表紙 > ~後漢 > 方詩銘氏の孫堅論「軍事力の量的形成」を抄訳する

方詩銘氏の孫堅論「軍事力量の形成」を翻訳

方詩銘氏の孫堅論「軍事力量の形成」等(『論三国人物』)を翻訳します。わりにストイックに訳しますが、もとが面白いので、読んでいただけるはず。

「軽侠」の徒、孫堅

「孫堅は、小愚だが、人づかいがうまい。諸将は、孫堅をさけろ」と。これは董卓が孫堅にした評価だ。董卓は、二袁(袁紹と袁術)以外、眼中になかった。董卓は、長史の劉艾に言った。「関東の軍は、董卓を畏れて何もできない」と(孫堅伝にひく『山陽公載記』)。ただ董卓は、孫堅のことは、よく知った。かつて董卓と孫堅は、ともに辺章と韓遂と戦ったからだ。
「孫堅は小愚」を「ちょっと愚か」とする、訓詁の理解では充分でない。孫堅伝で、董卓は孫堅を「猛壮」という。董卓は、孫堅をほめたのだ。

孫堅伝と、注釈『呉録』で、孫堅は王叡を殺した。王叡は、孫堅がただの武官だから、軽んじた。孫堅は長沙太守だ。太守は、ただの武官でない。王隆『漢官篇』によると、太守の職務の1つは、「暴残を誅討」することだ。しかし太守=武官でない。王叡が孫堅を軽んじたのは、孫堅が長沙太守だからでなく、孫堅その人を軽視したからだ。『後漢書』献帝紀にひく『王氏譜』によれば、王叡は、西晋の太保・王祥の伯父である。王叡は琅邪王氏という名族が出身だ。王叡の反応は、当時の、名族から孫堅への反応を代表する。名族は、孫堅を重視しない。

ぼくは補う。「名族」とカンタンに書いたが。原文は、「顕赫世族」である。っていうか、琅邪王氏が栄えるのは、西晋や東晋だ。この時点で、名族扱いしていいのか。あとから方氏は、王叡を、袁紹や袁術とグルーピングする。いいのか。

孫堅は、敵の董卓から重視された。だが孫堅は、同一の陣営にいる王叡に、軽視された。対称的である。
董卓は、名族に属さない。董卓は孫堅をほめるだけでなく、孫堅の子弟を、刺史や郡守とした(孫堅伝)。董卓は孫堅を重視したとわかる。王叡とは、正反対の評価だ。なぜ孫堅は、名族から軽視されたか。

孫堅伝で、孫堅は、仮尉や県丞となる。どちらも官位が低い。「孫堅は、世よ呉に仕えた」とするのは、韋昭による虚美である。『太平御覧』巻559に『幽明録』があり、孫堅の父は孫鍾という。家が貧しかったとする。出自が低微だから、王叡に軽視された。
孫堅その人も、賎しいエピソードがある。呉氏は、孫堅が「軽侠」だから、婚姻を拒んだ。だが「取禍」を恐れて、孫堅と結婚した(呉夫人伝)と。記述はカンタンだが、「軽侠」とは何か。なぜ結婚をことわると「取禍」となるのか。考えるべきだ。
疑いなく「軽侠」は、厳重な貶詞である。『後漢書』楊終伝に、軽侠な人は「無行」に属すとある。無頼のことだ。同袁紹伝、同王奐伝には、ものを盗むという意味で用例がある。つまり「軽侠」とは、無頼な強盗である。だから孫堅は、呉氏から畏れられた。これが孫堅が早期に、故郷の富春でつくられたイメージだ。実像に近かろう。
ではなぜ、富春で仮尉(役人)となった孫堅が、ひとの家から盗むのか。同じタイプの人が、江南にいる。賀斉伝に、「会稽の県吏は軽侠で、奸をなした。この県吏を平定しよう」とある。この会稽の県吏は、孫堅と同じだ。もっとも、会稽の県吏は、山越を糾合して県を攻めたが、孫堅はここまでしない。

『三国志』の呉志は、孫呉がつくった韋昭の『呉書』が元ネタだ。早年の孫堅のクロ歴史について、隠された。呉氏のエピソードは、孫策と孫権の母が、英雄を見抜いて嫁いだ話となる。実像とちがう。
『三国志』劉曄伝にも、似た話がある。鄭宝は軽侠で豪傑タイプの人だ。個人的な武量にすぐれ、勇敢で部曲をひきいた。利益をもとめ、劫略した。孫堅と同じだ。呉郡と会稽あたりに、軽侠な豪傑がいたのだ。

