表紙 > 孫呉 > はじめから陸遜は、孫権に忠実な一将校だった

陸績は呉郡の名族、陸遜は孫権の手駒

『呉書』第十三より、陸遜伝をすこしやります。
関羽との戦いの前まで。ほんの序盤なので、1ページ完結。

このページで指摘することは、ひとつ。
はじめから陸遜は、孫権に忠実な将校だった。

世間の陸遜にたいする、勘違いを指摘します。

イベント「三国志街道の集い」で、満田剛先生に教わったことと、ちがう陸遜像を書きます。きちんと史料に基づいて書くよう、気をつけます。
【追記】満田先生より、ツイートを頂きました。(引用はじめ)
陸遜が「沈黙の多数派」だった可能性があると申しましたが、口頭でも拙著『三国志―正史と小説の狭間』でも、「赤壁の戦いの時点で抗戦派か降伏派かははっきりしない」ともつけ加えていたと思います。(引用おわり)

陸遜は、廬江太守・陸康を、孫策に殺されて、孫氏と対立していたのではない。名門を気どって、揚州で半独立をしてたわけでない。赤壁のとき「沈黙の降伏派」だったわけじゃない。
陸遜は、会稽太守・討虜将軍・孫権のしたで、部将としてセッセと働いていた。職歴からいえば、呂蒙にちかい。もちろん陸遜は、兵卒の呂蒙よりは、スタート地点が高かっただろうが。

呂蒙について、以前、書きました。
「呂蒙伝」:『三国志集解』を横目に、自分で翻訳する
呂蒙が魯粛に代わったのは、単なる「軍師」のバトンタッチではない。劉備に対する政策の変更でもない。孫権の君主権力が、やっと荊州に及んだ画期だ。
魯粛は、孫権よりもスケールのデカい発想をした。孫権は、魯粛を使いこなせない。なぜなら、魯粛を理解できないから。魯粛の死後、孫権は呂蒙を置いた。呂蒙は、孫権に忠実な武官として、孫権の単なる手足として、荊州を接収した。

関羽との戦線において。呂蒙の後任が陸遜なのは、どんな理由によるか。
「前任者とおなじタイプの人材のうち、より若い人に更新した」という判断による。呂蒙から陸遜への交替は、人事政策のなかでは、もっとも当然で穏当で、面白みに欠く、打ち手である

孫権は荊州に、おなじ種類の人材を、つづけて置いた。メリットは、均質さが保てること。デメリットは、変化に対応できないこと。
孫権の認識で、呂蒙時代の荊州は、うまく言っていた。呂蒙が生きていてくれたら、ずっと留任させる気がマンマンだった。

では、孫権の手足・陸遜伝の序盤を、『三国志集解』とともに読みます。

陸績のおとる家柄

陸遜字伯言,吳郡吳人也。本名議,世江東大族。

陸遜は、あざなを伯言という。呉郡の呉県の人だ。本名は陸議だ。

「魏志」明帝紀の太和二年、青龍二年には、陸議と書かれている。「蜀志」先主伝、黄権伝もまた、陸議と書いている。
ぼくは思う。陳寿は基本、韋昭『呉書』をまる写ししたらしい。だが「本名議」の3文字は、きっと陳寿が『呉書』に加筆した。これはぼくの推測だが、陳寿が見た史料のうち『呉書』にだけ、陸遜と書かれていた。ほかの本は、陸議で通っている。だから、ただしくは陸議。『呉書』の編集スタッフに、「遜」を親族の名にもつ人がいたか。


