演聞之,將步騎三千迎則,辭來助軍,而實欲為變。則誘與相見,因斬之,出以徇軍,其黨皆散走。則遂與諸軍圍張掖,破之,斬進及其支黨,眾皆降。演軍敗,華懼,出所執乞降,河西平。乃還金城。進封都亭侯,邑三百戶。

ときに雍州と涼州の豪族は、羌胡をつれて、張進にしたがう。郡人は、だれも張進に敵わない。将軍の郝昭と魏平は、さきに金城にいた。詔書をうけても、郝昭は西にゆけない。

郝昭のことは、明帝紀の太和二年にひく『魏略』にある。
小説『ぼっちゃん 魏将・郝昭の戦い』を、史料と照合する
金城は、東にある。武威、張掖、酒泉は、西にある。だから郝昭は「西にゆけない」と記された。胡三省は言う。金城は、武威、張掖、酒泉とのあいだに、黄河でへだたる。
ぼくは思う。黄河の東・金城にいて、洛陽とつながり、黄河の西を統治する。金城は、そういう役割の土地だったかも。統括会社みたいな。

蘇則は、郡中の大吏と、郝昭ら将軍と、羌豪の帥に言った。「魏朝の大軍を待ったら、タイミングを失う。魏朝の命令に叛いてでも、さっさと平定してしまうべきだ」

ぼくは思う。涼州の土地柄が、よく分かる。魏朝に、味方する人も敵対する人も、どちらも洛陽に伺いを立てている時間はない。独自に動くしかない。諸葛亮の北伐を考えるとき、参考になる。

郝昭は、蘇則にしたがう。郝昭は、武威郡を救った。三種の胡族を降して、張進、麹演をやぶる。黄華はくだる。

胡三省はいう。裴松之によると、黄華はのちに兗州刺史となり、王淩について上奏した人である。ぼくは思う。涼州でそむいたくせに、曹魏の高官になっちゃったよ。

河西を、たいらぐ。蘇則は、金城にもどる。

盧弼はいう。蘇則は金城太守であるが、越境して隴西をかこみ、李越を服させた。武威をすくい、張掖をうち、麹演をうった。張進をきり、黄華をくだした。太守が越境することは、辺境で、すばらしいこと。このとき、毋丘興も功績があった。毋丘倹にひく『魏名臣奏』にある。
ぼくは思う。太守の越境といえば、孫堅である。孫堅は、後漢のルールをやぶった。しかし、孫堅のルール違反をとがめるのは、正しくないかも。曹魏の蘇則は、おなじことをやり、つぎに中央に栄転する。


献帝のために喪を発し、曹丕に諫言しまくる

徵拜侍中,與董昭同寮。昭嘗枕則膝臥,則推下之,曰:「蘇則之膝,非佞人之枕也。」初,則及臨菑侯植聞魏氏代漢,皆發服悲哭,文帝聞植如此,而不聞則也。帝在洛陽,嘗從容言曰:「吾應天而禪,而聞有哭者,何也?」則謂為見問,須髯悉張,欲正論以對。侍中傅巽掐音苦洽反。則曰:「不謂卿也。」於是乃止。

蘇則は徵され、侍中となる。董昭と同寮となる。「蘇則のひざは、佞人のマクラじゃない」と言った。
曹植は、漢魏革命のとき、服喪して悲哭した。蘇則も服喪したが、曹丕はこれを知らない。曹丕は蘇則に「漢魏革命で、哭いた人がいたが、なぜか」と聞いた。蘇則は自分がとがめられたと思ったが、侍中の傅巽に「曹植の話だ」と教わった。

おもしろいが、とくの盧弼の注釈はない。とかく中央は、生きづらい。
ぼくがおもしろいと思うのは、辺境の涼州では、すなおに漢魏革命を残念がったということ。曹操が死ぬと、麹演がそむいたように、涼州には曹魏の威勢がおよびにくい。そもそも漢魏革命は、なかなか支持されない。論理と儀礼を積みかさねても、漢室400年の実感には、かなわない。洛陽で、風見鶏をやっている人は、「漢魏革命を支持しといたほうが、よさそう」と感じとることができる。しかし洛陽から離れると、漢魏革命を、とうてい容認できるものでない。前に、禅譲に失敗した名家の人だって、いたのだ。
劉備が益州で皇帝即位するが、かろうじて支持された。劉備が適任者として支持されたのでなく、それだけ漢魏革命が受けいれられなかったのだ。


魏略曰:舊儀,侍中親省起居,故俗謂之執虎子。始則同郡吉茂者,是時仕甫曆縣令,遷為冗散。茂見則,嘲之曰:「仕進不止執虎子。」則笑曰:「我誠不能效汝蹇蹇驅鹿車馳也。」

『魏略』はいう。『旧儀』によれば、侍中は皇帝の便器を持つ。同郡の吉茂は、県令を歴任し、冗散(閑職) となる。吉茂は蘇則に、「いくら中央づとめでも、便器もちはイヤだな」と言った。