ぼくは補う。鄭宝については、おなじ本の魯粛のところで、また方氏が論じる。


孫堅が、軍事の力量を形成する

出自の低微な孫堅が、どうして長沙太守という高位についたか。長沙の区星を平定するため、後漢が武力を求めたからだ。孫堅は郡境をこえ、零陵と桂陽の「盗賊」を討った。揚州の豫章も討った。孫堅伝にひく『呉録』で、廬江太守の陸康を、孫堅は救った。主簿が孫堅を諌めると、孫堅は「太守に文徳がない。郡境を越えてもよい」と言った。これは孫堅の「猛壮」な性格をあらわす。後漢のルールを破り、討伐をやった。『後漢書』李章伝に、太守は境界を出ないとある。孫堅はルールを無視した。孫堅は太守だが、行動は「軽侠狡傑」のままだ。
『後漢書』霊帝紀の中平4年10月、朱治伝の中平5年に、長沙太守の孫堅が、零陵、桂陽をハデに動いたとある。孫堅がやった、この巨大な行動は、どのような性質の起兵か。なぜ孫堅は、ルールを無視して越境したか。
黄蓋伝は、孫堅が「南にゆき、山賊を破る」と記す。これが孫堅の行動の理由だ。では「山賊」とは、どんな身分か。

『後漢書』や『三国志』では、会稽、呉郡、丹楊、豫章、廬陵、新都、鄱陽らに「山賊」ないし「山越」が出る。「山越」は、「山賊」の一部だ。陸遜伝に、「大姓豪強は、山民をあつめて兵とした」とある。陸凱伝にも山賊が出る。『後漢書』陳蕃伝にも出る。孫堅は、山民を補充して、軍事の力量を拡大した。租税と徭役を課して、財産をたくわえた。後漢からもらう、烏程侯の収入にプラスした。

ぼくは補う。孫堅は、呉郡に基盤がない。だから荊州内部の叛乱にかこつけ、兵を増やした。おもしろい話。後漢からほめられることは、第一目的でない。だから後漢のルールをやぶって、越境した。とても、スジが通る話だ。

孫堅が越境して討伐したのは、山賊を自軍に加えるプロセスだ。

孫堅と袁術

袁紹が関東の牧守をあつめ、董卓と戦った。孫堅は、袁紹に加わる。だが孫堅は董卓をねらわず、同一陣営の荊州刺史・王叡を攻撃した。『後漢書』献帝紀にひく『呉録』はいう。王叡が「私に何の罪がある」と聞いた。孫堅は「座して、知るところなし」と言った。王叡は、金を削って服毒した。孫堅は、軽視されたことを怒った。だが孫堅に、さらに大きな企図がある。王叡から荊州を奪い、地盤と軍事の力量を拡大したい。王叡が罪を問うたが、孫堅はろくに答えなかった。孫堅は長沙太守&烏程侯であるが、ずっと「軽侠狡傑」な無頼である。この性格は改まらない。

孫堅を「後漢の忠臣」とする解釈を、方氏はとらない。越境したことを証明のキモとし、後漢の反逆者とする。韋昭『呉書』とは異なる立場だ。だが、孫呉の独立を早めに見積もりたいなら、方氏の議論のほうが、話が分かりやすい。


孫堅の第2の目標は、また同一陣営の張咨だ。

ほんとうに「同一陣営」なのか。方氏は、孫堅の叛逆を強調したいから、「敵でなく味方ばかり攻撃する、無頼」だとする。しかし、孫堅が袁紹集団の一員だと名を連ねたことは、ないはず。べつに孫堅は、仲間内を攻撃しているのではない。

孫堅伝と、そこにひく『呉歴』とで、張咨を殺害するダンドリがちがう。どちらにせよ、孫堅の無頼な性格が反映され、後ろ暗い手段で、同僚を殺したとわかる。孫堅は「軽侠狡傑」なのだ。
孫堅は、南陽という地盤を得ただけでない。郡中が振慄し、みな孫堅に従った(孫堅伝)。孫堅は、董卓を討つための同盟に加わった。しかし主要な目的は、自己の地盤と軍隊を拡大することだった。

