表紙 > ~後漢 > 『後漢書』循吏伝:孟嘗、第五訪、劉矩、劉寵、仇覧、童恢伝

孟嘗、第五訪、劉矩、劉寵、仇覧、童恢伝

吉川版で、循吏伝をやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。

訓読された文書を見て、口語に要約する。それほど意味のある活動ではない。では、なぜやっているか。「読んだ」という行為の痕跡を、ホームページに叩きつけているだけ。あとで読み直すとき、自分用のガイドとする。


合浦太守となり、真珠の貿易を指導、孟嘗伝

孟嘗字伯周,會稽上虞上也。其先三世為郡吏,並伏節死難。嘗少修操行,仕郡為戶曹史。上虞有寡婦至孝養姑。姑年老壽終,夫女弟先懷嫌忌,乃誣婦厭苦供養,加鴆其母,列訟縣庭。郡不加尋察,遂結竟其罪。嘗先知枉狀,備言之于太守,太守不為理。嘗哀泣外門,因謝病去,婦竟冤死。自是郡中連旱二年,禱請無所獲。後太守殷丹到官,訪問其故,嘗詣府具陳寡婦冤誣之事。因曰:「昔東海孝婦,感天致旱,於公一言,甘澤時降。宜戮訟者,以謝冤魂,庶幽枉獲申,時雨可期。」丹從之,即刑訟女而祭婦墓,天應澍雨,穀稼以登。

孟嘗は、あざなを伯周という。會稽の上虞の人だ。先祖は3世、郡吏となる。3世とも、節度に殉じた死んだ。孟嘗は、郡に仕えて、戸曹史となる。

『続百官志』はいう。戸曹とは、民戸、祭祀、農桑をつかさどる。戸曹の属吏となったのだ。ぼくは思う。3世も、まずい死に方をしているなら、郡に仕えなきゃいいのに。おなじ会稽郡に仕えても、いいことがない。

会稽が、2年日照した。会稽太守の殷丹は、孟嘗に理由を聞いた。孟嘗は答えた。「姑を介護して、寿命まで見とった嫁がいた。嫁は遺族から、姑を毒殺したと、冤罪をかけられた。だから日照します」と。
殷丹は、判決を修正した。雨が降って、穀物は実った。

嘗後策孝廉,舉茂才,拜徐令。州郡表其能,遷合浦太守。郡不產穀實,而海出珠寶,與交阯比境,常通商販,留糴糧食。先時宰守並多貪穢,詭人采求,不知紀極,珠遂漸徙於交阯郡界。於是行旅不至,人物無資,貧者餓死於道。嘗到官,革易前敝,求民病利。曾未逾歲,去珠複還,百姓皆反其業,商貨流通,稱為神明。
以病自上,被征當還,吏民攀車請之。嘗既不得進,乃載鄉民船夜遁去。隱處窮澤,身自耕傭。鄰縣士民慕其德,就居止者百餘家。

のちに孟嘗は、孝廉、茂才にあげられ、徐県(盱眙の北)の県令となる。合浦太守となり、真珠の乱獲をやめさせた。合浦で、ふたたび真珠がとれるようになった。孟嘗は「神明」と言われた。

