表紙 > ~後漢 > 劉虞と袁紹と袁術を知るために、公孫瓚伝

05) 易京で5年間、袁紹を献帝から遠ざける

劉虞と袁紹のことが気になるので、公孫瓚伝をやります。

195年、易京にこもり、袁紹を献帝から隔離

為圍塹十重,於塹裏築京,皆高五六丈,為樓其上;中塹為京,特高十丈,自居焉,積谷三百萬斛。瓚曰:「昔謂天下事可指麾而定,今日視之,非我所決,不如休兵,力田畜穀。兵法,百樓不攻。今吾樓櫓千重,食盡此穀,足知天下之事矣。」欲以此弊紹。紹遣將攻之,連年不能拔。
英雄記曰:瓚諸將家家各作高樓,樓以千計 。瓚作鐵門,居樓上,屏去左右,婢妾侍側,汲上文書。

公孫瓚が籠もった。袁紹は、連年しても抜けず。公孫瓚は、懐かしんだ。「むかしは天下をとれると思ったのに」と。『英雄記』も、籠城を伝える。

ここで『漢晋春秋』がひかれ、袁紹が公孫瓚にあてた手紙が載る。ほかの史料の切り貼りだ。2人が「龍河」で戦ったこと以外、新しい情報がない。やたら長いので、省略する。
盧弼は、趙一清をひく。龍河とは、龍湊である。渤海の境界にあるだろう。のちに袁譚は、龍湊で曹操に攻められ、平原をぬけ、南皮ににげた。平原の境界にあるだろう。
視野をひろげる。
ぼくは思う。袁紹が易京を攻めているあいだに、曹操が献帝奉戴した。曹操は袁術と連戦し、張繍との二面作戦をこなし、呂布を片づけた。曹操の大躍進のあいだ、袁紹は、易京を攻略していた。
強引につなぐと、皮肉な因果が浮かび上がる。公孫瓚は、献帝を重んじた。この思いは、曹操を介して、実現された。もし袁紹が献帝をつかまえたら、適当に名目をつけて、廃位していただろう。だが公孫瓚が袁紹をひきつけたので、袁紹は献帝を得られなかった。袁紹が献帝をねらうのは200年以降だ。これが官渡の戦い。
もし袁術が献帝をつかまえたら、みずからの皇帝即位を完成させただろう。だが袁紹が動けないので、曹操が縦横無尽にうごき、袁術を叩いた。
さすがに、「曹操に献帝を保護させるため、公孫瓚は易京に籠もった」とは、言えません。公孫瓚ならば、自分で献帝を奉戴したいだろう。でも結果的には、風が吹いて桶屋がもうかる方式で、公孫瓚のおかげさまで献帝は寿命を全うした。


199年春、公孫瓚の最期

建安四年,紹悉軍圍之。瓚遣子求救於黑山賊,複欲自將突騎直出,傍西南山,擁黑山之眾,陸梁冀州,橫斷紹後。長史關靖說瓚曰:「今將軍將士,皆已土崩瓦解,其所以能相守持者,顧戀其居處老小,以將軍為主耳。將軍堅守曠日,袁紹要當自退;自退之後,四方之眾必複可合也。若將軍今舍之而去,軍無鎮重,易京之危,可立待也。將軍失本,孤在草野,何所成邪!」瓚遂止不出。

建安四年(199年)、袁紹は公孫瓚をすべて包囲した。

『後漢書』公孫瓚伝はいう。袁紹が公孫瓚を攻めるのは、建安三年(198)だ。公孫瓚が死ぬのは、四年(199)だ。沈家本はいう。陳寿がカンタンに書きすぎて、すべて199年にくっつけてしまった。実際に袁紹が囲んだのは、198年だ。

公孫瓚は、黒山(張燕)に、救いをもとめた。公孫瓚は西山にでて、黒山をつれて、冀州で袁紹のうしろを分断したい。

趙一清はいう。西南山とあるが、西山の誤りだ。太行山のことだ。張燕伝はいう。常山、趙郡、中山、上党にある山だ。盧弼はいう。『後漢書』公孫瓚伝と『資治通鑑』は、西山という。胡三省はいう。易京の西に、故安がある。西に山があり、中山(国)との境界である。黒山の勢力範囲だ
ぼくは補う。ちくま訳は「西南の山岳地帯」と言っているが、これは違う。ちくま訳は、『三国志集解』を見ずに訳されたみたいですね。