ここで1つの問題が生じる。孫堅は南陽を得たのち、なぜすぐに孫堅は、手をこまねいて、袁術に南陽をプレゼントしたか。孫堅の行動を理解するのは難しい。『後漢書』袁術伝の記述はカンタンだ。孫堅、袁術、劉表のあいだで、とくに矛盾がなかったように記す。しかし、歴史の事実は、絶対にそんなカンタンでない。
孫堅が南陽太守の張咨を殺したとき、袁術はすでに南陽を「抵達」していた。袁術は南陽に出奔したとき、河南尹、虎賁中郎将である。袁紹とならんで、著名な人物だ。
劉表は名士で、党錮の禍をうける。八顧だ。孫堅が殺した張咨は、孫堅伝にひく『英雄記』で、潁川の名士である。張咨は、韓馥、劉岱、孔伷らと、同じ時期に地方官になった。名士を殺した孫堅の行動は、袁紹、劉岱、孔伷らだけでなく、袁術と劉表の2人にも、容忍できないものだ。

劉表と袁術がセットで、孫堅だけが外野。この対立構図、考えたことがなかった。孫堅は、袁紹ら名士から、すべて孤立していた。勝手に自分の地盤と軍隊ばかり、強化するから。なるほど。まあ、あと数年したら、袁紹が豫州に攻めこみ、自分の地盤と軍隊を拡大しようとする。やってることは、まったく同じなのだ。

孫堅が王叡と張咨を殺した。目的は、荊州を奪取することだ。孫堅は長沙太守で、かつて零陵と桂陽で戦った。江夏太守の劉祥は、孫堅と同心だ(劉巴伝にひく『零陵先賢伝』)。武陵太守の曹寅は、王叡を殺したときの共謀者だ(孫堅伝にひく『呉録』)。基本的に、孫堅は荊州を抑えたとわかる。王叡と張咨を殺せば、あと一歩で、すべて荊州が入る。

「あと一歩」とは、孫堅が、劉表と袁術を排除することだ。

劉表は、後漢が命じた荊州刺史だ。劉表は、地元の蒯越や蔡瑁から、支持された。劉表は、地盤を固め始めた。同時に劉表は、袁術に好意をしめし、上表して南陽太守とした。

孫堅が殺した、荊州刺史と南陽太守が空いてる。このポストに、キレイに劉表と袁術が、スッポリ入ったことになる。たしかに、孫堅のみを敵と見て、劉表と袁術をペアにみることは可能かも。驚くなあ。考えたことなかった。

劉表と袁術は、しばらく連合した。たがいに利用し、孫堅に対抗するための連合だ。袁紹、劉岱、孔伷らも、孫堅を敵視した。孫堅は、完全に四面楚歌となった。だから孫堅は手をこまねいて、南陽の地盤を袁術にささげた。完全に、強迫されてやむを得ず、袁術に南陽をわたしたのだ。

孫堅の死

劉表と袁術は、当然に知っていた。孫堅に心をゆるせないと。ただ孫堅を荊州から引きはがせば、荊州は太平となると。だから袁術は、孫堅から南陽をもらった代わりに、孫堅を豫州刺史とした。劉表と袁術は、孫堅に董卓を攻めさせ、豫州を董卓から奪えと、孫堅に促した
孫堅は陽人で董卓と戦った。『後漢書』董卓伝はいう。董卓は、徐栄と李蒙をやり、孫堅と梁県で戦った。潁川太守の李旻を生け捕り、煮殺したと。孫堅は荊州兵をひきいた。長沙から連れてきた兵だ。董卓伝で、孫堅は豫州の諸郡の兵もひきいた。孫堅は豫州にすすみ、董卓を攻撃したとわかる。豫州の諸郡は、孫堅に従った。煮殺された潁川太守の李旻は、孫堅に従った諸郡の1人だ。
『太平御覧』巻645にひく『英雄記』はいう。董卓は、李旻と張安を、畢圭宛で煮殺したと。ここには、張安が出てくる。身分は分からないが、豫州の太守の1人だろう。洛陽に迫る前に、孫堅はすでに豫州をおさえたと、言わねばならない。

