表紙 > ~後漢 > 劉邦と劉秀の二廟を立て、天地を郊祀する公孫度伝

献帝を無視り、遼東の王をやる公孫度

後漢末の即位儀礼について調べており、
金子修一氏の論文を読んでいたら、登場した人物。

『後漢書』謝弼伝の同僚、霊帝の敵?

公孫度字升濟,本遼東襄平人也。度父延,避吏居玄菟,任度為郡吏。

公孫度は、あざなを升濟という。もとは遼東の襄平の人だ。

『後漢書』独行伝の王烈伝の注釈は、あざなを叔済とする。盧弼がほかの部分から判断すると、升濟がただしい。
ぼくは思う。独行伝に、公孫度が出てくるのか?見ねば。
遼東の襄平は、「魏志」明帝紀の景初元年にある。献帝の初平元年(190)に、公孫度は遼東をわけて、遼西、中遼をつくった。景初二年、曹魏は公孫淵をほろぼして、遼東郡にあわせた。

公孫度の父は、公孫延だ。吏を避けて、玄菟にいた。

『郡国志』はいう。幽州の玄菟郡は、高句麗が郡治だ。はじめは沃沮が郡治だったが、高句麗に移したのだろう。
ちくま訳は、「なにかの事件で」吏を避けたと、原因を補う。よく分からない。霊帝の宦官が、子弟を地方に送りこみ、好き勝手をした時代だ。宦官の子弟を避けたか。だとしたら、「後漢は、終わりだなあ」という雰囲気を、少年の公孫度は味わうことになる。

公孫度は、玄菟の郡吏に任じられた。

時玄菟太守公孫琙,子豹,年十八歲,早死。度少時名豹,又與琙子同年,琙見而親愛之,遣就師學,為取妻。後舉有道,除尚書郎,稍遷冀州刺史,以謠言免。同郡徐榮為董卓中郎將,薦度為遼東太守。度起玄菟小吏,為遼東郡所輕。

ときに玄菟太守は、公孫琙である。公孫琙の子は、公孫豹である。公孫豹は、18歳で死んだ。公孫度は、幼名を「豹」といった。公孫琙の子と、おない歳だ。公孫琙は、名と歳が同じなので、公孫度をかわいがった。学問の師と、妻をあたえた。

『後漢書』王烈伝の注釈は、公孫琙を「公孫域」とする。ぼくは思う。ネットユーザーには、「域」のほうが、優しい。文字化けのリスクがゼロである。

のちに公孫度は、有道の科目であげられ、尚書郎に除され、冀州刺史にうつる。謠言のため、免ぜられた。

『後漢書』謝弼伝はいう。建寧二年(169)、詔して有道の士をあげさせた。謝弼と、玄菟の公孫度は、ともに対策した。どちらも郎中に除された。
『後漢書』袁紹伝はいう。公孫度は、はじめ吏をさけて、玄菟の小吏となった。中平元年(184)、本郡(遼東)の太守になった。
ぼくは思う。冀州刺史にせよ、遼東太守にせよ。公孫度は、けっこう官位がたかい。宦官に対抗する士大夫として、注目されていたのかも知れない。謝弼と同期なので、謝弼伝を読み、公孫度の政治姿勢が、謝弼と似ていると仮定すれば、公孫度の後漢での立場がわかる。のちに辺境で「自立」しちゃう人の、中央での振舞いは、とても気になる。つぎは、謝弼伝をこのホームページでやろう。

おなじ遼東の徐榮は、董卓の中郎將となった。徐栄は董卓に公孫度を薦し、公孫度を遼東太守とした。公孫度は、玄菟の小吏からはじまったので、遼東の郡では軽んじられた。

徐栄のことは、武帝紀の初平元年にある。曹操を破った人ですね。


遼東で、郡中の豪族と、異民族を討つ

先時,屬國公孫昭守襄平令,召度子康為伍長。度到官,收昭,笞殺于襄平市。郡中名豪大姓田韶等宿遇無恩,皆以法誅,所夷滅百餘家,郡中震慄。

さきに、遼東屬國の公孫昭は、襄平令となった。公孫昭は、公孫度の子・公孫康を召して、伍長とした。公孫度は遼東太守に着任すると、公孫昭をとらえ、襄平の市中でムチで殺した。

