表紙 > ~後漢 > 劉虞と袁紹と袁術を知るために、公孫瓚伝

02) 劉虞、関東諸将のトップになる

劉虞と袁紹のことが気になるので、公孫瓚伝をやります。

劉虞が幽州牧に赴任する

朝議以宗正東海劉伯安既有德義,昔為幽州刺史,恩信流著,戎狄附之,若使鎮撫,可不勞眾而定,乃以劉虞為幽州牧。

宗正する東海の劉伯安は、すでに德義がある。劉虞は、むかし幽州刺史として、恩信で戎狄を手なずけた。朝議は、劉虞を幽州牧として、戎狄の鎮圧をまかせた。

盧弼は、陳寿が「劉虞」とよばず、「劉伯安」とした理由を考える。事例をあげてる。
『後漢書』霊帝紀はいう。中平5年(188)、刺史を州牧に改めた。


吳書曰:虞,東海恭王之後也。遭世衰亂,又與時主疏遠,仕縣為戶曹吏。以能治身奉職,召為郡吏,以孝廉為郎,累遷至幽州刺史,轉甘陵相,甚得東土戎狄之心。後以疾歸家,常降身隱約,與邑黨州閭同樂共恤,等齊有無,不以名位自殊,鄉曲咸共宗之。時鄉曲有所訴訟,不以詣吏,自投虞平之;虞以情理為之論判,皆大小敬從,不以為恨。嘗有失牛者,骨體毛色,與虞牛相似,因以為是,虞便推與之;後主自得本牛,乃還謝罪。會甘陵複亂,吏民思虞治行,複以為甘陵相,甘陵大治。徵拜尚書令、光祿勳,以公族有禮,更為宗正。

『呉書』はいう。劉虞は、東海恭王の後裔だ。孝廉にあがり郎となる。幽州刺史、甘陵相をやり、東土の戎狄を手なずける。裁判は公正だ。劉虞は、尚書令、光禄勲、宗正となる。

『後漢書』に東海恭王・劉彊の列伝がある。
『後漢書』劉虞伝はいう。祖父は劉嘉で、光禄勲となる。謝承『後漢書』はいう。劉虞の父は劉舒で、丹楊太守となる。劉舒は、五経に通じる。
銭大昭はいう。劉虞は、甘陵献王・劉忠の国相をした。


英雄記曰:虞為博平令,治正推平,高尚純樸,境內無盜賊,災害不生。時鄰縣接壤,蝗蟲為害,至博平界,飛過不入。
魏書曰:虞在幽州,清靜儉約,以禮義化民。靈帝時,南宮災,吏遷補州郡者,皆責助治宮錢,或一千萬,或二千萬,富者以私財辨,或發民錢以備之,貧而清慎者,無以充調,或至自殺。

『英雄記』はいう。劉虞は、博平令となり、イナゴが入らない。

杭世駿が『太平御覧』から『英雄記』をひく。劉虞は、食事がすくなく、衣服も地味だ。

『魏書』はいう。劉虞は幽州で、倹約した。霊帝のとき、南宮が燃えた。修繕の費用を、州郡から集めた。支払えず自殺する人もいた。劉虞は清貧だから、霊帝から支払いを免除された。

『後漢書』霊帝紀の中平二年(185)、南宮が燃えた。『後漢書』宦者伝はいう。中常侍の張譲と趙忠は、天下の田畝に、税10銭を課した。地方官は、税を負担した。西園にとどけた。
『後漢書』劉虞伝はいう。幽州はまずしく、青州と冀州から、2億銭をもらった。劉虞が善政をしたので、青州と徐州から、黄巾を避けて100万余口があつまる。劉虞は上公(三公の上?)だが、倹約したので、人々の心をひきつけた。
ぼくは思う。河北に地域圏がある。異民族の進攻も、経済的なやりくりも、人口の移動も、幽州は、冀州、青州、徐州とセットである。190年代後半、河北で袁紹と公孫瓚が戦い、河南で曹操と袁術が戦った。徐州は、河北と河南、どちらにも連動するから、よく分からないが。ゆえに陶謙、劉備、呂布、のように、正体不明な州牧が入りこむ。