豫州には、6つの郡国がある。潁川、汝南、梁国、沛国、陳国、魯国だ。『後漢書』と『三国志』で、孫堅の生前と死後に、太守や国相がどんなだか、確認する。
(1) 潁川は、『後漢書』董卓伝に見たように、李旻が董卓に煮られた。『三国志』夏侯淵伝は、夏侯淵が陳留、潁川太守となったとする。曹操が任命したのは、建安初年に、曹操が袁術を敗走させたあとだ。その間、呂布が潁川太守に任じられた。董卓の部将・李傕と郭汜が任命したものだ。
(2) 汝南は、孫賁伝にひく『江表伝』にいう。孫策の族兄・孫香は、袁術に用いられて汝南太守になった。孫香の父は、孫孺だ。孫孺は、孫堅の再従弟だ。孫香が汝南太守となったのは、袁術に任命されたからだけでなく、孫堅の親族と旧部に属すからだ。
(3) 沛国は、『後漢書』袁術伝にいう。舒仲応は、袁術の沛国相だ。袁術は米10万石を求めたが、百姓に配ってしまった。舒仲応は、袁術が任じた沛相とわかる。
(4) 陳国は、武帝紀で、袁術が置いた陳相の袁嗣が破られた。董卓と戦うとき、陳王の劉寵は、起兵して輔漢大将軍を名のった。孫堅が豫州に進み、董卓を攻撃したとき、劉寵も、孫堅に協力した郡国の1つだろう。のちに劉寵は、袁術に殺された。袁嗣を陳相に任じたのは、このときだろう。
以上、少なくとも孫堅は、潁川、汝南、沛国、陳国を抑えたとわかる。孫堅の死後は袁術がつぎ、汝南、沛国、陳国の3つを抑えた。

ぼくは思う。呂布の潁川太守なんて、あんまり関係ない。だって呂布は、あんまり潁川にいない。ってことは、潁川は空白地帯。もしくは、隣接する勢力が、ほぼ抑えたと見なしていいだろう。例えば、袁術とか。笑


孫堅が豫州をおさえ、洛陽にせまる。このとき袁紹が、孫堅の豫州を奪いにきた。孫堅伝にひく『呉録』はいう。袁紹は、会稽の周喁を豫州刺史とした。『後漢書』袁術伝はいう。会稽の周昕が、豫州を奪った。袁術は怒ったと。袁紹が派遣した豫州刺史は、『呉録』で周喁、『後漢書』で周昕だ。『三国志』公孫瓚伝では周昂である。周喁、周昕、周昂の3つの記述がある。3人は兄弟だ。『資治通鑑』以来、どれが正しいのか議論された。清代の銭大昕は、周昂とする『資治通鑑』に同意せず、周喁とした。趙一清も周喁とした。

どうせ解決しない問題ならば、問題ある現状を、きちんと視える化しておくこと。豫州刺史は、3とおりの記述がある。これを再確認したことに意味があるのだ。

私(方詩銘)も、周喁だと考える。周喁は、特殊な人物である。豫州を奪いたい袁紹が、周喁を選んだのは、偶然ではない。
孫堅伝にひく『会稽典録』はいう。曹操が義兵をおこし、周喁は兵を集めて軍師となった。孫堅と豫州を争ったが、敗れたと。1つの奇怪な現象がある。周喁は、袁紹と密接に見えて、曹操とともに戦っている。曹操の軍師となった。同時に、周喁の兄・周昕は、曹操に兵を1万余人の兵を与えた(孫静伝にひく『会稽典録』)。会稽の周氏の兄弟は、曹操との関係が尋常でない。この奇怪に、説明が必要だ。

方氏がこれを書いたときは、これが「奇怪」だったらしい。今日、袁紹と曹操が同一の集団に属することは、常識と言えるだろう。方氏の功績なのか?わからないなあ。

袁紹と曹操は、同一の政治集団だ。袁紹と曹操は、袁術と敵対した。すでに曹操は兗州を企図し、同時に豫州をねらった。だから豫州を争奪するとき、周喁が刺史として戦った。周喁が袁術に負けて、豫州をあきらめた。孫堅は、ひきつづき豫州をおさえた。孫堅は当時において、相対的に、強大な割拠者となった。

孫堅が豫州をおさえたのち、転じて劉表を攻め、荊州に割拠したい。『三国志』劉表伝はいう。袁術は南陽にいる。孫堅と袁術は合わさり、劉表を攻めた。

袁術と孫堅の関係性が、あまり書かれていない。しぶしぶ、孫堅は袁術に南陽をプレゼントしたという話だった。劉表と袁術は、孫堅を敵視して、同盟したという話だった。この設定について、伏線の回収ができていない。投げ出したら困るなあ。笑

孫堅伝は、孫堅の戦死を記す。この荊州をめぐる戦いで、孫堅は勝利した。孫堅の戦死は、偶然である。戦争に負けたのでない。孫堅は軍の統帥となったが、「軽侠狡傑」な性格が出てしまった。孫堅は、よき軍の領袖ではなかった。110204

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