遼東属国は、斉王紀の正始5年にある。
沈欽韓はいう。『続漢書』はいう。里のなかで、10家をつかさどる人は、什長。5家をつかさどる人は、伍長。
ぼくは思う。このあたりは、公孫氏ばかりか。ちかぢかやりたいが、公孫瓚も然り。

遼東の郡中にいる名豪・大姓は、田韶らである。田韶らは、公孫度に冷たかった。公孫度は、法に照らし、田韶らを族殺した。族殺されたのは、100余家である。遼東の郡中は、公孫度に震慄した。

ぼくは思う。田韶らは、なぜ公孫度を軽んじたのだろう。「公孫度は、出自が低いくせに、玄菟でかわいがられ、成りあがったから」と読むのが、無難であろうか。しかし、それだけで、100余家を族殺する怨みが溜まるものか。プライドが傷ついたという私怨だけじゃ、説明がつかない。べつの説明が必要だ。
また、公孫度がひどく下賎の出身なら、公孫昭が、公孫度の子・公孫康を取り立ててくれないだろう。遼東に、公孫度を支持する勢力も、いちおうは存在したのだ。
妄想をふくらましてみる。
遼東に、もともと霊帝の与党がいた。董卓に連なる徐栄が、霊帝の与党たちを粉砕するため、公孫度を遼東に送りこんだ。公孫度は、董卓派として、遼東で敏腕をふるった。とか。在地の豪族を、まとめて潰すのは、董卓が任じた荊州刺史・劉表とおなじだ。


東伐高句驪,西擊烏丸,威行海外。初平元年,度知中國擾攘,語所親吏柳毅、陽儀等曰:「漢祚將絕,當與諸卿圖王耳。」

公孫度は、東に高句驪を伐ち、西に烏丸を擊った。公孫度の威勢は、海外までおよんだ。

『後漢書』王烈伝はいう。黄巾の乱と、董卓の乱のとき、王烈は避難した。遼東太守の公孫度は、王烈に対し、「昆弟の礼」で接した。王烈をおとずれ、政事の話をした。公孫度は、王烈を長史としたい。王烈は、商売をやってみずから手を汚し、公孫度の長史にならずにすんだ。『三国志』管寧伝はいう。管寧は、公孫度の威令が海外におよぶと聞いた。管寧は、邴原や王烈らと、遼東にいく。公孫度は、館をカラにして、出迎えた。
ぼくは思う。後漢末、周囲から圧迫され、治安が安定しない地域がおおい。いっぽう公孫度の遼東は、周囲を圧迫するから、戦闘の矢印は外側にむき、郡中が治安が安定する。だから人が集まったようだ。孫呉とおなじ状態。だが、名声ある士大夫が、積極的に仕えたい君主ではなかったようだ。


献帝から独立し、李敏に反対される

初平元年,度知中國擾攘,語所親吏柳毅、陽儀等曰:「漢祚將絕,當與諸卿圖王耳。」魏書曰:度語毅、儀:「讖書云孫登當為天子,太守姓公孫,字升濟,升即登也。」

初平元年(190)、公孫度は、中國が擾攘すると聞いた。公孫度は、親しくする吏である柳毅や陽儀らに言った。「漢祚が、まさに絶えそうだ。諸卿らとともに、王となることを図ろう」と。
『魏書』はいう。公孫度は、柳毅と陽儀に語った。「讖書はいう。孫登が天子になると。太守である私は、姓が公孫、あざなが升濟だ。升とは、登である」