劉虞が張純と丘力居を治め、三公となる

虞到,遣使至胡中,告以利害,責使送純首。丘力居等聞虞至,喜,各遣譯自歸。瓚害虞有功,

劉虞が幽州にいたる。胡族に利害を説き、張純のクビを送れと責めた。烏桓の丘力居らは、劉虞の着任をよろこび、劉虞への帰順をつたえた。

『後漢書』劉虞伝はいう。劉虞が薊県にくると、軍備をやめた。恩信を、烏桓に伝える。張純のクビを懸賞する。張純は、塞外ににげた。残党は、ちった。
ぼくは思う。烏桓は、漢族の張純をゆるさないが、烏桓の丘力居をゆるす。身内にきびしく、他人にやさしいのか。もしくは、張純と丘力居を分断させることが目的か。どうせ分断させるなら、烏桓を味方にしたほうが、人口がおおくて都合がよい。二者択一だから、どちらもでいいのだ。劉虞の「恩信」は、ただの賈詡っぽい謀略かも知れない。
『資治通鑑』を昨年秋冬に読んだ。涼州方面で、統治に成功する人の特徴は、胡族と対立しないことだ。清濁あわせ、買収をする人が、胡族を大人しくする。劉虞は、質素な人柄と言いつつ、けっこう利害に目ざとかったかも知れない。劉虞のアザトサは、『後漢書』劉虞伝の最後に、妻子がゼイタクした話として登場する。

公孫瓚は、劉虞の功績をキズつけたい。

『後漢書』劉虞伝はいう。はじめ霊帝は詔して、公孫瓚に烏桓を討たせた。劉虞が節度をうけると、公孫瓚は、方面軍のトップでなくなる。公孫瓚は、部曲がつよいので、好きに振る舞い、百姓を侵害した。劉虞は仁愛ある政治をして、百姓の利益を守った。公孫瓚と劉虞は、じわじわ不仲になった。
『後漢書』公孫瓚伝はいう。公孫瓚の志は、烏桓を滅ぼすことだ。劉虞の志は、烏桓を招いて降すことだ。公孫瓚と劉虞は、不仲になった。
王補はいう。『資治通鑑』で、公孫瓚と劉虞の政策のちがいを記すが、『後漢書』公孫瓚伝がもとである。しかし劉虞伝をみると、劉虞と公孫瓚の長所を、それぞれ褒めている。史書は、信じることができない。
袁煕はいう。のちに劉虞は公孫瓚に攻められ、居庸ににげる。劉虞は、烏桓と鮮卑に、救ってもらいたい。劉虞と公孫瓚の不仲は、火を見るより明らかだ。
盧弼はいう。『三国志』公孫瓚伝で、河北の四州が被害を受けたという。公孫瓚は、四州の被害を、抑えられない。そのくせ、公孫瓚は劉虞の功績にケチをつけた。公孫瓚が、道理を曲げたことは、明らかである。
ぼくは思う。公孫瓚と劉虞の対立は、段熲と皇甫規、張奐の対立に似てる。


乃陰使人徼殺胡使。胡知其情,間行詣虞。虞上罷諸屯兵,但留瓚將步騎萬人屯右北平。純乃棄妻子,逃入鮮卑,為其客王政所殺,送首詣虞。封政為列侯。虞以功即拜太尉,封襄賁侯。

公孫瓚は、胡族から劉虞への使者を、殺そうとした。使者は、公孫瓚を避けて、殺されない。劉虞は、軍備を解いた。ただ公孫瓚の1万だけ、右北平におく。

どういう判断だろうか。軍備ゼロというわけには、さすがにゆかず、異民族の備えとして、公孫瓚を残したか。もしくは、軍備ゼロが理想だが、公孫瓚は聞きそうにないので、公孫瓚を遠ざけて、当面はヨシとしたか。前者じゃないかなあ。ぼくは、史料が褒めまくっていると、貶したくなる性格です。劉虞は、理想化されすぎである。

張純は鮮卑ににげたが、食客の王政に殺された。張純のクビが、劉虞にとどく。劉虞は、すぐに太尉となり、襄賁侯に封ぜらる。

張純の末路は、『三国志』烏丸伝の裴注にある。
襄賁は、武帝紀の建安11年にある。
『後漢書』劉虞伝はいう。霊帝は劉虞を、太尉、容丘侯とした。董卓が政治をにぎると、劉虞を大司馬、襄賁侯とした。ぼくは思う。陳寿は、圧縮しちゃってる。
袁宏『後漢紀』はいう。中平6年(189)3月巳丑、光禄勲の劉虞は、大司馬となり、幽州牧を領す。『後漢書』烏桓伝は、中平5年(188)に、劉虞が幽州牧となり、張純のクビを購い、河北を定めたとする。
柳従辰はいう。劉虞が幽州牧になったのは、『後漢書』劉虞伝に照らし、中平5年(188)である。烏桓伝とあう。『後漢書』霊帝紀は、劉虞が張純を斬ったのを、中平6年(189)3月とする。おそらく張純は、中平4年6月に反し、中平5年に劉虞は張純のクビを購い、中平6年3月に張純が王政に斬られたのであろう。『後漢紀』は、最後の年月にすべてまとめて書いたのだ。ぼくは思う。整理してもらって、よかった。


