表紙 > ~後漢 > 劉虞と袁紹を知るために、公孫瓚伝

01) 天子の張挙、弥天将軍の張純

劉虞と袁紹のことが気になるので、公孫瓚伝をやります。

盧植に学び、劉基に同行して日南へ

公孫瓚字伯珪,遼西令支人也。為郡門下書佐。有姿儀,大音聲,侯太守器之,以女妻焉,

公孫瓚は、あざなを伯珪という。遼西郡の令支県の人だ。

『郡国志』はいう。令支は、伯夷と叔斉の本国だ。王先謙はいう。後漢末、鮮卑は遼西の土地に拠った。建安12年、曹操が鮮卑を平らげた。ぼくは思う。鮮卑の領土のなかで、公孫瓚は生まれた。曹操が平らげてくれるまで、後漢はへこんでいた。
恵棟はいう。始皇帝22年、燕国を分けて、遼西郡を置いた。

公孫瓚は、郡門下書佐となった。

郡門下書佐は、董卓伝にある。『後漢書』公孫瓚伝はいう。家は世よ二千石だった。母が賎しいので、公孫瓚は郡の小吏になった。
ぼくは思う。公孫度の家は、故郷に居られなくなり、移動した。公孫度の家は、二千石と記されない。幽州にいる公孫氏が、どういう広がりをしてたか、全体像がわからない。でも、公孫度と公孫瓚が立伝されるほど栄えたのだから、有力なはず。気になるのは、2人とも、公孫氏の嫡流ぽくないことだ。主流は、後漢とともに栄えて、ともに傾いたか。すると「没落した在地豪族の生き残り」という位置づけになる。『後漢書』で、公孫氏を探す必要がある。

公孫瓚は、姿儀があり、音声が大きい。侯太守は、公孫瓚の器量を見こみ、娘を公孫瓚の妻とした。

何焯はいう。「侯」氏の太守である。あとに出てくる「劉太守」とおなじだ。沈家本はいう。「劉太守」とはちがう。ぼくは思う。もう、よく分からないのだ。
裴注『典略』が、ここで「瓚性辯慧,每白事不肯梢入,常總說數曹事,無有忘誤,太守奇其才」という。公孫瓚の優秀さを、なぞっている。


遣詣涿郡盧植讀經。後複為郡吏。劉太守坐事徵詣廷尉,瓚為禦車,身執徒養。及劉徙日南,瓚具米肉,於北芒上祭先人,

太守は公孫瓚を涿郡にゆかせ、盧植に讀經をならう。

宋本は、「遣」を「適」とする。ぼくは思う。「適」のほうが、理解しやすいかな。太守の「親心」のニュアンスが、消えてしまうが。『後漢書』はいう。涿郡の盧植に、コウ氏の山中で学んだ。恵棟はいう。劉寛碑陰は、盧植の門生の姓名をのせる。そのなかに、公孫瓚の名がある。公孫瓚は、ひろく学んだ。
ぼくは思う。なぜ公孫瓚は、盧植に学ぶことができたか。言うまでもないが、劉備と同門。盧植の学校の敷居は、限りなくゼロに近い。誰でもいいのかよ。公孫瓚その人よりも、盧植の意図が気になる。「次世代の部将を育てたかった」にしても、あまりに無差別である。

のちに公孫瓚は、ふたたび郡吏となった。劉太守は罪をつくり、廷尉にゆく。公孫瓚は、劉太守の車を護送する。

恵棟はいう。『英雄記』によると、太守は劉基である。ぼくは思う。劉繇の兄?
『後漢書』はいう。劉太守を守るため、公孫瓚は服をかえて、護送する(政府側の)役人だと偽った。みずから護衛して、洛陽にいたった。