長史の関靖は言った。「公孫瓚さんが、易京を出てはいけない」と。ついに公孫瓚は、易京を出なかった。

英雄記曰:關靖字士起,太原人。本酷吏也,諂而無大謀,特為瓚所信幸。救至,欲內外擊紹。遣人與子書,刻期兵至,舉火為應。

『英雄記』はいう。関靖は、太原の人だ。酷吏である。へつらい、大謀がない。公孫瓚に信幸された。

関靖の言い分は、正しかったのか。つぎにある『英雄記』は、関靖をバカあつかい。「公孫瓚は、関靖にまどわされ、易京から出なかったから、敗れたのだ」という、ステレオタイプに当てはめている。へつらい臣下に、ばか君主という。
ニセクロさんによれば、出撃しないと、公孫瓚の構想は実現しない。いつ出て、いつ出ないのか、加減がむずかしいなあ。黒山の勢力範囲を地図に落としたら、なにか分かるかも。


救至,欲內外擊紹。遣人與子書,刻期兵至,舉火為應。
典略曰:瓚遣行人文則齎書告子續曰:「袁氏之攻,似若神鬼,鼓角鳴於地中,梯沖舞吾樓上。日窮月蹴,無所聊賴。汝當碎首於張燕,速致輕騎,到者當起烽火於北,吾當從內出。不然,吾亡之後,天下雖廣,汝欲求安足之地,其可得乎!」
獻帝春秋曰:瓚夢薊城崩,知必敗,乃遣間使與續書。紹候者得之,使陳琳更其書曰:「蓋聞在昔衰周之世,僵戶流血,以為不然,豈意今日身當其沖!」其餘語與典略所載同。

公孫瓚さんは、公孫続に手紙をもたせ、狼煙で応じる約束にした。
『典略』はいう。公孫瓚は公孫続に「張燕と結ばないと、生き残れない」と言った。
『献帝春秋』はいう。公孫瓚は、易京がくずれる夢を見た。公孫瓚は、公孫続に手紙をもたせた。袁紹は陳琳に、手紙を書き換えさせた。公孫瓚の手紙の言葉は、『典略』とおなじだ。

『後漢書』公孫瓚伝はいう。建安四年(199)春、張燕と公孫続は、公孫瓚を救いにゆく。ぼくは思う。199年春ってことは、やはり、袁紹の最終攻撃は、198年から始まっていると見るべきだ。陳寿が圧縮したのだ。
梁商鉅や何焯らが言うには、陳琳が手紙を書き換えたりしない。ぼくは思う。先人が『漢晋春秋』のデタラメぶりを、あばいてくれたので、安心して却下することができる。笑


紹侯者得其書,如期舉火。瓚以為救兵至,遂出欲戰。紹設伏擊,大破之,複還守。紹為地道,突壞其樓,稍至中京。瓚自知必敗,盡殺其妻子,乃自殺。
英雄記曰:袁紹分部攻者掘地為道,穿穴其樓下,稍稍施木柱之,度足達半,便燒所施之柱,樓輒傾倒。
漢晉春秋曰:關靖曰:「吾聞君子陷人於危,必同其難,豈可獨生乎!」乃策馬赴紹軍而死。紹悉送其首於許。

袁紹は狼煙で、公孫瓚をだました。袁紹は地下道をほった。公孫瓚は、妻子を殺して、自殺した。
『英雄記』はいう。袁紹は、地下道をほった。
『漢晋春秋』はいう。関靖は道連れになり、許都にクビを運ばれた。

『後漢書』公孫瓚伝も、最期をつたえる。公孫続は斬られた。青州刺史の田楷は、公孫瓚とともに斬られた。ぼくは思う。劉備を陶謙のもとに連れて行ったのが、田楷だった。田楷は、公孫瓚の重臣のなかの重臣だったわけね。
『後漢書』公孫瓚は、関靖の死をくわしく伝える。
胡三省はいう。公孫瓚の計略と、陳宮の計略は、おなじだ。陳宮のただしい計略(出撃する)を、呂布は用いなかった。公孫瓚のただしい計略(出撃する)を、関靖がとめた。ただしい計略を用いるのは、むずかしいと。
盧弼はいう。公孫瓚のクビは、詔書で賞金がかかっていた。ぼくは思う。「袁紹が公孫瓚を滅ぼして、戦果を献帝におくる」という構図が、おもしろい。しかし、さっき陳琳に関してウソをあばかれた、『漢晋春秋』である。がっかり!


