表紙 > 曹魏 > 『三国志』巻15・南匈奴を解体し、軻比能をやぶった并州刺史・梁習

南匈奴を解体し、軻比能をやぶった梁習

梁習伝の『三国志集解』を読みます。

206年、并州刺史となり、南匈奴を解体

梁習字子虞,陳郡柘人也,為郡綱紀。太祖為司空,辟召為漳長,累轉乘氏、海西、下邳令,所在有治名。還為西曹令史,遷為屬。並土新附,習以別部司馬領並州刺史。

梁習は、あざなを子虞。陳郡の柘県の人だ。

『郡国志』はいう。豫州の陳国だ。呉増僅はいう。漢末、陳王の劉寵が、袁紹に殺されて、国がのぞかれた。ぼくは補う。袁紹じゃなくて、袁術だろ。『三国志集解』ダメじゃん。

梁習は、陳郡の綱紀となる。

綱紀は、劉放伝にある。劉放は涿郡、梁習は陳郡、徐宣と陳矯は広陵の綱紀になった。ぼくは思う。わざわざ劉放伝にとんだのに、これだけしか、書いてない。どんな仕事をするのか、書いてない。

曹操が司空になると、梁習を辟召して、漳長とする。

『郡国志』はいう。兗州の東平にある漳県である。王先謙はいう。曹魏のとき、のぞかれ、『晋書』にない県名だ。

かさねて転じ、乘氏、海西、下邳の県令となる。治めるのが、うまい。

乗氏は、武帝紀の興平二年にある。下邳は、武帝紀の初平四年にある。海西は、徐州の広陵である。
趙一清はいう。梁習は海西令となり、民をみだしたので、地位をおわれた。民は、徐宣をたよる。これは梁習伝なので、梁習のミスを書いてない。盧弼が按ず。徐宣伝には、かくさず書いてある。

許県にもどり、西曹令史となり、西曹属となる。

『三国志』梁習伝と、王思伝はおなじく、西曹令史となり、つぎに「属」となる。「属」とは、西曹属のことである。ぼくは思う。徐宣伝、王思伝を、やってみたくなった。こういう発見が、『三国志集解』を読むたのしさ。

あらたに曹操が領土をとったので(206)、梁習は別部司馬となり、並州刺史を領した。

時承高幹荒亂之餘,胡狄在界,張雄跋扈,吏民亡叛,入其部落;兵家擁眾,作為寇害,更相扇動,往往釭跱。習到官,誘諭招納,皆禮召其豪右,稍稍薦舉,使詣幕府;豪右已盡,乃次發諸丁強以為義從;又因大軍出征,分請以為勇力。

ときに、高幹が荒亂したキズがのこる。胡狄は境界にいて、張雄が跋扈する。吏民は亡叛して、南匈奴の部落に、はいる。

何焯は校正して「雄張」とする。倉慈伝はいう。大姓の雄張という人名だ。ぼくは思う。張姓がおおいから、筆がすべったのだろう。
部落を「南匈奴の」と特定したのは、胡三省である。

諸豪が兵をあつめて、とりでする。梁習が并州にきて、現地勢力を、誘諭して招納した。みな并州の豪右を禮召した。すこしずつ薦舉して、幕府にこさせた。豪右を薦舉しおわると、つぎは諸丁強をあつめ、義從とした。

原文の文字をのこしたら、わかりにくくなった。つまり、はじめ豪族を手なずけ、つぎに武装集団を手なずけたのだ。アタマから、おさえていった。胡三省いわく、義従とは軍勢のこと。

大軍が出征するとき、并州の勇力ある兵士を、さしだせと言われた。

ぼくは思う。「大軍」」とは、曹操である。烏丸を北伐するときには、間に合わない。だって「稍稍」つまり梁習は、少しずつ、この政策を進めたのだから。208年、曹操が荊州をせめるときか。


吏兵已去之後,稍移其家,前後送鄴,凡數萬口;其不從命者,興兵致討,斬首千數,降附者萬計。單于恭順,名王稽顙,部曲服事供職,同於編戶。邊境肅清,百姓布野,勤勸農桑,令行禁止。貢達名士,咸顯於世,語在常林傳。太祖嘉之,賜爵關內侯,更拜為真。長老稱詠,以為自所聞識,刺史未有及習者。