魏略曰:初,則在金城,聞漢帝禪位,以為崩也,乃發喪;後聞其在,自以不審,意頗默然。臨菑侯植自傷失先帝意,亦怨激而哭。其後文帝出遊,追恨臨菑,顧謂左右曰:「人心不同,當我登大位之時,天下有哭者。」時從臣知帝此言,有為而發也,而則以為為己。欲下馬謝。侍中傅巽目之,乃悟。
孫盛曰:夫士不事其所非,不非其所事,趣舍出處,而豈徒哉!則既策名新朝,委質異代,而方懷二心生忿,欲奮爽言,豈大雅君子去就之分哉?詩雲:「士也罔極,二三其德。」士之二三,猶喪妃偶,況人臣乎?

『魏略』はいう。蘇則が金城にいたとき、漢帝が禅位したと聞き、漢帝が崩じたと思い、喪を発した。のちに蘇則は、曹丕から、曹植が喪を発した話をふられ、下馬して謝ろうとした。

ぼくは思う。蘇則の頭のなかは「漢帝が死にでもしないと、位をゆずることはない」という前提がある。このとき、禅譲は前例がなく「儀礼的創出」と言われるぐらいである。蘇則のもつ前提が、世論の大多数だろう。
曹植は、献帝が生きていることを知っているから、漢室のために服喪した。蘇則は、献帝が死んだと思って、服喪した。理由がちがうなあ。
蘇則が下馬して謝りたかったのは、「曹丕が献帝を殺したと思って、ごめん」なのか、「漢魏革命を残念がってごめん」なのか。なんだろう。

孫盛はいう。蘇則は、漢室と魏室につかえた。一貫しないからダメだ。

文帝問則曰:「前破酒泉、張掖,西域通使,敦煌獻徑寸大珠,可複求市益得不?」則對曰:「若陛下化洽中國,德流沙漠,即不求自至;求而得之,不足貴也。」帝默然。後則從行獵,槎桎拔,失鹿,帝大怒,踞胡床拔刀,悉收督吏,將斬之。則稽首曰:「臣聞古之聖王不以禽獸害人,今陛下方隆唐堯之化,而以獵戲多殺群吏,愚臣以為不可。敢以死請!」帝曰:「卿,直臣也。」遂皆赦之。然以此見憚。黃初四年,左遷東平相。未至,道病薨,諡曰剛侯。子怡嗣。怡薨,無子,弟愉襲封。愉,咸熙中為尚書。

曹丕は蘇則に問う。「酒泉と張掖をやぶり、西域につうじた。敦煌は、大珠を提出した。西域と交易したらどうか」と。蘇則は「徳がゆきわたり、自然と宝物があつまるもの。交易するな」と言った。曹丕は、だまった。
のちに曹丕が校猟すると、オリがぬけて、鹿がにげた。曹丕は、オリ担当の役人を斬りたい。蘇則が言った。「禽獣のことで、人を殺すな」と。曹丕は「直臣めが」と言い、オリ担当の役人をゆるした。黄初四年、蘇則は東平相に左遷された。

『御覧』453は『魏略』をひく。蘇則は侍中となる。飢饉だが、軍事と造宮の費用がかさむ。蘇則がいさめたので、河東相とされた。
盧弼は考える。おなじ『魏略』なのに、東平と河東がちがう。皇族の列伝によると、黄初三年、曹霖を河東王とした。太和六年、曹霖を、寿張王にうつす。おなじ歳、曹キが東平王となる。このとき、東平王の国ができた。黄初四年、蘇則が左遷されたとき、まだ東平国がない。河東相の誤りである。『世説新語』にひく『魏書』でも、蘇則は河東相とされる。裴注の東平は、誤りである。

東平への道中で、蘇則は死んだ。剛侯とされる。

ぼくは思う。曹叡に諫言する記事は、よく見る。だが曹丕に「財政がわるい」と諫言する話を、ほかに知らない。けっきょく、いつの時代も、どの君主も、つっこまれドコロは、同じなのかなあ。


まとめ。蘇則は、漢魏革命を聞き、発喪した。涼州は、魏軍の到着が遅れる地域。魏軍を期待せず、自己責任で、だれに味方するかを決めねばならない。曹氏の顔色を伺わず、本心で行動するしかない。洛陽周辺は、前例なき「禅譲革命」を受容したように装ったが、本心は蘇則のように動揺したはず。蘇則の反応が、漢末のすなおな反応だ。
諸葛亮は涼州を攻める。涼州は、長安をうかがう軍事的な要衝。西域と交易できる、商業的な拠点。それだけでなく、漢魏革命にいまいち「慣れない」人びとがいるから、諸葛亮がねらったのかも。諸葛亮がいただく劉禅は、漢室の後継者だから。蘇則が中央でヘタをこき、同郷人に「中央づかえなんて、ロクでもない」と言われているのは、そういう涼州の風土を反映しているように思う。110625

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