劉太守は、日南に徙される。公孫瓚は、米肉をもち、北芒山で先人を祭った。

日南は、陳留王紀の咸煕元年にある。
『後漢書』公孫瓚伝はいう。劉太守が日南に徙されるとき、公孫瓚は、豚酒をもち、北芒山で別れの言葉をのべた。ぼくは思う。米肉と、豚酒がちがう。笑
何焯はいう。公孫瓚は遼西の人で、朝廷の素官にすぎない。洛陽の北芒山に、どうして公孫氏の「先人」の墓があるのか。恵棟はいう。謝承『後漢書』では、公孫瓚は泣いて、母の墓に別れを告げた。趙一清はいう。北芒とは、洛陽でなく、遼西の地名である。盧弼はいう。『後漢書』で公孫瓚は、世よ二千石だ。何焯は「素官」と言うが、誤りだ。趙一清は、遼西の地名というが、すでに洛陽に出てきており、遼西にもどれない。趙一清は誤りだ。
ぼくは思う。けっきょく、よく分からないのだ。公孫瓚は、世よ太守を務めた、洛陽にも出入りしている名族で、洛陽の北に、謝承のいう「母の墓」があったと。これで、いいのかな。


舉觴祝曰:「昔為人子,今為人臣,當詣日南。日南瘴氣,或恐不還,與先人辭於此。」再拜慷慨而起,時見者莫不歔欷。劉道得赦還。

公孫瓚は、先人に言った。「むかし私は、あなたの子でした。いま私は、劉太守の臣です。日南は遠いから、もう帰れません。さようなら」と。公孫瓚の祭りを見ている人は、みな感動した。劉太守は、道中で赦され、還ることができた。

劉繇の兄・劉基は、こういう経歴があったっけ?
霊帝につかえる宦官の子弟が、恣意的に、罰したり儲けたりする。劉太守の件も、おなじだろう。公孫瓚は、わざわざ墓で祭りのパフォーマンスをしたのに、空振りに終わった。「もう帰れません」と、生涯、日南で暮らすことを誓ったのに。上司に振り回されると、とてもイライラする。一貫性がないと、ムカムカする。公孫瓚は、時代に対する不満を、蓄えたにちがいない。


187年、張純と丘力居の叛乱

瓚以孝廉為郎,除遼東屬國長史。嘗從數十騎出行塞,見鮮卑數百騎,瓚乃退入空亭中,約其從騎曰:「今不沖之,則死盡矣。」瓚乃自持矛,兩頭施刃,馳出刺胡,殺傷數十人,亦亡其從騎半,遂得免。鮮卑懲艾,後不敢複入塞。遷為涿令。

公孫瓚は、孝廉にあがり、郎となる。遼東屬國の長史に除された。

遼東属国は、斉王紀の正始5年にある。
銭大昭は『続漢書』をひく。郡ごとに、太守1人、丞1人が置かれた。辺境の郡では、丞は「長史」にかわる。属国ごとに、都尉を1人と、丞1人をおく。属国長史とは、属国丞のことだ。いつ名称が改められたか、銭大昭は知らない。
李祖楙はいう。公孫瓚のなった遼東属国長史とは、都尉丞のことだ。辺境の郡で、「長史」という名称が使われた例である。

かつて公孫瓚は、数十騎で、塞外にでた。鮮卑の数百騎を見つけた。公孫瓚は「いま突っこまねば、死ぬしかない」と従者に言った。公孫瓚は、逃げることができた。鮮卑は、ふたたび塞内に入らない。

杭世駿は『英雄記』をひく。公孫瓚は、遼東属国の長史となり、鮮卑の侵入にさらされた。にくい敵のように、鮮卑と戦った。鮮卑は、公孫瓚をおそれて、進入しない。また『英雄記』はいう。破虜校尉の鄒靖とともに、公孫瓚は胡族を追った。趨勢が、胡族に囲まれた。公孫瓚は、囲みを解かせた。『御覧』870にある。
ぼくは補う。鄒靖って、劉備の上司だ(先主伝)。皇甫嵩が辺章を討つとき、「烏桓でなく鮮卑を用いよ」と言った(『後漢書』応邵伝)。公孫瓚と鄒靖の接点、公孫瓚と劉備の接点が、出てきました。『御覧』のおかげです。救援して包囲を破ってあげる、という逸話の内容は、平凡だけど。