すでに吏兵が去ったのち、じわじわ家をうつした。前後させ、鄴県におくる。数万口。命令にさからえば、兵をおこす。数千を斬首し、万をくだした。南単于は恭順した。匈奴の名王は頭をさげた。匈奴の部曲は、後漢のためにはたらき、匈奴の人口は編入された。農桑をすすめ、禁令はいきわたる。名士を貢達した。常林伝にある。

常林伝はいう。刺史の梁習は、州界の名士を、推薦した。常林、楊俊、王象、荀緯を、曹操はみな県長とした。

梁習は関内侯となる。あらためて「真」を拝した。

ちくま訳は「本官に任命した」だ。つまり梁習は、正式な并州刺史でなかったのか。盧弼がひく校正では「真」でなく「貞」とする。「貞」だと、どういう意味になるのか。

長老は「梁習ほどの刺史を知らない」とたたえた。

并州は荒廃し、冀州にあわさり、8郡を廃す

建安十八年,州並屬冀州,更拜議郎、西部都督從事,統屬冀州,總故部曲。又使於上黨取大材供鄴宮室。習表置屯田都尉二人,領客六百夫,於道次耕種菽粟,以給人牛之費。後單于入侍,西北無虞,習之績也。

建安十八年(213)、并州が冀州にあわさる。

この年に詔があり、14州を9州に統合した。洪亮吉はいう。後漢の中平末(189)、并州がみだれた。定襄、雲中、五原、朔方、上郡ら5郡は、人口が散った。建安十一年、曹操が高幹をやぶり、上党らが「魏」に入れられた。建安十八年、并州がはぶかれ、冀州にあわさる。
ぼくは思う。上党が「魏」に入るとは、魏郡に編入されたってこと?わからんなあ。

梁習は議郎、西部都督從事となり、冀州を統屬した。梁習は、もとどおり部曲をまとめた。

武帝紀の建安十八年、魏郡を東西にわけた。梁習は、魏郡の西部都督従事となったのだ。ぼくは思う。魏郡の西部って、ふつうに元・并州の領域じゃないか。名前がかわっただけで、仕事はおなじ。だって梁習をこえる、并州の刺史はいないのだから。

また、上黨から木材をとり、鄴県の宮室にあてた。梁習は上表し、屯田都尉を2人おく。客六百夫を領し、道次に菽粟を耕種させた。人牛之費を、支給した。

ぼくは思う。并州は、農地が荒れるし、中央との連絡がとだえがち。産業と街道を整備したら、だいじょうぶ。ところで鄴県は、天下の中心でありながら、すぐとなりに、南匈奴がいる。こわいなあ。だから袁紹は、せっせと討伐した。西晋は、匈奴にほろぼされる。

のちに南単于が入侍した。西北に虞れがないのは、梁習の功績だ。

魏略曰:鮮卑大人育延,常為州所畏,而一旦將其部落五千餘騎詣習,求互市。習念不聽則恐其怨,若聽到州下,又恐為所略,於是乃許之往與會空城中交市。遂敕郡縣,自將治中以下軍往就之。市易未畢,市吏收縛一胡。延騎皆驚,上馬彎弓圍習數重,吏民惶怖不知所施。習乃徐呼市吏,問縛胡意,而胡實侵犯人。習乃使譯呼延,延到,習責延曰:「汝胡自犯法,吏不侵汝,汝何為使諸騎驚駭邪?」遂斬之,餘胡破膽不敢動。是後無寇虜。

『魏略』はいう。鮮卑の大人・育延は、并州をおびやかす。鮮卑は、互市をもとめた。梁習は、鮮卑が犯法したので、斬った。鮮卑のほかの胡族は、梁習をおそれて動かず。寇虜がなくなった。

盧弼が注釈していないので、カンタンにスルー。


魏略曰:至二十二年,太祖拔漢中,諸軍還到長安,因留騎督太原烏丸王魯昔,使屯池陽,以備盧水。昔有愛妻,住在晉陽。昔既思之,又恐遂不得歸,乃以其部五百騎叛還並州,留其餘騎置山谷間,而單騎獨入晉陽,盜取其妻。已出城,州郡乃覺;吏民又畏昔善射,不敢追。習乃令從事張景,募鮮卑使逐昔。昔馬負其妻,重騎行遲,未及與其眾合,而為鮮卑所射死。始太祖聞昔叛,恐其為亂於北邊;會聞已殺之,大喜,以習前後有策略,封為關內侯。