このあたりが、「循吏」たる、ゆえんです。

病気だと言い、合浦から去る。士民に慕われ、100余家がついてくる。

桓帝時、尚書同郡楊喬上書薦嘗曰 (後略)
嘗竟不見用。年七十,卒於家。

桓帝のとき、尚書する同郡(会稽)の楊喬が上書した。

ただ、南方で経済を整えたことを、ほめるだけ。はぶく。

孟嘗は、ついに桓帝から用いられず。70歳、在家で死んだ。

官庫を独断で開き、順帝にほめられた第五訪伝

第五訪字仲謀,京兆長陵人,司空倫之族孫也。少孤貧,常傭耕以養兄嫂。有閒暇,則以學文。仕郡為功曹,察孝廉,補新都令。政平化行,三年之間,鄰縣歸之,戶口十倍。

第五訪は、あざなを仲謀という。京兆の長陵の人だ。司空・第五倫の族孫だ。

あざな、見覚えがある。第五倫は、袁安の政敵でした。

孤児でまずしい。小作して、兄と兄嫁を養う。郡の功曹となる。孝廉にあがる。新都の県令となる。政治がよいので、隣県から人があつまり、戸数が10倍になる。

循吏だなあ。隣県の長官は、立場がないなあ。


遷張掖太守。歲饑,粟石數千,訪乃開倉賑給以救其敝。更懼譴,爭欲上言。訪曰:「若上須報,是棄民也。太守樂以一身救百姓!」遂出穀賦人。順帝璽書嘉之。由是一郡得全。歲余,官民並豐,界無奸盜。
遷南陽太守,去官。拜護羌校尉,邊境服其威信。卒於官。

第五訪は、張掖太守にうつる。飢饉で、穀物がインフレ。公庫を開く。「許可を待っていれば、民は飢える。私・第五訪の判断で、公庫を開こう」と。順帝は、第五訪をほめた。盗賊がいない。
南陽太守にうつり、退職。護羌校尉となり、辺境をしずめる。在官で死ぬ。

黄瓊、种暠とともに桓帝を輔政した、三公の劉矩

劉矩字叔方,沛國蕭人也。叔父光,順帝時為司徒。矩少有高節,以父叔遼未得仕進,遂絕州郡之命。太尉朱寵、太傅桓焉嘉其志義,故叔遼以此為諸公所辟,拜議郎,矩乃舉孝廉。
稍遷雍丘令,以禮讓化之,其無孝義者,皆感悟自革。民有爭訟,矩常引之於前,提耳訓告,以為忿恚可忍,縣官不可入,使歸更尋思。訟者感之,輒各罷去。其有路得遺者,皆推尋其主。在縣四年,以母憂去官。

劉矩は、あざなを叔方という。沛國の蕭県の人だ。叔父の劉光は、順帝のとき司徒。劉詡は、父の劉叔遼が昇進しないので、州郡の命をことわる。太尉の朱寵、太傅の桓焉は、劉詡の志義をよみした。ゆえに父を三公府に辟し、議郎とした。劉矩を孝廉にあげた。

就職のルートとして、三公府は、すごくおおい。実際に、後漢の三公府がつよいのか。それとも、『後漢書』の編集方針として、三公府を強調したいのか。前者でよいだろう。
劉矩とは、デスノートの死神である。みんなが気づいてるか。

劉矩は、雍丘の県令となる。県官を入れず、みずから紛争を解決した。落し物は、持ち主を探した。4年つとめ、母が死んだので退職した。

このへんが、循吏。味わうところ。


後太尉胡廣舉矩賢良方正,四遷為尚書令。矩性亮直,不能諧附貴勢,以是失大將軍梁冀意,出為常山相,以疾去官。時冀妻兄孫祉為沛相,矩懼為所害,不敢還鄉里,乃投彭城友人家。歲余,冀意少悟,乃止。補從事中郎,複為尚書令,遷宗正、太常。

のちに太尉の胡廣は、劉矩を賢良方正にあげた。4たび遷り、尚書令となる。貴勢におもねらず。大將軍の梁冀の気持ちをそこね、常山相となる。病気で去官。ときに梁冀の妻の兄・孫祉は、沛相となる。劉矩は、殺されるのを懼れ、彭城にいる友人の家にかくれた。

劉矩の出身は、沛国だ。だから沛相に捕らえられるのか。

1年余、梁冀がゆるした。劉矩は、從事中郎、尚書令、宗正、太常。

劉氏だから、宗正になれるのか。


延熹四年,代黃瓊為太尉。瓊複為司空,矩與瓊及司徒種暠同心輔政,號為賢相。時,連有災異,司隸校尉以劾三公。尚書朱穆上疏,稱矩等良輔,以言殷湯、高宗不罪臣下之義。帝不省,竟以蠻夷反叛免。後複拜太中大夫。
靈帝初,代周景為太尉。矩再為上公,所辟召皆名儒宿德。不與州郡交通。順辭默諫,多見省用。複以日食免。因乞骸骨,卒於家。

