表紙 > 曹魏 > 『三国志』巻13より、華歆伝と王朗伝の前半、袁術や揚州との絡み

袁術とともに馬日磾を支えた、豫章太守の華歆

『三国志集解』で、華歆伝と王朗伝を、途中までやります。

華歆、邴原、管寧、陶丘洪がならぶ

華歆字子魚,平原高唐人也。高唐為齊名都,衣冠無不遊行市里。歆為吏,休沐出府,則歸家闔門。議論持平,終不毀傷人。

華歆は、あざなを子魚という。平原の高唐の人だ。高唐は、齊国の名都だ。みな役人は、市里を遊行する。華歆は郡吏となったが、遊行しない。議論は公平で、人を傷つけない。

『世説新語』はいう。華歆は、子弟と付き合うときも、とても整った。閨室でも、まるで朝典のように、おごそかだった。ぼくは思う。そんなの、楽しいのかね。カタブツ系なのですね。


魏略曰:歆與北海邴原、管甯俱遊學,三人相善,時人號三人為「一龍」,歆為龍頭,原為龍腹,甯為龍尾。臣松之以為邴根矩之徽猷懿望,不必有愧華公,管幼安含德高蹈,又恐弗當為尾。魏略此言,未可以定其先後也。

『魏略』はいう。平原の華歆、北海の邴原、北海の管寧は、ともに遊学した。3人セットで「1龍」とよばれた。 華歆が龍の頭、邴原が龍の腹、管寧が龍の尾。
裴松之は考える。この言葉で、3人の優劣は決まらない。

同郡陶丘洪亦知名,自以明見過歆。時王芬與豪傑謀廢靈帝。語在武紀。 魏書稱芬有大名於天下。 芬陰呼歆、洪共定計,洪欲行,歆止之曰:「夫廢立大事,伊、霍之所難。芬性疏而不武,此必無成,而禍將及族。子其無往!」洪從歆言而止。後芬果敗,洪乃服。舉孝廉,除郎中,病,去官。

華歆は、おなじ平原の陶丘洪と、名を知られた。陶丘洪は、自分が華歆よりスゴいと思った。

陶丘洪は、荀攸伝にひく『漢末名白録』と、「呉志」劉繇伝にある。 ぼくは思う。こういう注釈がうれしい。『三国志集解』を参照する冥利につきる。

ときに王芬は、豪傑とともに、霊帝を廃したい。武帝紀にある。『魏書』はいう。王芬は、天下におおきな名声があったと。
王芬は、華歆と陶丘洪をさそう。華歆はとめた。「廃立は、伊尹や霍光でもむずかしかった。王芬は、性格があらっぽく、武にすぐれない。失敗する。陶丘洪は、いくな」と。陶丘洪はゆかず。王芬が失敗すると、陶丘洪は華歆に服した。

王芬に名声があったことは、武帝紀に書いてなかったはず。まあ、とくに裏づけのいらない記述。霊帝に敵対するのは、たいてい名声がある連中なんだ。
この事件は、物語としては、陶丘洪が華歆にやりこめられる話。

孝廉にあがり、郎中となる。病で、去官する。

靈帝崩,何進輔政,徵河南鄭泰、潁川荀攸及歆等。歆到,為尚書郎。董卓遷天子長安,歆求出為下邽令,病不行,遂從藍田至南陽。

靈帝が崩じた。何進が輔政した。何進は、河南の鄭泰、潁川の荀攸、平原の華歆らを徴した。

『後漢書』鄭泰伝はいう。鄭泰は、尚書侍郎となる。こちら。
『後漢書』郭泰、符融、許劭、鄭泰、孔融伝を抄訳、『三国志』を補う
荀攸伝はいう。何進は、海内の名士をまねく。荀攸ら20余人は、黄門侍郎となる。

華歆は到り、尚書郎となる。董卓が長安に遷都した。華歆を下邽令とする。華歆は、病ゆえ下邽県にゆかず。藍田より、南陽にゆく。

下邽は、京兆郡にある。盧弼は、下邽が設置されたり、廃止されたり、変遷をいろいろ書く。まあ、長安に近い県だと分かるので、いまは、いいや。
盧弼はいう。藍田は、京兆郡にある。


華嶠譜敘曰:歆少以高行顯名。避西京之亂,與同志鄭泰等六七人,間步出武關。道遇一丈夫獨行,原得俱,皆哀欲許之。歆獨曰:「不可。今已在危險之中,禍福患害,義猶一也。無故受人,不知其義。既以受之,若有進退,可中棄乎!」眾不忍,卒與俱行。此丈夫中道墮井,皆欲棄之。歆曰:「已與俱矣,棄之不義。」相率共還出之,而後別去。眾乃大義之。