言っちゃったよ!「漢祚」が絶え、「讖書」に姓名を記された人が、「天子」となる。同じことを言った人が、7年後にも出てくる。めでたいなあ。
ぼくは充分に認識していなかったが、遼東太守の公孫度は、内外に対して、超・強かったのだろう。だから、こんなスゴいことを言った。本拠に辺境を選んだのは、そこが故郷だったから。「中原で天子を名のると、袋叩きにされて、長続きしない。ブルーオーシャン戦略でいこう」なんて、打算があったのでは、なかろう。
金子修一氏は、董卓が献帝を擁立したことに、公孫度が反発したとする。董卓は、献帝の親祭に同行して、おのれの正統性を示した(希少な親祭の記事なのだそうだ)。おなじ時期、公孫度も祭りをやって、董卓にぶつけたと。


時襄平延里社生大石,長丈餘,下有三小石為之足。或謂度曰:「此漢宣帝冠石之祥,而里名與先君同。社主土地,明當有土地,而三公為輔也。」度益喜。

ときに襄平の延里にある社で、大きな石が出てきた。長さは2メートル以上。3つの小石が、足のように、大きな石を支えた。ある人が、公孫度に言った。「前漢の宣帝のときと、おなじ吉祥だ。延里という地名は、公孫度の父・公孫延とおなじだ。三公が、公孫度を支えるサインだ」と。公孫度は、ますます喜ぶ。

『漢書』五行志・中の上はいう。元鳳三年(前78)正月、泰山に大きな石が、、『御覧』873は、これを引き、宣帝が中興する瑞祥だとする。
ぼくは思う。宣帝の話は、石が5尺。公孫度は、石が1丈あまり。スケールが、全然ちがうけど、大丈夫か?そして宣帝は、中興した人であって、王朝を新規にはじめた人でない。公孫度が大きな石を喜ぶとは、公孫度が「中興」をしたいというサインか。公孫度はあとで、劉邦と劉秀を祭っちゃうし。公孫度は、異姓のくせに、漢の天子となり、漢を復興するつもりらしい。より具体的には、董卓が劉弁を廃位した時点で、後漢は終わっちゃったという認識である。皇帝の祭祀は、公孫度がやるからね、と。
『後漢書』袁紹伝はいう。ときに王室は方乱した。公孫度は、土地が遠いから、ひそかに「幸念」をいだく。襄平の石を、瑞祥だととらえた。


故河內太守李敏,郡中知名,惡度所為,恐為所害,乃將家屬入于海。度大怒,掘其父冢,剖棺焚屍,誅其宗族。

もと河內太守の李敏は、遼東の郡中で、名を知られた。李敏は、公孫度のやることを悪んだ。李敏は、公孫度に殺されたくないから、家属をひきいて、海ににげた。公孫度は怒り、李敏の父の冢をほり、棺をあばいて死体を燃やす。

どこにでも、いるよね。「僭称」に反対する人って。そういえば袁術が、おのれに反対する人を、殺しまくったという話を聞かない。

公孫度は、李敏の宗族を殺した。

杭世駿はいう。王隠『晋書』はいう。李裔は、あざなを宣伯という。李裔の父は、李敏である。公孫度に迫られ、海に浮かんで、どこに行ったか分からない。李裔は、父母の生死を知らない。父の位牌をつくって、位牌を奉った。
侯康はいう。『晋書』李宣伯伝はいう。李敏の子は、李信である。杭世駿は、王隠『晋書』をひき、李宣伯を李敏の子とした。まちがっている。李敏の孫である。王隠『晋書』は、書きまちがえたのであろう。
ぼくは補う。公孫度に追われた李敏-王隠が書きおとした李信-『晋書』に記された李宣伯。という、祖父から孫への系図が書けます。


晉陽秋曰:敏子追求敏,出塞,越二十餘年不娶。州里徐邈責之曰:「不孝莫大於無後,何可終身不娶乎!」乃娶妻,生子胤而遣妻,常如居喪之禮,不勝憂,數年而卒。胤生不識父母,及有識,蔬食哀戚亦如三年之喪。以祖父不知存亡,設主奉之。由是知名,仕至司徒。臣松之案:本傳云敏將家入海,而復與子相失,未詳其故。