陸氏世頌曰:遜祖紆,字叔盤,敏淑有思學,守城門校尉。父駿,字季才,淳懿信厚,為邦族所懷,官至九江都尉。

『陸氏世頌』はいう。

盧弼はいう。『陸氏世頌』は、『隋書』『唐書』の目録にない。

陸遜の祖父は、陸紆だ。あざなは叔盤。城門校尉だった。陸遜の父・陸駿は、あざなを季才という。九江都尉にまで昇った。

盧弼はいう。九江郡の都尉である。『続百官志』はいう。辺境の郡にだけ、都尉が置かれた。郡から県を切りとり、都尉が民政をした。
応邵はいう。郡に賊がでたとき、都尉をおく。賊がおわれば、都尉をのぞく。
范曄『後漢書』滕撫伝はいう。朝廷は、ひろく将帥をもとめた。三公は、文武の才能がある人を、九江都尉にした。
ぼくは思う。陸遜は、陸績の家柄に劣る。陸績の曽祖父は、『後漢書』独行伝にある。陸績の祖父・陸ホウは、霊帝の課税を批判した。陸績の父・陸康は、3郡の太守で実績をあげ、廬江太守となった。対して、陸遜の父は、太守になれなかった。


陳寿の推測ミス、陸遜は陸績の年長ではない

遜少孤,隨從祖廬江太守康在官。袁術與康有隙,將攻康,康遣遜及親戚還吳。遜年長於康子績數歲,為之綱紀門戶。

陸遜は、若くして父を亡くした。陸遜は、従祖父の廬江太守・陸康にしたがった。袁術と陸康は、対立した。陸康が、袁術に攻められる直前。陸康は、陸遜や親戚たちを、故郷の呉郡に返した。

陸康は、袁術に負ける見通しだったのか。これは、変である。だって、呉郡に行くと、袁術に近づいていくことになる。廬江にいたほうが、まだ安全である。
余談。曹操は、家族をつれて外征する。留守するほうが、危険だったから。曹操に従軍したほうが、まだ安全だった。
孫策が陸康をせめるとき、あまりに電撃的だった。だから陸康は、対策する時間が得られなかった。そんなところか。「將攻康」とある。「まさに陸康を攻めんとするに」とある。陸康が攻められる直前に見えるが、時系列が混乱しているだけか。陸康が攻め落とされた直後、遺族は逃げたか。

陸遜は、陸康の子・陸績より、数歳ほど年長だった。だから陸遜が、陸氏をひきいた。

この記述は、陳寿が史料を(彼なりに)合理的に批判して、推測で書いたものだ。ぼくはこの推測が、誤っていると思う。陸遜が、陸績より年長とは限らない。この点、今日の午前に書き上げました。
陳寿説+10歳で、赤壁開戦に猛反対した陸績伝
もし陳寿が、韋昭『呉書』を丸写しにしたなら。この推測ミスを犯したのは、韋昭たち『呉書』編集チームである。陳寿か韋昭か。推測した人は、いまや分からない。


陸績の縁故をつかわず、孫権の将校となる

孫權為將軍,遜年二十一,始仕幕府,曆東西曹令史,出為海昌屯田都尉,並領縣事。

孫策が死に、孫権が討虜将軍となった。陸遜は21歳のとき、はじめて孫権の幕府に仕えた。

盧弼はいう。陸遜は赤烏八年に、63歳で死んだ。生まれたのは、後漢の光和六年である。陸遜が21歳だから、建安八年(203年)のことだ。
ぼくは思う。孫権が孫策をついだのは、200年だ。陸遜は3年間、孫権を傍観していた。後漢末の慣例で、就職するのは20歳だ。年齢不足から、陸遜は就職しなかった。これは一理。
だが203年は、もっとべつの意味がある歳だ。
203年、孫権の外戚・丹楊太守の呉景が死んだ。孫権の弟・孫翊が、丹楊太守になった。孫権が、呉夫人&張昭による外戚政治から、離反をねらい始める。呉夫人&張昭は、孫権を曹操に帰順させる方針だ。孫権はこれに抵抗し、独立を助けてくれる人材を集めている。陸遜が応募した。