おまけの鮮于輔伝、閻柔伝

鮮於輔將其眾奉王命。以輔為建忠將軍,督幽州六郡。太祖與袁紹相拒於官渡,閻柔遣使詣太祖受事,遷護烏丸校尉。而輔身詣太祖,拜左度遼將軍,封亭侯,遣還鎮撫本州。

鮮于輔は、王命をたてまつり、兵をひきいた。

田豫伝はいう。公孫瓚が敗れると、鮮于輔は国人から推されて、太守を代行した。鮮于輔は、田豫を長史とした。田豫は鮮于輔に、すぐに王命にしたがえと言った。鮮于輔は、田豫にしたがった。
胡三省はいう。鮮于輔は、鄒丹を斬って、漁陽太守となった。
ぼくは思う。公孫瓚が敗れて、その空白を鮮于輔が埋めた。田豫は、鮮于輔の部下だ。鮮于輔、すごいなあ。ちくま訳の索引で、「鮮于氏」を網羅したくなってきた。

鮮于輔は、建忠將軍となり、幽州の6郡を督した。
曹操と袁紹が、官渡で戦った。閻柔は、曹操のもとに使者をよこした。閻柔を護烏丸校尉にうつす。鮮于輔は、みずから曹操をもうで、左度遼將軍となり、亭侯に封じられる。故郷にもどり、鎮撫をまかされる。

『資治通鑑』はいう。曹操は鮮于輔を、右度遼将軍として、幽州にかえした。胡三省はいう。ときに幽州は、袁紹が統治している。許都から遠い。しかし閻柔と鮮于輔は、すでに曹操に心を寄せていた。
ぼくは思う。鮮于輔も閻柔も、公孫瓚の敵だった。公孫瓚の滅亡後、現地を収集した。公孫瓚の敵・袁紹と、仲よくなっても良さそうだが。はやくから曹操にしたがった、めずらしい例だから、曹魏で昇進したのかな。
盧弼はいう。後漢の度遼将軍は、南匈奴をまもり、西河におかれた。いま鮮于輔は幽州にもどり、右度遼将軍になった。中原から見ると、西河は左で、幽州は右である。ぼくは補う。陳寿は、左右をまちがえた。


魏略曰:輔從太祖於官渡。袁紹破走,太祖喜,顧謂輔曰:「如前歲本初送公孫瓚頭來,孤自視忽然耳,而今克之。此既天意,亦二三子之力。」

『魏略』はいう。鮮于輔は、官渡で曹操にしたがった。袁紹を破ると、曹操は鮮于輔を振りかえる。「前年、袁紹が公孫瓚のクビを送ってきたとき、見つめるだけだった。いま袁紹に勝った。天意と、二三人(鮮于輔?)の力でもある」

ぼくは思う。袁紹は、やはり、公孫瓚のクビを許都に送ったのですね。『魏略』が言うのだから、くつがえせない。袁紹は、「献帝に功績をご報告する」という名目を立てながら、「曹操、オレは強いだろ」と、示威していたのか。それなら袁紹が、公孫瓚のクビを送った理由が、心情的に理解できる。


太祖破南皮,柔將部曲及鮮卑獻名馬以奉軍,從征三郡烏丸,以功封關內侯。

曹操は、南皮で袁氏を破った。閻柔は鮮卑をひきい、烏丸の征伐のしたがう。閻柔は、関内侯に封じられた。

『後漢書』公孫瓚伝はいう。袁術は、曹操にしたがい、烏桓を撃った。護烏桓校尉となった。


魏略曰:太祖甚愛閻柔,每謂之曰:「我視卿如子,亦欲卿視我如父也。」柔由此自讬於五官將,如兄弟。

『魏略』はいう。曹操は閻柔を愛した。「私を父だと思え」と言った。曹丕と兄弟のようだった。

ぼくは思う。閻柔は、何歳?


輔亦率其眾從。文帝踐阼,拜輔虎牙將軍,柔度遼將軍,皆進封縣侯。位特進。

鮮于輔も、兵をひきいて、曹操の烏丸征伐にしたがう。曹丕が即位すると、鮮于輔は、虎牙將軍となる。閻柔は、度遼將軍となる。鮮于輔と閻柔は、どちらも縣侯に封じられ、特進となる。

潘眉はいう。曹丕に尊号を上奏する文書で。鮮于輔は、虎牙将軍、南昌亭侯。延康のとき、すでに虎牙将軍だった。陳寿の本文は、誤りだ。盧弼は考える。武帝紀の建安十八年の注釈で、鮮于輔は建忠将軍になってる。


公孫瓚伝、終わりました。史料を読むのは、やはり楽しい。戦闘のところが、ザツですみません。公孫瓚が、袁紹と袁術の戦いの導火線となったことに、気づけたのが、いちばんの収穫です。劉虞が、董卓と戦うための関東のトップだとか、195年がポスト董卓体制の完成&崩壊の時期とか、ほんとうに袁紹は易京攻略に時間がかかったのだなーとか。そのあたりが感想です。110321

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