『晉陽秋』はいう。李敏の子は、李敏をさがして出塞した。20余年たっても、父がいないから、妻をめとらず。おなじ州里の徐邈は、李敏を責めた。「子孫がいないことが、最大の不孝だ」と。

盧弼が『晋陽秋』に、たくさん注釈する。はぶく。『三国志』に、牽招伝がある。

李敏の子は、妻をめとり、李胤が生まれた。子づくりが終わると、李敏の子は妻を遠ざけ、つねに「居喪之禮」ですごした。数年して死んだ。李胤は、父母のために「三年之喪」をやった。李胤は、祖父の生死が分からないと知ると、位牌をつくって奉った。李胤は、祖父と父母への孝行で、名を知られた。李胤は、司徒になった。

ぼくは思う。公孫度が天子になると言うと反対し、服喪をキッチリとやる。魏晋の「名士」の典型をゆく家である。こういう家を、ぼくはキライである。
『晋書』李胤伝はいう。李胤は、あざなを宣伯という。遼東の襄平の人だ。祖父の李敏は、後漢の河内太守だ。官を去り、郷里にもどる。李敏は公孫度におどされ、軽舟に乗り、海に浮かんだ。最期はわからない。李敏の父は、李信である。李信は、父の生死が分からないので、妻をめとらない。燕国の徐邈が、李信を叱ったので、李胤が生まれた。李胤は、祖父の生死が分からないので、位牌をつくった。孝行で知られた。
ぼくは思う。『晋書』は、とくに新しい情報がない。裴注を写したね。

裴松之はいう。陳寿は、李敏は家属をひきいて、海に逃げ、子のことも分からない。『晋陽秋』と合わない。

邴原伝はいう。邴原は、同郡の劉政とともに、遼東にきた。邴原も劉政も、勇略と雄気があった。遼東太守の公孫度は、劉政をおそれ、劉政を殺したい。公孫度は、劉政の家族を、すべて捕らえた。劉政は、逃げることができた。邴原は、1ヶ月余、劉政をかくまう。東莱の太史慈は、邴原に仕えたい。邴原は、劉政を太史慈にくっつけた。邴原は公孫度を説得し、劉政の家族を故郷に帰させた。
ぼくは思う。邴原伝、太史慈伝も関わるのか。孔融とかも、からみそう。「魏志」巻11は、そのうち、やりたいと思ってる。袁紹よりも北で、公孫度に反対した「名士」たちが、複雑な話を展開している。青州とも、海を経てつながっている。太史慈が、袁術の滅亡後、独立のマネゴトをした。公孫度をどのように意識したのか。劉備は、この地域で孔融や太史慈とからみ、名を売る。公孫瓚と付き合う。などなど。
邴原伝をひいた盧弼は、「太史慈当帰原~」と記す。ちくま訳では、「太史慈が故郷に帰るところだ。だから邴原は~」とする。ぼくは上で「太史慈は邴原に仕えよう(帰そう)とした」とした。やっぱ、ちくまが正しいのか。どちらにせよ、劉政は太史慈にくっついて、帰郷した。これは揺らがない。太史慈の意図が、ちょっと違うけど。


2祖廟を祭り、天地を郊祀する

分遼東郡為遼西中遼郡,置太守。越海收東萊諸縣,置營州刺史。自立為遼東侯、平州牧,追封父延為建義侯。

公孫度は、遼東郡を分割して、遼西郡と中遼郡をつくり、太守を置いた。

銭大昕はいう。『晋書』地理志はいう。帯方郡は、公孫度が置いたと。『三国志』公孫度伝は、帯方郡の設置を記さない。だが『三国志』東夷伝は、帯方郡の設置を記す。
梁商鉅はいう。この列伝のおわりに、遼東、帯方、楽浪、玄菟を、公孫氏がすべて平定したとある。これら4つは、すべて漢代に設置された郡である。帯方は、楽浪の属県であった。東夷伝はいう。建安年間、公孫康は、いくつかの県を分割して、南の荒地を帯方郡としたと。『晋書』が、帯方郡を設置したのが公孫度とするのは、誤りだ。公孫康である。