公孫瓚は、涿県令となる。

涿県は、斉王紀の嘉平5年にある。
ぼくは思う。公孫瓚が鮮卑をやぶった話は、偶然の遭遇だったが。遼東属国に就職した時点で、鮮卑への対応が期待されている。公孫瓚が、異民族にカラいのは、性格じゃなくて、職務のせいである。職務が、性格に貼りつく人もいますが。


光和中,涼州賊起,發幽州突騎三千人,假瓚都督行事傳,使將之。軍到薊中,漁陽張純誘遼西烏丸丘力居等叛,劫略薊中,自號將軍,

光和中(178-184)、涼州で賊が起つ。幽州の突騎3千人が発せされた。公孫瓚に都督行事傳を假し、公孫瓚に突騎をひきいさせた。

『後漢書』公孫瓚伝は、光和でなく中平(184-189)中とする。『通鑑』も中平中とする。盧弼はいう。中平中がただしい。沈家本はいう。涼州の賊が起ったのは、中平元年(184)11月である。
潘眉はいう。『後漢書』申屠蟠伝、陳蕃伝に、「傳」がある。命令を記した書類である。ぼくは思う。公孫瓚は、代理とはいえ、幽州の突騎3千人をひきいた。後漢での地位が、けっこう高い。「商人や占い師と、義兄弟になって」みたいな記述から、何の裏づけもない新興勢力かと思っていたが、ちがう。後漢の北方を守護する、代表的な軍人と言ってもいいのでは? 母親の下賎さによるハンデは、実績で克服している。

幽州の突騎が薊中にきたとき、漁陽の張純が、遼西の烏丸・丘力居らをさそい、そむいた。薊中を劫略し、みずから將軍を号した。

漁陽は、明帝紀の景初2年にある。
『後漢書』烏桓鮮卑伝はいう。烏桓は、もとは東胡だ。霊帝のはじめ、烏桓の大人・上谷の有難楼は、9千余戸をひきいる。遼西の丘力居は、5千余戸をひきいる。どちらも王を称した。中平4年(187)、さきの中山太守・張純は、後漢に叛き、丘力居のもとに入った。みずから彌天安定王を名のった。諸郡の烏桓は、青州、徐州、幽州、冀州を寇した。中平5年(188)、劉虞は幽州牧となった。劉虞は、張純のクビを懸賞にかけた。河北は定まった。
ぼくは思う。涼州の叛乱との連動に、着目したい。涼州に、幽州の兵を連れて行こうとするから、暴動になった。黄巾のつぎは、烏桓に河北が荒らされた。これを鎮めたのが、幽州「牧」の劉虞でしたと。
「魏志」烏丸鮮卑東夷伝にも、記述があり、張純が3郡を治めたとある。ぼくは思う。張純が治めた郡の数が、具体的でよいなあ。
裴松之は『魏書』をひく。烏丸は、東胡だ。前漢初、匈奴の冒頓が滅した。冒頓の国の生き残りが、烏丸山にとりでした。だから、烏丸という。


九州春秋曰:純自號彌天將軍、安定王。

『九州春秋』はいう。みずから張純は、彌天將軍、安定王を号した。

『後漢書』劉虞伝はいう。さきの中山相・張純は、さきの泰山太守・張挙に言った。「もしキミと私が、烏桓をひきいたら、大業を定めることができる」と。張挙は天子を称し、張純は彌天將軍、安定王を称した。州郡に書状をまわし、後漢に代わり天子になると宣言した。
銭大昕はいう。『後漢書』南匈奴烏桓伝では、さきの中山「太守」だ。