華嶠『譜敘』はいう。華歆は、長安の乱をさけた。同志の鄭泰ら6、7人と武関をでた。道で、1人に出会った。華歆は、合流を渋った。みなが合流させた。道中で、合流した人が井戸に落ちた。華歆は救った。

『世説新語』徳行篇はいう。華歆と王朗は、ともに船に乗る。1人に出会った。華歆は、合流を渋った。王朗が同乗させた。のちに賊に追われた。船の速度をあげるため、王朗は、同乗した1人を下ろしたい。華歆は下ろさず。
盧弼はいう。華歆と王朗の優劣がわかる。しかし華嶠『譜敘』のエピソードとおなじだ。『世説新語』には、華歆のまねをして、王朗が酒を飲む話があり、これを張華にむけて語ったという設定だ。王朗と華歆は、記号にすぎない。
ぼくは思う。王朗と華歆のできごとでなく、誰でもよかったのだね。っていうか、華嶠は、同姓の華歆をもちあげるために、こういう話を書いているだけだ。とくに参考とする必要はない。


袁術とともに、馬日磾をたすける

時袁術在穰,留歆。歆說術使進軍討卓,術不能用。歆欲棄去,會天子使太傅馬日磾安集關東,日磾辟歆為掾。東至徐州,詔即拜歆豫章太守,以為政清靜不煩,吏民感而愛之。

ときに袁術が、穣県(南陽)にいた。袁術は、華歆をとどめた。華歆は袁術に説いた。「進軍して、董卓を討て」と。袁術は、華歆の意見を用いることができない。華歆は、袁術を棄てて去りたい。

ぼくは思う。この「不能用」が、いろんな意味にとれる。董卓を討てなかったのは、事実。董卓を討てなかった、という結果を言っているのか。そもそも進軍すら、できなかったのか。つぎの「棄てて去る」という言葉に、袁術にたいする悪意がある。べつに「去りたい」で充分なのに、わざわざ「棄てる」という。筆者が袁術に悪意があることが明らかなら、「不能用」がもつ残念なニュアンスも、差し引きたい。
タイミング的には、呂布が勝手に董卓を殺してしまったので、袁術は「間に合わなかった」というニュアンスで読むことも可能。どのみち失敗だが。

たまたま献帝は、大夫の馬日磾を、関東にやる。馬日磾は、華歆を辟して、太傅の掾とした。

董卓は、初平三年(192)の5月あたりに死ぬ。馬日磾が長安を出たのは、初平三年(192)8月。袁術が荊州を飛び出すのは、初平四年(193)だ。袁術の兗州進出は、馬日磾に同調した動きか。馬日磾が、関東を「安集したい」というから、袁術もいっしょに動いた。華歆も、いっしょに動いた。袁術にしたがって動いているのか、華歆にしたがって動いているのか。外見では、わからない。解釈の問題。のちの曹魏の高官・華歆が、袁術とともに動いていては、都合がわるい。だから、袁術を「棄」てると、わざわざ史家が書き足したか。

華歆は、徐州に到る。豫章太守を拝した。政治は、清靜で不煩だ。吏民は、華歆を感愛した。

ぼくは思う。馬日磾は、荊州の北部をとおり、徐州まで行き、揚州にくだった。足取りが、よくわかります。李傕のとき関東は、「馬日磾・趙岐体制」とでも言うべき、秩序が訪れたのですね。これに積極的に協力したのが、袁術。足並みを乱したのが、袁紹。
『後漢書』趙岐伝:袁紹に違約され、劉表に洛陽を修理させる趙岐
劉表は、趙岐に協力した。劉表は、曹操に保護されるまで、献帝の味方。
190年代前半は、劉表-趙岐-馬日磾-袁術とつながる。つまり、劉表と袁術は、李傕がささえる献帝が、関東の秩序を回復することに、同意している。じゃあ、劉表が袁術を荊州から追い出したという話も、フィクションかも知れない。
妄想してみました。
曹操は、193年春、袁術を徹底的に叩く。この戦いが発生した原因として、劉表による袁術の追い出しが記される。どうやら、これは曹操目線のフィクション。じつは、ちがうかも。袁術は、とくに劉表と対立しないが、馬日磾を護衛するために、兗州にすすんだ。袁紹と曹操は、李傕がささえる献帝を認めない。だから袁術は、馬日磾のために、曹操を討ちに行った。これが、袁術が北伐した理由。しかし、これをきちんと書くと、曹操が献帝に敵対したことが、バレてしまう。だから、劉表と袁術の対立を、史家がデッチあげた。とか。笑