海をこえ、東莱の諸縣をおさめ、營州刺史を置いた。

東莱は、臧洪伝にある。東莱は、三面が海にかこまれる。ぼくは思う。山東半島の先は、河東から攻め進んでも、どうも求心力がとどかない。それよりも、遼東からアクセスしやすい。mujinさんは、地中海に例えていらっしゃった。ぼくは、地中海をめぐる歴史を知らないのだが、比較すると、いろいろ言えるのかも知れない。中国の史書は、海をめぐる争いを、あんまり主題としてくれない。それより、地中海の歴史を学んだほうが、かえって、営州について、分かるのかも知れない。

公孫度は、自立して遼東侯、平州牧となった。父の公孫延に、建義侯を追爵した。

呉増僅はいう。初平元年(190)、公孫度は自立して、平州牧となった。平州の号は、ここに初めて現れる。公孫恭、公孫淵のとき、みずから太守になり、みずから燕王を称したが、平州の名をつかわない。公孫度が、このときだけ使った地名だろう。「平州」という行政区画を、正式に設置したわけでない。
『晋書』はいう。曹魏は、遼東ら5郡を分割して、平州をおいた。のちに幽州に合わせた。おそらく公孫淵を滅ぼしたあと置いたが、また省いたのだろう。
ぼくは思う。曹魏が平州に割りふった5県が、公孫淵の支配領域だったのだろう。ここを鎮静するため、州牧を設置したんじゃないかな。


立漢二祖廟,承制設墠於襄平城南,郊祀天地,藉田,治兵,乘鸞路,九旒,旄頭羽騎。太祖表度為武威將軍,封永寧 253 鄉侯,度曰:「我王遼東,何永寧也!」藏印綬武庫。度死,子康嗣位,以永寧鄉侯封弟恭。是歲建安九年也。

公孫度は、漢の二祖の廟を立てた。承制して、墠(土山)を襄平の城南に設けた。天地を郊祀した。藉田し、治兵し、鸞路に乘り、九旒と旄頭の羽騎をつける。

『説文』はいう。墠とは、、藉田は武帝紀の建安19年にある。胡三省はいう。羽騎とは、羽林の騎馬である。
ぼくは思う。二廟の設置と天地の郊祀が、とても気になるが、盧弼がコテコテの注釈をつけるわけでない。この記事があるから、今回、公孫度伝をやった。しかし、時系列がよく分からない。ぜんぶ初平元年(190)の出来事とするのは、詰めこみすぎだと思う。公孫瓚伝を読むと、何か分かるのだろうか。建安9年(204)より前だとしか、言えない。

曹操は上表して、公孫度を武威將軍とし、永寧郷侯に封じた。

『後漢書』袁紹伝はいう。建安9年、司空の曹操は上表し、公孫度を奮威将軍とした。
ぼくは補う。陳寿は武威将軍といい、范曄は奮威将軍というから、ちがうなあ。曹操が公孫度に官位をつけたのは、袁紹の子を、北に追いかけた時期だ。逆に言うと、袁紹の子を追うまで曹操は、いくら献帝を擁していても、公孫度に関与できなかった。遼東の自立は、実質的に成立していたのだ。

公孫度は言った。「私は遼東で、王をやってる。なにが永寧郷侯か」と。永寧郷侯の印綬を、武庫にしまった。公孫度が死に、子の公孫康がつぐ。永寧郷侯は、弟の公孫恭がつく。この歳が、建安9年(204)である。

つぎ、曹操が袁尚を追って、突っこんできます。おわり。110315

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