陸遜は、東西の曹令史を歴任した。会稽から出て、海昌の屯田都尉となった。海昌県のことを、あわせて担当した。

盧弼はいう。海昌都尉の解説は、孫権伝の赤烏五年にある。『続百官志』はいう。辺境の郡には、農都尉をおいた。おもに耕地を開拓した。
ぼくは思う。すでに陸績は、孫策の時代から、孫氏に仕えた。張昭、張紘、秦松と同席して、天下国家を論じた。孫権が200年につぐと、すぐに奏曹掾となった。陸績は、ずっと社会人をやっているのに、陸遜は203年まで無職だった
ここから何が指摘できるか。3つだ。
 ● 陸績は、陸遜より年上。陸氏をひきいたのは、陸績と考えるのが自然。
 ● 陸遜の就職は、呉郡の名門・陸氏としての、縁故採用でない。
 ● 陸績は、孫権の属僚として、陸績よりずっと下位で就職。
3つ目、とくに注意したい。陸績は後漢の官僚として、曹操のために、孫権を「牽制」している。陸績は、孫権のヨコにいる。あたらしく就職した陸遜は、孫権の幕僚として、孫権のシタにいる。陸遜は、気安い部下だ。
おなじ構図があった。曹操:荀彧:郭嘉=孫権:陸績:陸遜という構図だ。
曹操の手先として、司法権・警察権を濫用した、郭嘉伝


陸氏祠堂像贊曰:海昌,今鹽官縣也。

『陸氏祠堂像贊』はいう。海昌とは、いまの塩官県のことだ。

沈家本はいう。『陸氏祠堂像贊』は、『隋書』『唐書』に載っていない。だれが書いたのか、分からない。
このあと盧弼は、海昌の地名を、大量に注釈する。また後日。


中原との交際に見向きもせず、開拓

縣連年亢旱,遜開倉谷以振貧民,勸督農桑,百姓蒙賴。時吳、會稽、丹楊多有伏匿,遜陳便宜,乞與募焉。會稽山賊大帥潘臨,舊為所在毒害,歷年不禽。遜以手下召兵,討治深險,所向皆服,部曲已有二千餘人。鄱陽賊帥尤突作亂,複往討之,拜定威校尉,軍屯利浦。

連年、ひでりだ。陸遜は官倉をひらき、ほどこした。農業を興した。ときに呉郡と会稽には、孫権に税金を納めない人が、おおかった。陸遜は、会稽と鄱陽を平定した。

陸績と陸遜は、むいている方向が、正反対だ。張昭、張紘、虞翻、陸績らは、中原ばかり見ている。独立をねらう孫権、陸遜は、南方を見ている。
張紘や虞翻が、孔融との文通に精を出しているころだ。たいする陸遜は、地道な開拓をやっていた。どうして陸遜が「呉郡の名族として、孫権を掣肘していた」ものか。掣肘したのは陸績。陸遜は、たんなる孫権の部将。手足。

陸遜は、定威校尉となった。軍は利浦においた。

胡三省はいう。定威校尉は、孫権がはじめて置いた。ぼくは思う。孫権は後漢の外側に、ちっぽけな国を作り始めた。そのメンバーに、陸遜を置いたのだ。
趙一清はいう。利浦は、当利浦である。孫策伝にある。


權以兄策女配遜。 數訪世務,遜建議曰:「方今英雄釭跱,財狼闚望,克敵寧亂,非眾不濟。而山寇舊惡,依阻深地。夫腹心未平,難以圖遠,可大部伍,取其精銳。」權納其策,以為帳下右部督。

孫権は、兄・孫策の娘を、陸遜にあたえた。

以上のぼくの指摘から、この結婚は「名族・陸氏と和解し、孫氏の味方にひきこむため」でないことが分かる。ほんとうに呉郡の陸氏を取り込みたければ、陸績の家と、婚姻をむすぶべきだ
孫権の思惑を推測しましょう。「兄の娘」なんて、血縁が濃厚で、超レア&高貴な手ゴマを、どうして傍流・陸遜に与えたか。チーム孫権の内輪を、がっちり固めるためだ。後漢に対抗するため、気心の知れた精鋭が必要なんだ。