魏略曰:揚州刺史劉繇死,其眾原奉歆為主。歆以為因時擅命,非人臣之宜。眾守之連月,卒謝遣之,不從。

『魏略』はいう。揚州刺史の劉繇が死んだ。劉繇の兵は、華歆を主君にしたい。華歆は、献帝の命令がないのに、揚州刺史になりたくない。劉繇の兵は、数ヶ月、華歆のそばにいた。華歆は兵にあやまり、去らせた。揚州刺史とならなかった。

ぼくは思う。ちくま訳は「劉繇の配下にあった民衆」と記す。これだと、いかにも劉繇に、人徳があったように見える。でも「衆」と言えば、ふつうは「軍隊」だ。劉繇の部隊が、つぎの指揮官を探しただけ。華歆は、献帝を無視して、刺史になることを拒んだ。献帝による秩序の回復を、願っていたことがわかる。
劉繇の兵たちの動きを見ると、まるで劉繇も、なりふり構わず、揚州刺史になったかと思われるほど、勝手だ。まあ、袁術へ先に攻めたのは、劉繇だったしなあ。劉繇も、ふつうに野心ある群雄なんだ。かるく献帝にゴリ押しで、揚州牧になる。


袁術の死後、曹操派の孫策に降伏する

孫策略地江東,歆知策善用兵,乃幅巾奉迎。策以其長者,待以上賓之禮。 胡沖吳曆曰:孫策擊豫章,先遣虞翻說歆。歆答曰:「歆久在江表,常欲北歸;孫會稽來,吾便去也。」翻還報策,策乃進軍。歆葛巾迎策,策謂歆曰:「府君年德名望,遠近所歸;策年幼稚,宜脩子弟之禮。」便向歆拜。

孫策は、江東を侵略した。華歆は、孫策が用兵をうまいと知る。華歆は、幅巾をかぶり、孫策を奉迎した。

盧弼はいう。幅巾は、武帝紀の建安25年にひく『傅子』にある。『後漢書』鄭玄伝、韋彪伝、馮衍伝、鮑永伝、符融伝、韓康伝、法真伝にある。公式の冠をはずした状態。公式の冠のしたに着けるもの。官位をこばむとき、幅巾をかぶって、出てゆく。
ぼくは思う。ちくま訳は「隠士がかぶるもの」とする。ちょっとちがう。華歆は、「豫章太守を辞めましたよ」と、孫策に伝えたのだろう。

孫策は、華歆を上賓之禮で遇した。

ぼくは思う。孫策伝を読むと、孫策が華歆を攻めるのは、袁術の死後だ。袁術の生前は、孫策-袁術-馬日磾-華歆は、友好な関係。しかし袁術が死に、孫策は曹操に転じた。孫策は、これまでの関係を裏切った。
華歆は、袁術-馬日磾の派閥にとどまっている。ゆえに華歆と孫策は、敵対する関係となった。いま馬日磾と袁術がすでに死んだ。袁術-馬日磾の派閥は、空ッポだ。華歆は、孫策に勝てないと知り、降伏した。つまり、曹操がたすける献帝に降伏したのだ
孫策が華歆を攻めるのは、『江表伝』の記述。ちょっと不安。
袁術が死ぬまでの忠臣、死ぬまで献帝の忠臣、孫策伝 04

胡沖『呉歴』はいう。孫策は豫章を撃った。さきに孫策は、虞翻をゆかせ、華歆を説得した。華歆は、孫策を歓迎した。孫策は華歆に言った。「私・孫策のほうが若い。子弟之禮をとります」と。

ぼくは思う。孫呉のがわの史料だから、孫策が人徳者になる。馬鹿な。
『通鑑収攬』はいう。華歆と王朗は、どちらも城を陥とされた。王朗は全力で戦い、華歆は降伏したと。ぼくは思う。華歆と王朗は、『世説新語』で船に同乗するエピソードがあるとおり、比較の対象となる。孫策に対する、対照的な態度も、好対照。なぜ、孫策に対して、態度がちがうか。つぎに王朗伝をやり、解き明かしたい。


華嶠譜敘曰:孫策略有揚州,盛兵徇豫章,一郡大恐。官屬請出郊迎,教曰:「無然。」策稍進,複白髮兵,又不聽。及策至,一府皆造閣,請出避之。乃笑曰:「今將自來,何遽避之?」有頃,門下白曰:「孫將軍至。」請見,乃前與歆共坐,談議良久,夜乃別去。義士聞之,皆長歎息而心自服也。策遂親執子弟之禮,禮為上賓。是時四方賢士大夫避地江南者甚眾,皆出其下,人人望風。每策大會,坐上莫敢先發言,歆時起更衣,則論議讙譁。歆能劇飲,至石餘不亂,眾人微察,常以其整衣冠為異,江南號之曰「華獨坐」。

華嶠『譜敘』はいう。孫策は、豫章を力攻めしかなった。華歆は、みずから出てきた。孫策の会議で、華歆は、いちばん最初に発言した。華歆は、たくさん飲酒しても乱れない。江南では「華独坐」と言った。

