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方詩銘氏の「魯粛の早年生涯」を翻訳する

方詩銘氏の「魯粛の早年生涯」(『論三国人物』)を翻訳。
張邈と甘寧と、鄭宝の話です。

張邈、甘寧との共通点

青年時代、魯粛は1名の遊侠だ。かつ、1名の伝記性ある人物だ。
魯粛伝はいう。魯粛はバラまき、郷里の士人と結んだと。「家は財に富み、性は施しを好む」とは、当時の遊侠のひとつの表現だ。これは、「魏志」張邈伝に同じような表現がある。『後漢書』党錮伝はいう。張邈は、「八廚」の1人だと。「廚」とは、財産をつかい、人を救うことができるという意味だ。張邈は、財産で人を救い、「侠」として名を知られた。当然、魯粛も同じである

魯粛=「侠」と、魯粛伝にそのまま書いてあるわけじゃない。しかし、魯粛と同じ行動を、「侠」の人たちがやっている。だから、魯粛も「侠」だと。飛躍ではない。


魯粛は、臨淮の東城の人だ。この地は、袁術が割拠して統治した。魯粛は袁術から、東城長に任命された。「袁術に綱紀がない。魯粛は、老弱や軽侠の少年1百余人をつれて、南へゆく。居巣の周瑜をたよる」と。
ここで注意すべきは、「軽侠」の1語である。「軽侠」とは、当時の遊侠の1つである。おなじ「呉志」甘寧伝に、同じような表現がある。甘寧伝はいう。「甘寧は、遊興を好んだ。軽薄の少年のリーダーになった」と。甘寧伝にある「軽薄の少年」とは、魯粛伝にある「軽侠の少年」と同じだ。甘寧伝にひく韋昭『呉書』はいう。「甘寧は軽侠で、人を殺した。郡中で有名だ」と。魯粛も甘寧も、当時の「軽侠」に属した。甘寧が「軽侠で殺人し、蔵舎、亡命した」のだから、当然、魯粛も同じことをした。「軽侠」については、べつに詳しく記したから、もうくり返さない。

どこだっけ。あとで確認する。


魯粛伝にひく『呉書』はいう。魯粛は体貌が魁偉で、(中略)、孫策は魯粛を雅奇としたと。陳寿が「呉志」を書くとき、韋昭の『呉書』を根拠とした。簡潔を心がけすぎて、陳寿は充分に重要な史料ですら、完全に省略してしまった。もし裴松之の注釈がなければ、魯粛の早い時期の生涯の全貌を、我々は知ることはできなかった。

上にある、韋昭『呉書』の裴注が、魯粛の早い時期の生涯を知るうえで、ものすごく重要だ。そう、方詩銘氏は言っているのですね。

『呉書』はいう。魯粛は、撃剣に長じた。騎射を善くした。「盾の穴を矢で貫いた」のは、腕前を示す、よい事例だ。『呉書』で「招集」した少年とは、さきほどの「軽侠の少年」と同じだと言わねばならない。魯粛が少年を集めたのは、「武を講じ、兵を習」わせるためだけでない。甘寧のように、殺人して、蔵舎、亡命するためだ。この類いの魯粛の行動は、惜しむべきことに、陳寿が隠して忌んだ。また韋昭も、甘寧の殺人については隠さないが、魯粛について隠した。幸せなことに、他の列伝のなかに、関連する史料がある。一歩進んで、研究することが可能だ。