孫権は陸遜に、よく戦略を聞いた。陸遜は答えた。
「いま後漢は乱れました。孫権さんは、まず足元を固めなさい。足元が固くないと、遠方を図ることができません

「難以圖遠」と発言したということは、陸遜の望みは、「圖遠」することだ。陸遜は、曹操を攻める気だ。とっくに陸遜は、孫権に100%、協力している。孫権に独立を勧めた早さでは、魯粛におとらない。腹心、懐刀。
魯粛と陸遜は、意見がおなじ。2人の友情を妄想するとか、飛躍しすぎかな。笑

陸遜は、帳下右部督となった。

帳下左右部督は、張温伝にみえる。


曹操が孫権をとがめた時期が、不明

會丹楊賊帥費棧受曹公印綬,扇動山越,為作內應,權遣遜討棧。棧支黨多而往兵少,遜乃益施牙幢,分佈鼓角,夜潛山谷間,鼓譟而前,應時破散。遂部伍東三郡,強者為兵,羸者補戶,得精卒數萬人,宿惡蕩除,所過肅清,還屯蕪湖。

このころ丹楊の帥・費棧が、曹操から印綬を受けて、山越を扇動した。孫権は、陸遜に費棧を討たせた。陸遜は、丹楊、新都、会稽から、数万を集めて、平定した。陸遜は、蕪湖に屯した。

蕪湖は、太史慈伝にある。
費棧は、いつ山越を扇動したか。これが問題だ。
赤壁の前なら、曹操の印綬はニセモノである。孫権の本音はともかく、建前で孫権は、おとなしい漢臣である。張紘が、パイプを確保してくれている。曹操は印綬を送らない。赤壁のあとだったら、判定がむずかしい。もしニセモノなら、曹操と孫権の外交文書がどうあれ、外野から見たら、曹操と孫権は対立関係だったとなる。
陸遜伝は、関羽と戦うまで、時期がまるで不明だ。どれを特記すべきか迷うほど、陸遜が継続的に、討伐をやっていたことが伺える。


會稽太守淳于式表遜枉取民人,愁擾所在。遜後詣都,言次,稱式佳吏,權曰:「式白君而君薦之,何也?」遜對曰:「式意欲養民,是以白遜。若遜複毀式以亂聖聽,不可長也。」權曰:「此誠長者之事,顧人不能為耳。」

會稽太守の淳于式は、陸遜がムチャな徴発をするから、陸遜を弾劾した。

会稽太守が、孫権を代わったのは、いつだろう。ツイッターで質問してみました。ぼくは分かりません。すみません。

だが陸遜は、淳于式を責めなかった。孫権は感心した。

淳于式が、曹操が派遣した、新しい会稽太守だったら、面白い。
孫権の真意は「曹操に気がねせず、揚州を総動員すればいいんだ。陸遜は、その調子で徴発し、私の事業に加担してくれ」となる。時期が分からないだけに、ダブルの妄想だ。ろくに根拠がありませんので、慎みます。


おわりに:陸遜は、赤壁を後方支援した

はじめから陸遜は、孫権に忠実な将校だった。これを云いました。
陸績との対比をヒントに、陸遜伝の中身を順に読むだけで、これを確認できたと思います。

陸績は、孫権の独立を諌めた。赤壁の翌年、交州の鬱林太守に左遷された。失意のうちに、死んだ。陸績の左遷と、赤壁との因果関係は、直接は史料にない。だが時期的に見て、ロコツに赤壁が原因だ。前述、ぼくの陸績伝で書きました。
陸遜は赤壁に、賛成だっただろう。もし戦場にいたら、勇躍して曹操を燃やした。もし南方にいたら、物資と治安を安定させて、孫権をサポートした。史料がないから、おそらく後者だ。赤壁を後方支援した。
陸遜は「沈黙の降伏派」ではない。「雄弁な降伏派」陸績とは、根本的なポリシーがちがい、「行動する独立派」である。

陸遜の後半生も、そのうち読みます。

いきなり呂蒙が死ぬところに、飛んでいます。101031

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