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『易経』を引用して袁術を批判した、何夔伝

『三国志集解』で、何夔伝をやります。

車騎将軍の曾孫だが、党錮にあう

何夔字叔龍,陳郡陽夏人也。曾祖父熙,漢安帝時官至車騎將軍。

華嶠漢書曰:熙字孟孫,少有大志,不拘小節。身長八尺五寸,體貌魁梧,善為容儀。舉孝廉,為謁者,贊拜殿中,音動左右。和帝(佳)之,曆位司隸校尉、大司農。永初三年,南單于與烏丸俱反,以熙行車騎將軍征之,累有功。烏丸請降,單于複稱臣如舊。會熙暴疾卒。

何夔は、あざなを叔龍。陳郡の陽夏の人だ。曾祖父の何熙は、後漢の安帝のとき、車騎將軍までのぼる。

呉増僅はいう。『三国志』諸王伝はいう。黄初四年、曹邕を陳王とした。これが、曹魏ではじめて、郡を国とした事例である。太和六年、曹植を陳王とした。曹植の子・曹志は、済北王となる。陳国は、陳郡にもどる。

華嶠『漢書』はいう。何熙は、あざなを孟孫。身長は8尺5寸。孝廉にあがり、謁となる。殿中で、何熙の声がよくとおる。和帝は何熙をみとめ、司隸校尉、大司農を歴任した。永初三年(109)、南単于と烏丸が、ともに反した。

永初二年とする版本がある。『後漢書』安帝紀と南匈奴伝、烏桓伝では、すべて永初三年に反したとする。
『資治通鑑』108年・109年、飢饉、羌と匈奴が初めて離反

何熙は、行車騎將軍となり、南匈奴と烏丸を征した。功績あり。烏丸は降伏をこい、単于はもとのように後漢の藩臣を称した。たまたま何熙は、暴疾して死んだ。

『三国志』高柔伝にひく『陳留耆旧伝』はいう。琅邪相の何英は、車騎将軍・何熙の父である。ぼくは思う。おお昔の話だなあ。


夔幼喪父,與母兄居,以孝友稱。長八尺三寸,容貌矜嚴。

魏書曰:漢末閹宦用事,夔從父衡為尚書,有直言,由是在党中,諸父兄皆禁錮。夔歎曰:「天地閉,賢人隱。」故不應宰司之命。

何夔は、おさなくして父をうしなう。母と兄と、生活した。孝友をたたえられた。身長は8尺3寸で、容貌は矜嚴だ。

ぼくは思う。ぼくは上で、曽祖父・何熙の容貌について、いろいろ、はぶいてしまった。何夔は、曽祖父ゆずりの、身体の大きな人だったのだろう。見た目って、だいじ。

『魏書』はいう。漢末に宦官がはびこる。何夔の從父・何衡は尚書となるが、直言したので、党錮された。諸父兄は、みな禁錮された。

ぼくは補う。2回目の党錮は、九族にまで拡大されたんだっけ。何夔も、官位につくことが、できなくなった。

何夔は、『易経』から引用して、歎じた。「天地は閉じた。賢人は隱れた」と。ゆえに何夔は、宰司の命に応じない。

ちくま訳は「宰司の命」を、「首長」とする。だれだよ。こういうとき、人材を集めてくるのは、たいていは三公だ。三公でいいだろう。太守だったら、太守と書くだろうし。


袁術の謀臣に、袁術の悪口をいう

避亂淮南。後袁術至壽春,辟之,夔不應,然遂為術所留。久之,術與橋蕤俱攻圍蘄陽,蘄陽為太祖固守。術以夔彼郡人,欲脅令說蘄陽。

何夔は、淮南に乱をさけた。のちに袁術が寿春にきて、何夔を辟した。何夔は応じないが、袁術にとどめられた。

九江郡の寿春である。王先謙はいう。九江郡はい、三国のとき、魏呉にわかれた。孫呉は、廬江に割り入った。曹魏は、九江郡を、淮南郡と改めた。
謝鍾英はいう。袁術伝はいう。興平元年(194)、袁術は建号して、九江太守を淮南陰とした。『魏略』楊沛伝はいう。曹操が輔政すると、沛遷を九江太守とした。これは曹操が、淮南を九江にもどした証拠である。
盧弼はいう。袁術が建号したのは、建安二年である。建号とは、袁術伝では「僭号」と書かれる。謝鍾英は、誤りだ。ぼくは思う。「僭号」を、フェアに書こうとすると「建号」になることが、わかりました。
ところで何夔の家は、車騎将軍だ。袁術が好みそうなタイプである。