英雄記曰:虞讓太尉,因薦衛尉趙謨、益州牧劉焉、豫州牧黃琬、南陽太守羊續,並任為公。

『英雄記』はいう。劉虞は、太尉をゆずり、衛尉の趙謨をすすめた。

『後漢書』趙典伝はいう。霊帝のとき、趙典は衛尉になったと。盧弼はいう。趙謨と趙典、どちらが正しいのか分からない。ぼくは思う。趙典伝なんて、知らなかった。読もう。

益州牧の劉焉、豫州牧の黄琬、南陽太守の羊続は、みな三公に任じられた。

劉焉は、「蜀志」に列伝がある。黄琬は『後漢書』に列伝がある。黄琬が豫州牧になったとき、賊の陸梁を平らげた。
羊続は『後漢書』に列伝がある。中平3年(186)、江夏の趙慈が、そむいた。南陽太守の羊続は、趙慈を斬った。中平6年(189)、霊帝は羊続を太尉にしたい。ときに三公になるために、東園に1000万銭を支払わねばならない。羊続は、三公にならず。
柳従辰はいう。『御覧』207は、袁山松の書を引く。劉虞は太尉を、羊続にゆずったと。いま裴注『英雄記』を見ると、太尉を趙謨にゆずっている。羊続が正しいか。
ぼくは思う。ファストフード店は、顧客の回転を稼ぐ。霊帝も同じだ。単価がもっとも高い三公が、どんどん回転すれば、霊帝は稼げる。「州牧と三公の権限はセット」なんて、話ができたら面白いのだが、さすがに一般化できない。
劉虞に期待された役割は、在外三公の張温とおなじかなあ。


會董卓至洛陽,遷虞大司馬,瓚奮武將軍,封薊侯。

たまたま董卓が、洛陽にいたる。董卓は、劉虞を大司馬にうつす。公孫瓚は、奮武將軍となり、薊侯に封ぜらる。

大司馬は、文帝紀の黄初2年にある。劉昭はいう。劉虞は大司馬となり、太尉と大司馬とがどちらも置かれた。だれかが、喜びそうな話題だ。笑
『後漢書』公孫瓚伝はいう。初平2年(191)、青州と徐州の黄巾30万は、渤海に入り、黒山と合わさりたい。公孫瓚は、東光の南で、黄巾を大破した。黄河をわたる黄巾を斬り、黄河が血で染まった。この功績で、奮武将軍、薊侯となった。
沈家本はいう。『後漢書』公孫瓚伝で、公孫瓚が奮武将軍になるのは、初平2年(191)だ。黄巾を破ったあとだ。霊帝紀はいう。公孫瓚が黄巾をやぶったのは、初平2年(191)11月だ。董卓が長安にゆくのは、初平2年(191)2月 だ。陳寿は、董卓が長安にゆく前に、公孫瓚が奮武将軍になったとする。『後漢書』が正しい。
ぼくは補う。つまり、董卓が191年2月に遷都し、11月に黄巾をやぶり、191年内に公孫瓚は、奮武将軍になった。となると董卓は、長安に移った後も、関東の地方官たちを任命していたと分かる。イメージとちがう。


劉虞が、反董卓のトップになる

關東義兵起,卓遂劫帝西遷,徵虞為太傅,道路隔塞,信命不得至。袁紹、韓馥議,以為少帝制於奸臣,天下無所歸心。虞,宗室知名,民之望也,遂推虞為帝。遣使詣虞,虞終不肯受。紹等複勸虞領尚書事,承制封拜,虞又不聽,然猶與紹等連和。