孫策でなく、鄭宝にしたがう

「魏志」劉曄伝はいう。「揚州に、軽侠、豪傑がおおい。鄭宝、張多、許乾だ。彼らは、部曲を擁した(中略)。ときに廬江太守の劉勲の兵は、江淮の間で強かった」と。

ちくま訳で、該当部分を読んで、補ってください。こちらも参考。
「劉曄伝」:『三国志集解』を横目に、陳寿と裴注の違いをぶつける

劉曄伝にいう「揚州に軽侠、豪傑が多い」とは、「軽侠」の典型である。鄭宝は、「才力が人に過ぐ」とあり、もっとも「ギョウ果」で、「部曲」を擁した。「鄭宝の軍は、しばしば盗み、憚られた」とある。劉曄伝によれば、劉曄と鄭宝は、完全に敵対した地位である。劉曄が曹操のために、鄭宝を殺す作戦を考えたことは、充分に理解できる。
ただし、「呉志」魯粛伝はいう。「劉曄は魯粛に言った。鄭宝にしたがえ」と。まず鄭宝は、魯粛伝にある「方今、天下に豪傑がならび起つ」のうち、豪傑の1人だ。鄭宝は「1万余を擁し、肥沃な巣湖に拠った」のだから、廬江の人士から擁護を受けたとわかる。さらに重要なのは、劉曄の鄭宝にむけた態度が、劉曄伝と魯粛伝で、同じでないことだ。劉曄は鄭宝に、「勢力を発展させるために、人材をひろく集めろ。時を失うな」と言った。劉曄から魯粛への手紙を見れば、劉曄が、鄭宝に熱烈な態度をとったとわかる。魯粛は、「その計を然りと答ふ」だ。魯粛は完全に、劉曄の意見に同意した。魯粛は、孫策を離れることを決めた。孫策のところに行く前に、巣湖で鄭宝に付きしたがった。
なぜ、同一人物の鄭宝が、ひとつの『三国志』のなかで食い違うか。陳寿は、魯粛伝に出てくる「劉子揚」と、劉曄伝の劉曄を、同一人物だと考えなかったからだろう。だから、矛盾したまま『三国志』が記された。
もし、劉曄伝と魯粛伝のあいだをつなぎ、総合して考えたら、どうなるか。歴史の真相は、以下のようになる。魯粛伝にある、劉曄から魯粛への手紙は、劉曄が鄭宝を支持する気持ちの強さを表す。これは、真実とするべきだ。劉曄伝の記述は、劉曄があとから粉飾した。歴史の真相でない。この問題に関しては、これ以上は論じる準備がない。ともかく、北に行った魯粛は、周瑜に勧められて、孫呉と結合した。これに関し、魯粛伝は言葉をあいまいに、くっつけている。

孫策よりも、鄭宝が、廬江で有力な勢力だった。劉曄も魯粛も、鄭宝に将来性を見出した。鄭宝に仕えて、殺人や盗みをやった。これを、方詩銘氏は言いたいのだろう。持つものも持たず、暴発寸前のならず者をつれて、魯粛は亡命した。なりふり構っていられない。
結果的に魯粛は、孫呉という王朝に仕えたから、スマートな功臣のように描かれた。だが、建国の初期、とくに後漢が混乱した時代においては、秩序なんかありませんよと。勝者として残った側が、歴史書を整えるときに、「英雄として、勝ち上がってきた」と、粉飾するのだ。
袁術のような高官が建国すれば、「先走ったバカ」と言われる。鄭宝のような在地豪族が建国を目指せば、「盗賊の集団にすぎない」と言われる。袁術の延長にいるのが、高官の家から出た曹丕だ。鄭宝のような「賊」の延長にいるのが、孫権だ。
魯粛が孫策に仕えなかったのは、なぜか。孫策の性格や方針に、反対したからでない。鄭宝に仕えたからだ。魯粛から見たら、孫策は頭打ちで、鄭宝こそ飛躍の可能性があった。鄭宝が滅びたので、孫権の転職した。


以下、『論三国人物』は周瑜の話がついてる。オマケの抄訳。

周瑜と孫呉建国

『後漢書』周栄伝によると、周氏は三公である。賓客を好み、江淮のあいだの雄だった。典型的な、世家・大族の家庭に、周瑜は生まれた。
当時は、袁術が治めた。周氏の一家は、避けられず、袁術と結合した。周瑜の叔父・周尚は、袁術から丹楊太守に任じられた。周瑜の才能は、王朗伝にひく『漢晋春秋』いわく、周瑜は「江淮の傑」だ。袁術は、周瑜を部将に加えたい。周瑜は、袁術が事業を成せないと思い、居巣長に転出したいと言った。袁術は、袁紹とともに「二袁」と呼ばれたが、周瑜は袁術を見限った。周瑜は、袁術にしたがう孫策と接近した。