延熹四年(161)、劉矩は、黃瓊に代わって太尉となる。黄瓊は、司空となる。劉矩と黄瓊は、司徒の种暠とともに、輔政した。「賢相」と言われた。

黄瓊は列伝51、种暠は列伝46。今週、やるつもり。

災異がつづき、司隷校尉は三公を劾めた。尚書の朱穆が上疏した。劉矩らを「良輔」とした。桓帝は分かってくれない。蛮夷が叛くので、劉矩は免じられた。太中大夫となる。
靈帝の初め、周景に代わって、太尉となる。名儒をあつめる。州郡の長官と、交通せず。日食で免じられ、引退した。在家で死んだ。

黄瓊、王暢にかわり、三公となった劉寵伝

劉寵字祖榮,東萊牟平人,齊悼惠王之後也。悼惠王子孝王將閭,將閭少子封牟平侯,子孫家焉。父丕,博學,號為通儒。 寵少受父業,以明經舉孝廉,陳東平陵令,以仁惠為吏民所愛。母疾,棄官去。百姓將送塞道,車不得進,乃輕服遁歸。

劉寵は、あざなを祖榮という。東萊の牟平の人。高帝の子・劉肥の後裔だ。父の劉丕は、博学で「通儒」と言われた。
劉寵は、明經だから孝廉にあげられ、東平陵(済南)の県令となる。母が死んだが、民が帰してくれない。

後四遷為豫章太守,又三遷拜會稽太守。山民願朴,乃有白首不入市井者,頗為官吏所擾。寵簡除煩苛,禁察非法,郡中大化。征為將作大匠。山陰縣有五六老叟,B36E眉皓發,自若邪山谷間出,人齎百錢以送寵。寵勞之曰:「父老何自苦?」對曰:「山谷鄙生,未嘗識郡朝。它守時吏發求民間,至夜不絕,或狗吠竟夕,民不得安。自明府下車以來,狗不夜吠,民不見吏。年老遭值聖明,今聞當見棄去,故自扶奉送。」寵曰:「吾政何能及公言邪?勤苦父老!」為人選一大錢受之。

4たび遷り、豫章太守となる。3たび遷り、会稽太守となる。山間から、人が出てきた。「郡朝を知らず」と。劉寵は帰るとき、餞別に1銭をもらう。

あまりに有名な話なので、とてもザツに抄訳。のちに劉繇が、揚州刺史として期待されたのは、このときの縁があるからか。
関連:袁術のライバル、腐っても劉繇について『集解』で史料あつめ


轉為宗正、大鴻臚。延熹四年,代黃瓊為司空、以陰霧愆陽免。頃之,拜將作大匠,得為宗正。建甯元年,代王暢為司空,頻遷司徒、太尉。二年,以日食策免,歸鄉里。
寵前後曆宰二郡,累登卿相,而清約省素,家無貨積。嘗出京師,欲息亭舍,亭吏止之,曰:「整頓灑埽,以待劉公,不可得止。」寵無言而去,時人稱其長者。以老病卒於家。

宗正、大鴻臚。延熹四年(161)、黄瓊に代わり、司空となる。濃霧で陽気がくるい、罷免。將作大匠、宗正。建甯元年(168)、王暢に代わり、司空となる。しきりに司徒、太尉をやる。二年(169)、日食で免じられ、帰郷。
豫章と会稽の太守をやり、三公と九卿をやる。だが清約で省素だ。財貨がない。劉寵は、亭舍(宿場)の役人に、本人だと気づかれず。「私は劉公を待ってる。きたない爺さんは、消えろ」と。老病となり、在家で死んだ。

弟方,官至山陽太守。方有二子:貸字公山,繇字正禮。兄弟齊名稱。董卓入洛陽,岱從侍中出為兗州刺史。虛己愛物,為士人所附。初平三年,青州黃巾賊入兗州,殺任城相鄭遂,轉入東平。岱擊之,戰死。
興平中,繇為楊州牧、振威將軍。時袁術據淮南,繇乃移居曲阿。值中國喪亂,士友多南奔,繇攜接收養,與同優劇,甚得名稱。袁術遣孫策攻破繇,因奔豫章,病卒。