略吏民攻右北平、遼西屬國諸城,所至殘破。瓚將所領,追討純等有功,遷騎都尉。

張純と丘力居は、吏民を略し、右北平、遼西屬國の諸城を攻めた。諸城は、殘破された。

右北平は、明帝紀の景初4年にある。
『後漢書』霊帝紀はいう。中平4年(187)6月、漁陽の張純は、同郡の張挙とそむく。右北平太守の劉政を殺した。遼東太守の陽終を殺した(恵棟いわく『水経注』では、殺されたのは陽終でなく、楊紘である)。護烏桓校尉の公キ稠を殺した(劉虞伝では、殺されたのは箕稠である)。張挙は、みずから天子を称し、幽州と冀州の2州を寇した。
ぼくは思う。劉政は、見覚えがある。公孫度伝で、公孫度にうとまれ、邴原にかくまわれた人物である。公孫瓚伝の劉政は、いま死んだから、同姓同名の別人だろう。

公孫瓚は、兵をひきいて、張純らを討った。功績により、騎都尉にうつる。

『後漢書』霊帝紀はいう。中平5年(188)9月、中郎将の孟益(『水経注』では孟溢)は、騎都尉の公孫瓚をひきい、漁陽の張純らを討った。中平5年(188)11月、公孫瓚と張純は、石門で戦った。公孫瓚が勝った。
ぼくは思う。中郎将の孟益は、公孫瓚の上司だ。中郎将は、盧植が北中郎将だったように、後漢末の方面軍のトップ。孟益は有名じゃないけど、高位だなあ。董卓との戦いの前に、埋もれちゃったか。
『後漢書』霊帝紀はいう。中平6年(189)3月、幽州牧の劉虞は、張純のクビに懸賞をかけて、張純のクビを斬った。ぼくは思う。劉虞がくる前に、公孫瓚の手柄によって、軍事的には決着がついていたのか。劉虞は、張純の乱について、名前を貸しただけだ。


屬國烏丸貪至王率種人詣瓚降。遷中郎將,封都亭侯,進屯屬國,與胡相攻擊五六年。丘力居等鈔略青、徐、幽、冀,四州被其害,瓚不能禦。

遼東屬國の烏丸・貪至王は、種族をひきいて公孫瓚にくだった。公孫瓚は、中郎將にうつり、都亭侯に封じられた。

『後漢書』公孫瓚伝はいう。詔して、公孫瓚を降虜校尉、都亭侯とした。また、属国長史もかねた。職務は、軍馬をすべることだ。公孫瓚は、いつも白馬にのり、白馬義従といわれた。烏桓は、「白馬長史を避けろ」と言った。
ぼくは思う。『三国志』で中郎将なのに、『後漢書』では雑号の校尉だ。高さが、ぜんぜんちがう。河北で、公孫瓚よりも活躍している「軍人」はいないと思う。だから、中郎将でいいじゃん。もう上がないほどの、大昇進である。

遼東屬國にすすんで、屯した。

『後漢書』公孫瓚伝はいう。公孫瓚は丘力居らを追撃し、遼東属国の石門で戦った。烏桓は破れ、妻子を捨てて、塞をこえてにげた。公孫瓚は深追いして、補給がつづかない。遼西の管子城で、丘力居に囲まれた。200余日して、食べ物がない。公孫瓚の軍は、過半数が死に、柳城ににげた。

公孫瓚は、胡族と5、6年むきあった。丘力居らは、青州、徐州、幽州、冀州を鈔略した。公孫瓚は、丘力居の被害をおさえられない。

沈家本はいう。『後漢書』は、異民族は公孫瓚をおそれ、近寄らなかったという。「おさえられない」とする、本文と異なる。ただし『後漢書』劉虞伝は、公孫瓚がミスって、劉虞が登場する。「おさえられない」が正しい。
盧弼の注釈により、『後漢書』公孫瓚伝、『後漢書』劉虞伝と合わせて読める。立体的に分かるものの、記事の重複や、前後の混乱がおおい。気がむいたら、年表にまとめます。


次回、公孫瓚のミスを正すため、劉虞が登場。つづく。110316   

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