ひさしくして、袁術は橋蕤とともに、蘄陽をかこむ。蘄陽は、曹操のために、固守した。袁術は、何夔が蘄陽郡の人だから、何夔をおどして、蘄陽を説得させようとした。

蘄陽は、武帝紀の建安十八年にある。
趙一清はいう。蘄陽は、漢代には沛国の蘄県だった。しばしば陳寿は、蘄陽を郡として記す。後漢末に、蘄陽郡ができたのか。また何夔は、陳郡の人である。蘄陽は、沛郡である。いま袁術は「何夔は、蘄陽の人だから」と言った。なにが文字が欠けているか。
ぼくは思う。沛郡も蘄陽も陳郡も、近接している。袁術は、大雑把に「何夔は、地元の人だから」という口実で、仕事を任せたかったのではないか。会社でも、よくある。「あなたは、前任はコレコレで、この分野に詳しい。この仕事を任せたい」と。「いやあ、前任で近接した仕事はしたけれど、べつに詳しくはないよ」と思いつつ、受けざるを得ないことがある。
いま袁術が何夔を「脅して」とあるが、これは史家によるアトヅケ。辟に応じない人に、仕事をムリヤリ頼むことを、「脅す」と表現しただけ。


夔謂術謀臣李業曰:「昔柳下惠聞伐國之謀而有憂色,曰'吾聞伐國不問仁人,斯言何為至於我哉'!」遂遁匿灊山。術知夔終不為己用,乃止。術從兄山陽太守遺母,夔從姑也,是以雖恨夔而不加害。

何夔は、袁術の謀臣・李業に言った。「むかし柳下惠は言った。国を伐つ相談は、仁者にしないものだ。なぜ袁術は私に、国を伐つ相談をしてきたのでしょう」と。

春秋時代、魯君は柳下恵に、斉国を伐つ相談をした。ヤナギシタ・メグミさんでない。
ところで、袁術の「謀臣」の名が出たことに、おどろき。何夔は、袁術の謀臣と、個人的なジョークを言える関係である。何夔は「私は仁者です」と、うぬぼれている。ジョークと皮肉をまぜて、これを言ったのだろう。もし何夔が、曹操に移籍したあとに、この話をアトヅケしたのだとしたら、あまりにもカッコツケである。

何夔は、灊山に遁匿した。

『後漢書』袁術伝はいう。袁術は、部曲の陳蘭、雷薄からにげて、灊山にもぐった。『三国志』張遼伝はいう。灊山にいる陳蘭を、張遼は斬ったと。盧弼のながい引用をはぶく。灊山は、今日の寿春県の霍山である。
ぼくは思う。寿春から逃げるとき、灊山はぴったりらしい。袁術からにげた何夔、袁術その人、袁術の残党である陳蘭は、みな灊山にもぐった。

ついに袁術は、何夔を用いられないと知り、あきらめた。
袁術の従兄は、山陽太守の袁遺だ。袁遺の母は、何夔の從姑だ。ゆえに袁術は、何夔を恨んだが、殺さなかった。

袁遺は、武帝紀の初平元年にある。年老いても勉強をやめないという、曹操のお友達である。関東が起兵したとき、袁紹といっしょにいた。


正論を吐きすぎて、袁術に持てあまされたか

建安二年,夔將還鄉里,度術必急追,乃間行得免,明年到本郡。頃之,太祖辟為司空掾屬。時有傳袁術軍亂者,太祖問夔曰;「君以為信不?」夔對曰:「天之所助者順,人之所助者信。術無信順之實,而望天人之助,此不可以得志於天下。夫失道之主,親戚叛之,而況於左右乎!以夔觀之,其亂必矣。」太祖曰;「為國失賢則亡。君不為術所用;亂,不亦宜乎!」

建安二年(197)、何夔は郷里にかえろうとした。袁術は何夔を急追するはずだから、間道をぬけた。袁術からまぬがれた。

建安二年と、年号が具体的なのは、なぜか。袁術が皇帝即位した歳だからか。
何夔は、袁術の外征には、いまいち協力しなかったが、揚州を離れるほどではなかった。事実、袁術の寿春に、攻めこむ勢力はなかった。寿春は、安全だったのだ。しかし、袁術が皇帝即位したら、そんな場所には、いたくなくなった。これが動機。
皇帝即位する前後に、袁術はさかんに、豫州に出兵する。とくに陳郡は、袁術が重点的に攻めた地域。袁術-寿春-陳郡-汝南-潁川-献帝、とつながる。豫州と、ヒトやモノの交流が盛んになり、逃げるキッカケができたのかも知れない。これが状況。
動機と状況が、どれくらいの比率で、何夔に揚州脱出を決断させたか、わからん。

翌年(198)、陳郡にきた。曹操は何夔を辟して、司空の掾属とした。ときに、袁術の軍が乱れたという話があった。曹操は、何夔に問うた。「何夔は、袁術の軍が乱れたという話を、信じるか否か」と。

曹魏の史書は、袁術をバカ扱いするが。曹操は、いま逃げてきた何夔に、こんな質問をするほど、袁術の軍の情報がほしい。198年、袁術は、ほぼ死に体だが、曹操にとっては脅威なのだ。