『魏略』はいう。建安二十二年(217)、曹操は漢中をぬく。諸郡を長安にもどす。騎督する太原の烏丸王・魯昔を、池陽(左馮翊) におき、盧水にそなさせた。魯昔は妻に会いに、晋陽(太原) にもどった。梁習は、從事の張景に、魯昔を射殺させた。曹操は、梁習の策略をよろこび、関内侯とした。

ぼくは補う。陳寿の本文にある関内侯とは、このときに封じられた。地名をのぞき、盧弼が注釈していない。

 

文帝踐阼,複置並州,複為刺史,進封申門亭侯,邑百戶;政治常為天下最。太和二年,徵拜大司農。習在州二十餘年,而居處貧窮,無方面珍物,明帝異之,禮賜甚厚。四年,薨,子施嗣。

文帝が踐阼すると、ふたたび并州をおく。

潘眉はいう。并州は建安十八年、冀州にあわさる。建安二十年、あらたに新興と楽平の2郡をおく。黄初元年、ふたたび并州をおく。後漢のとき并州だった4郡と、あらたな新興と楽平2郡をあわせ、6郡が并州だ。
盧弼は考える。太原、上党、西河、雁門、楽平、新興の6郡である。
呉増僅はいう。漢末にみだれ、匈奴が侵入した。定襄から西はすべて、雲中、雁門、西河のあいだは、ついにカラになった。建安十八年、并州が冀州にあわさるとき、上郡だけは、雍州に属した。太原、上党、西河、定襄、雁門、雲中、五原、朔方らの郡は荒れてしまい、郡名があるだけで、支配の実態がない。建安二十年、曹操は、雲中、定襄、五原、朔方らを、郡から県におとした。あらたに新興郡をたてて、民を統べた。黄初初年、ふたたび并州をおく。黄初二年、郡を嶺南にうつした。これにおいて、雁門郡の陰陶ら11県を棄てたのだ。ケイ北を棄てた。并州の州治は、晋陽。
ぼくは思う。并州を、ここまで派手に棄てていたことに驚き!

ふたたび刺史をおき、梁習をあてる。梁習の政治は、つねに天下トップだ。

文帝紀の黄初六年、并州刺史の梁習は、鮮卑の軻比能を大破した。この梁習伝には、載らない。

太和二年、徵されて大司農となる。梁習は、并州に20余年。明帝におもんじられた。太和四年、薨じた。子の梁施が嗣いだ。

初,濟陰王思與習俱為西曹令史。思因直日白事,失太祖指。太祖大怒,教召主者,將加重辟。時思近出,習代往對,已被收執矣,思乃馳還,自陳己罪,罪應受死。太祖歎習之不言,思之識分,曰:「何意吾軍中有二義士乎?」後同時擢為刺史,思領豫州。思亦能吏,然苛碎無大體,官至九卿,封列侯。

臣松之以為習與王思,同寮而已,親非骨肉,義非刎頸,而以身代思,受不測之禍。以之為義,無乃乖先哲之雅旨乎!史遷雲「死有重於太山,有輕於鴻毛」,故君子不為苟存,不為苟亡。若使思不引分,主不加恕,則所謂自經於溝瀆而莫之知也。習之死義者,豈其然哉!
魏略苛吏傳曰:思與薛悌、郤嘉俱從微起,官位略等。

はじめ濟陰の王思は、梁習とともに西曹令史となる。王思は、曹操に直言して叱られた。梁習がかばった。王思は、梁習をかばった。曹操は、王思と梁習をゆるした。梁習が并州刺史になるとき、王思は豫州刺史となった。九卿、列侯となる。
裴松之はいう。梁習は、王思をかばう必要がなかった。ムダ死にするところだった。
『魏略』苛吏伝は、王思、薛悌、郤嘉をのせる。

以下『魏略』苛吏伝をはぶく。王思、薛悌、郤嘉のことを知りたくなったら、またやります。興味をもったら、自分でサイト内検索をかけ、ここに行き当たるでしょう。


涼州の張既と、ツイをなす并州の梁習を、確認できました。へんな語呂あわせだが、「涼州の梁習」という、最悪の事態は回避されたから、ヨシとすべきだ。張既も梁習も、曹操の死後も生きつづけ、任地にとどまり、曹魏をささえた。110630

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