關東の義兵が起つ。董卓は、長安にゆく。劉虞を徵し、献帝の太傅とする。道がふさがり、報せがこない。

『後漢書』劉虞伝はいう。初平元年(190)、ふたたび劉虞を徴し、袁隗のかわりに太傅としたい。道路がふさがれ、王命がとどかない。

袁紹と韓馥は、劉虞を皇帝としたい。劉虞は、ことわる。領尚書事し、承制、封拜するよう、すすめる。劉虞はことわる。だが劉虞は、袁紹らと連和した。

『後漢書』劉虞伝はいう。初平2年(191)、冀州刺史の韓馥、渤海太守の袁紹、山東の諸将は、劉虞に皇帝をすすめた。もと楽浪太守の張岐が、劉虞を説得する。劉虞はことわる。詳しくは『後漢書』劉虞伝。
ぼくは思う。最後の「連和」を気にかけて、話を膨らませたい。劉虞は、関東のリーダーなのだ。「水面下に、皇帝即位を打診され、断りました」という、穏やかな話でない。袁紹が董卓から逃げ、渤海をめざして逃げたのは、劉虞がもつ実効権力をたよったから。劉虞は、張純のクビを購い、現在とても強い。「宗室だから、人格者だから」、というのはオマケの理由である。劉虞は、幽州と烏桓を治めている「軍閥」なのだ。
董卓と献帝に張り合うために、献帝の代わりの皇帝が必要だ。劉虞が受けてくれなければ、董卓の代わりの執政者が必要だ。劉虞は、順にこれを打診された。劉虞は、正統性が立たないから断ったけれど、、関東のリーダーでは、ありつづけたのだろう。ただ、「どんな資格を名のって、リーダーとして君臨するのか」という、枝葉の問題で、袁紹と劉虞の意見が合わなかっただけ。
誤解と不興を前提に、董卓との戦いを、関ヶ原にたとえる。石田三成が袁紹で、毛利輝元が韓馥で、豊臣秀頼が劉虞である。ああ、やっちゃった。


九州春秋曰:紹、馥使故樂浪太守甘陵張岐齎議詣虞,使即尊號。虞厲聲呵岐曰:「卿敢出此言乎!忠孝之道,既不能濟。孤受國恩,天下擾亂,未能竭命以除國恥,望諸州郡烈義之士戮力西面,援迎幼主,而乃妄造逆謀,欲塗汙忠臣邪!」
吳書曰:馥以書與袁術,雲帝非孝靈子,欲依絳、灌誅廢少主,迎立代王故事;稱虞功德治行,華夏少二,當今公室枝屬,皆莫能及。又雲:「昔光武去定王五世,以大司馬領河北,耿弇、馮異勸即尊號,卒代更始。今劉公自恭王枝別,其數亦五,以大司馬領幽州牧,此其與光武同。」是時有四星會於箕尾,馥稱讖雲神人將在燕分。又言濟陰男子王定得玉印,文曰「虞為天子」。又見兩日出於代郡,謂虞當代立。紹又別書報術。是時術陰有不臣之心,不利國家有長主,外讬公義以答拒之。紹亦使人私報虞,虞以國有正統,非人臣所宜言,固辭不許;乃欲圖奔匈奴以自絕,紹等乃止。虞於是奉職脩貢,愈益恭肅;諸外國羌、胡有所貢獻,道路不通,皆為傳送,致之京師。

『九州春秋』はいう。樂浪太守した甘陵の張岐は、劉虞を説得にゆき、しかられた。
『呉書』はいう。韓馥と袁紹は、袁術に手紙を送った。「劉協はダメだ。劉虞が皇帝になるのがよい」と。

盧弼はいう。袁紹から袁術への手紙は、袁術伝にひく『呉書』にある。ぼくは思う。いま韓馥の手紙が載るが、内容がおもしろい。盧弼による、めぼしい注釈はない。だから、はぶきました。ちくま訳を熟読して、楽しみたい。笑
ぼくは思う。史料を読み替えると。袁紹と韓馥は、劉虞をリーダーとする連合軍に、袁術をとりこもうとした。勧誘メールが、ここにある韓馥の文書である。袁術は、地理的に袁紹から離れ、南から董卓を攻めている。董卓と戦ったとき、すでに三つ巴になっていたのだ。董卓、袁紹、袁術と。袁術が、劉虞集団に入らなかった理由を、史書は「袁術が皇帝になりたいから」とするが、それは単純化しすぎだ。


つぎ、劉虞の子・劉和をはさみ、袁紹と袁術が戦い始める。
楽しみ。これが、やりたかった。笑
忘れていたが、これは公孫瓚伝なので、公孫瓚もかかわります。110317

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