ぼくは思う。華氏バンザイの史料。新しい事実は、ない。既存の史料を切り貼りして、華歆スゲー!と言っただけ。くわしく読んでも、しかたない。この史料を、「孫策は、名士・華歆を厚遇した」と分析するのも、大間違い。


虞溥江表傳 曰:孫策在椒丘,遣虞翻說歆。翻既去,歆請功曹劉壹入議。壹勸歆住城,遣檄迎軍。歆曰:「吾雖劉刺史所置,上用,猶是剖符吏也。今從卿計,恐死有餘責矣。」壹曰:「王景興既漢朝所用,且爾時會稽人眾盛強,猶見原恕,明府何慮?」於是夜逆作檄,明旦出城,遣吏齎迎。策便進軍,與歆相見,待以上賓,接以朋友之禮。

虞溥『江表伝』はいう。孫策がきた。功曹の劉壹は、華歆に「孫策に降伏せよ」と言った。華歆は言った。「私は、揚州刺史・劉繇に置かれた。孫策に降伏できない」と。劉壹は言った。「王朗は孫策に降伏したが、許された。華歆も、降伏してよい」と。華歆は、孫策に降伏した。

ぼくは思う。ひっでえ!いつも『江表伝』は、デタラメだ。
華歆は、馬日磾と同行して、豫章太守となった。劉繇が置いたのでない。華歆が、みるみる孫策に降伏する様子が描かれるが、どうせウソである。孫策スゲー!のバイアスが、かかっている。華歆が孫策をおそれるセリフを、『江表伝』は言わせたかった。孫策を強く見せるため、華歆に葛藤させた。華歆に、「劉繇」なんて言ってしまい、足がついた。地名や人名など、固有名詞をつけて、それっぽくする。困った史料だ。
つぎ、孫盛の意見がついてるが、無視。


曹操と孫権を仲だちすると言い、揚州を去る

後策死。太祖在官渡,表天子徵歆。孫權欲不遣,歆謂權曰:「將軍奉王命,始交好曹公,分義未固,使僕得為將軍效心,豈不有益乎?今空留僕,是為養無用之物,非將軍之良計也。」權悅,乃遣歆。

のちに孫策が死んだ。曹操は官渡にいる。上表して、天子は華歆を徵した。孫権は、華歆を行かせたくない。華歆は孫権に言った。「あなた・孫権は、王命を奉ったばかりだ。曹操と交好を始めたばかりだ。私が曹操のところにゆき、孫権との仲だちをする。もし私を揚州におけば、役に立たない。孫権にとって、利益でない」と。孫権は悦び、華歆をゆかせた。

ぼくは思う。孫権がいちばん必要な人材は、曹操との仲だち。華歆だって、豫章太守をやった延長で揚州にいるが、揚州にいる義理はない。中央に帰りたい。「曹操と孫権を仲だちする」は、ウソでないが、かぎりなく口実にちかい。
孫策に降伏したということは、華歆は、曹操がたすける献帝を支持する立場。そりゃ、許都にゆきたいね。


賓客舊人送之者千餘人,贈遺數百金。歆皆無所拒,密各題識,至臨去,悉聚諸物,謂諸賓客曰:「本無拒諸君之心,而所受遂多。念單車遠行,將以懷璧為罪,原賓客為之計。」眾乃各留所贈,而服其德。

賓客や旧知の人が、1千余人、華歆を見送った。贈り物を受けとり、のちに返した。

『御覧』巻819は、『呉歴』をひく。孫策は華歆を見送った。華歆は牛渚をわたる。贈り物を、封して返した。盧弼は考える。孫策でなく、孫権である。


歆至,拜議郎,參司空軍事,入為尚書,轉侍中,代荀彧為尚書令。太祖征孫權,表歆為軍師。

華歆は、議郎となる。司空軍事に参じた。尚書、侍中。荀彧にかわり、尚書令となる。曹操は孫権を征するとき、華歆を軍師とした。魏国ができると、御史大夫。

みごとに、孫権を「裏切った」ように見える。ちがう。一貫して、献帝をささえた。裏切ったのは、孫権である。曹操-献帝に従っておきながら、途中から、独立のマネゴトをした。
ぼくは思う。いま省いてしまったが、裴注『魏書』で、華歆は献帝から璽綬をうばい、曹丕にうつす。もし華歆が、袁術の即位を見ていたら。もしくは、即位儀礼を補佐していたら。曹丕の禅譲を演出する役割は、適任である。袁術が皇帝即位したとき、華歆は敵対の形跡がない。ほんのり、袁術を補佐していたかも知れないなあ。楽しい妄想。


つぎ、おなじ巻の王朗伝。つづく。

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