何夔は、『易経』を引用してから、こたえた。「天が助けるのは順で、人が助けるのは信だ。袁術は、信順の實がないのに、天人の助を望む。これでは、天下に志を得られない。そもそも失道の主というのは、親戚すら、そむく。まして左右の臣下は、そむいて当然。私が見たところ、袁術の乱れは、必然です」と。

ぼくは思う。ひどい批判だが、、『易経』にインスピレーションを得て、言葉遊びをしているだけ。まあ、親戚や臣下に叛かれるというのは、事実なのだろうが。少なくとも、何夔は袁術の親戚だが、袁術にそむいた。

「国のために、賢者を失えば、国は亡びる。袁術は、何夔を用いなかった。乱れることは、必然だな」と。

あまり意味のない指摘をします。曹操は「袁術が、何夔を用いることができなかった」と言わない。「袁術が、何夔を用いなかった」と言う。何夔が袁術に仕えなかったのは、何夔にも問題があったのではないか。人材採用とは、マッチングだ。片方だけに原因があることは、少ない。両方わるい。だから、距離をおいたほうが、双方に幸せ。
揚州にいた何夔は、あんまり役に立たないから、袁術に重用されなかったとか。正論ばっかり吐くから、草創期の組織にとって、お荷物だったとか。何夔が正論ばかり吐いて、やや曹操でも持てあますのは、列伝のつづきを読めば、わかることです。


太祖性嚴,掾屬公事,往往加杖;夔常畜毒藥,誓死無辱,是以終不見及。

曹操は、性格が厳しい。掾属は、仕事のことで、しばしば杖で打たれた。何夔はつねに毒薬をたくわえた。杖で打たれて恥をかくなら、すぐ死ねるようにした。何夔は、杖で打たれず。

裴注にある孫盛のコメントをはぶく。何夔の態度はただしいが、毒薬までは、やり過ぎであるという意見。ぼくも、まあ、そうだと思う。
党錮を味わった人は、理想&極端に走るから、扱いにくいなあ。社会学?風にとらえるなら、党錮の禁は、ひとつかふたつの世代がもつ精神の性質を、まとめて病理的に歪めてしまった。失われた20年。ザツな議論で、すみません。


出為城父令。
魏書曰:自劉備叛後,東南多變。太祖以陳群為酂令,夔為城父令,諸縣皆用名士以鎮撫之,其後吏民稍定。

何夔は、城父令となる。

城父県は、もとは汝南郡。曹魏のとき、譙郡にうつる。

『魏書』はいう。劉備がそむいてから、東南では変事がおおい。曹操は、陳羣を酂令、何夔を城父令にした。名士たちに、諸県を鎮撫させた。のちに吏民は定まった。

酂県は、譙郡。豫州の南のほうである。せっかく袁術が片づいたのに、劉備が東南の基盤をひきつぎ、曹操を困らせた。劉備が、200年に下邳で独立するのも、この流れ。劉備が、袁術の戦略をぬすみ、青州の袁譚に合流しようとしたのは、以前に書きました。
陳羣は、かつて劉備のもとにいた。何夔は、かつて袁術のもとにいた。東南を治める役割を、ゆかりある人物として期待されたのだろう。


遷長廣太守。郡濱山海,黃巾未平,豪傑多背叛,袁譚就加以官位。長廣縣人管承,徒眾三千餘家,為寇害。議者欲舉兵攻之。夔曰:「承等非生而樂亂也,習於亂,不能自還,未被德教,故不知反善。今兵迫之急,彼恐夷滅,必並力戰。攻之既未易拔,雖勝,必傷吏民,不如徐喻以恩德,使容自悔,可不煩兵而定。」乃遣郡丞黃珍往,為陳成敗,承等皆請服。夔遣吏成弘領校尉,長廣縣丞等郊迎奉牛酒,詣郡。矣平賊從錢,眾亦數千,夔率郡兵與張遼共討定之。東牟人王營,眾三千餘家,脅昌陽縣為亂。夔遣吏王欽等,授以計略,使離散之。旬月皆平定。

何夔は、長広太守となる。

長広は、東莱郡に属する県。太守はおかしいそうです。盧弼の注釈が、ながいなあ。出勤時間がちかいので、はぶく。

袁譚は、この地域の黄巾に、官位をくばった。長広の管承は、3千余家をひきいる。何夔は、管承を降伏させた。矣平県を、張遼とともに平定した。東牟県が、昌陽県をおどした。旬月のうちに、平定した。

管承は、張遼をはじめ、曹操の将軍の列伝に、しばしば出てくる。官渡のあと、ふたたび河北が混乱したので、曹操が順番に平定するしかなかった。管承は、混乱の代表的な人物。
巻17・張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃、朱霊伝、初期の曹操軍


つぎ、法律や制度について、何夔が論じています。後日、やります。ともあれ、袁術かんする議論を読むことができたので、所期の目的は果たしました。110520

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