孫策の父・孫堅と、袁術は「同盟結好」して、ながく共同して、袁紹や曹操と戦った。孫堅が死に、孫策は江淮に流れた。孫策伝にひく『江表伝』は、周瑜との出会いを描く。のちに孫策は、周瑜の協力のもと、江東を平定した。周瑜伝にひく『江表伝』はいう。周瑜と孫策は「骨肉の分」になったと。周瑜と孫策の関係について、もう言う必要はないだろう。

ぼくは、2人の厚い関係を語る史料が、もっぱら『江表伝』であることが気になるが。


孫策は江東を取得したが、問題はひどく多い。まず、後漢の承認を得なければならない。つぎに、袁術のもとから離脱しなければならない。孫堅の仇を討ち、荊州を奪わねばならない。孫策伝はいう。袁術が僭号すると、孫策は袁術を責めた。曹操は、孫策を討逆将軍、呉侯としたと。これは孫策に、大きなチャンスだ。まず2つの問題(後漢の承認、袁術からの離脱)が、同時に解決する。『江表伝』にいう。袁術が死ぬと、従弟の袁胤と、娘婿の黄キは寿春を逃げだした。劉勲を頼った(後略)。孫策は、劉勲を破り、袁術の遺族を得た。これは、後漢の詔勅をもらい、袁術を討伐したことになる。

袁術じゃなく、袁術の後継者・劉勲を討伐したのだろ。一緒か。笑

さらに意外なチャンスが訪れた。劉勲は、劉表と黄祖を頼った。孫策は、黄祖を破った。『呉録』は、孫策から後漢への上表を載せる。孫策の上表は誇張があろうが、この戦争で孫策が荊州に勝ったことは、肯定できる。孫策の上表のなかで、「江夏太守の周瑜」が出てくる。江夏は、黄祖の土地だ。周瑜が黄祖との戦いで、どのような地位や功績を得たか、知ることができる。

劉勲が荊州を頼ったおかげで、タナボタ的に、黄祖討伐もできたと。


当時の後漢は、曹操がおさえる。孫策は、曹操に争わねば、今後の発展がないと知る。孫策伝はいう。建安五年、官渡のとき、孫策は献帝を迎え、劉表の荊州を攻め取ろうとした。ただし曹操は、孫策を軽視したのでない。孫策は殺害された。周瑜と張昭に、あとを託した。孫呉政権をつくるとき、周瑜が決定的な作用をもつことがわかる。
孫権の動向を注意すべきだ。周瑜伝にひく『江表伝』はいう。曹操は袁紹を破った。建安七年、孫権に人質を要求した。張昭、秦松は、人質を出せと言った。孫権は、周瑜とともに母に相談した。人質の問題は、周瑜と孫権が、はじめて曹操と戦った機会だ。人質を出さない。周瑜と孫権が勝利した。

周瑜と赤壁の戦い

曹操が荊州にきた。周瑜だけが、曹操に従うなと言った。孫呉で、魯粛の地位は軽く、周瑜の地位はずっと重い。周瑜は、孫策と血縁のような関係だったからだ。
赤壁の戦いは、周瑜が衆議をしりぞけて、曹操に勝利した戦いだ。周瑜は、不利をくつがえした。周瑜は、偉大な軍事家である。

赤壁については、史料がいっぱい引用されているだけで、ぼくにとって目新しい話なし。だから、ザックリと省略しました。火計とか、戦力分析とか、すでに読んだことがある話。


劉備の寄寓は、虎を養うようなもの

魯粛伝にひく『江表伝』はいう。孫呉だけでは、曹操に敵わない。劉備を荊州に置けと。ただし、なぜ周瑜は、劉備を曹操と並べたのか。劉備は「梟雄」だからだ。
程昱伝で、関羽と張飛の強さが言われる。周瑜は、劉備を人質にして、関羽と張飛をつかいたかった。孫権の武装した妹は、劉備を人質にとった。周瑜は益州を攻めたかった。劉備も、諸葛亮の戦略にもとづき、益州を攻めたい。周瑜が死ななければ、周瑜と劉備は、ともに益州を攻めただろう。110209

ひどく省略しました。あんまり、目新しい話がなかった。荊州の貸借問題を、ぼくは魯粛のテーマだと思ってる。しかし、周瑜の軍事面だけに、スポットライトが当たった。面白くなかった。魯粛は、「早年生涯」だけが、目新しい話。

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