劉寵の弟は、劉方。山陽太守となる。劉方には、2子あり。劉岱、あざな公山。劉繇、あざな正禮。
董卓が洛陽に入ると、劉岱は侍中から兗州刺史へ。士人がなつく。初平三年(192)、劉岱は東平で、青州黄巾に殺された。任城相の鄭遂も死んだ。
興平中(194-195)、劉繇は楊州牧、振威將軍となる。袁術が淮南にいるから、曲阿にうつる。士友は、おおく南奔する。孫策に破られ、豫章で病死した。

郭泰と符融をへりくだらせた、仇覧

仇覽字季智,一名香,除留考城人也。少為書生淳默,鄉里無知者。年四十,縣召補史,選為蒲亭長。勸人生業,為制科令,至於果菜為限,雞豕有數,農事既畢,乃令子弟群居,還就黌學。其剽輕遊恣者,皆役以田桑,嚴設科罰。躬助喪事,賑恤窮寡。期年稱大化。

仇覽は、ざなを季智という。一名は香。除留の考城の人だ。純粋で科目だから、誰にも知られず。40歳で、県の補史、蒲亭(考城)の亭長となる。着任すると、産業と法律と教育の面倒をみる。

覽初到亭,人有陳元者,獨與母居,而母詣覽告元不孝。覽驚曰:「吾近日過舍,廬落整頓,耕耘以時。此非惡人,當是教化未及至恥。母守寡養孤,苦身投老,奈何肆忿於一朝,欲致子以不義乎?」母聞感悔,涕泣而去。覽乃親到元家,與其母子飲,因為節人倫孝行,譬以禍福之言。元卒成孝子。鄉邑為之諺曰:「父母何在在我庭,化我鳲梟哺所生。」

蒲亭に、陳元という人がいた。母が、息子の不孝を訴えた。仲なおりさせた。

こういう話、まったく面白いと思わない。循吏たるエピソードなんだが。


時考城令河內王渙,政尚嚴猛,聞覽以德化人,署為主簿。謂覽曰:「主簿聞陳元之過,不罪而化之,得無少鷹鸇之志邪?」覽曰:「以為鷹鸇,不若鸞鳳。」渙謝遣曰:「枳棘非鸞鳳所棲,百里豈大賢之路?今日太學曳長裾,飛名譽,皆主簿後耳。以一月奉為資,勉卒景行。」

ときに考城の県令する河內の王渙は、政治のスタンスが嚴猛だ。仇覧を主簿にした。王渙は言った。「太学の学生より、仇覧のほうがすぐれている」と。

陳元の話、まだするか。つまらんなあ。っていうか、ねむい!


覽入太學。時,諸生同郡符融有高名,與覽比宇,賓客盈室。覽常自守,不與融言。融觀其容止,心獨奇之,乃謂曰:「與先生同郡壤,鄰房牖。今京師英雄四集,志士交結之秋,雖務經常,守之何因?」覽乃正色曰:「天子修設太學,豈但使人游談其中!」高揖而去,不復與言。後融以告郭林宗,林宗因與融齎刺就房謁之,遂請留宿。林宗嗟歎,下床為拜。

仇覧は、太学に入った。同郡の符融は、名声がある。しかし仇覧は、符融と話さない。符融は、仇覧に口をきかない理由を聞いた。「天子が太学をつくったのは、学生に雑談させるためでない」と。
のちに符融は、郭泰につげた。郭泰と符融は、仇覧に会いにくる。仇覧は、会わない。郭泰は嗟嘆して、床におりて、仇覧と会った。

符融伝はこちら:李膺の親友・符融、月旦評した許劭
郭泰を、へりくだらせた。仇覧、就職は40歳だが、すごいぞ。


覽學畢歸鄉里,州郡並請,皆以疾辭。雖在宴居,必以禮自整。妻子有過,輒免冠自責。妻子庭謝,候覽冠,乃敢升堂。家人莫見喜怒聲色之異。後征方正,遇疾而卒。
三子皆有文史才,少子玄,最知名。

仇覧は太学をおえ、郷里にもどる。州郡に応じない。妻子に過失があると、たがいに謝りあった。家人は、仇覧の喜怒を見ない。のちに方正にあがるが、病死した。
子が3人。みな文史の才能あり。末子の仇玄が有名。

司徒の楊賜の属吏、ひとり楊賜を弁護する童恢

童恢字漢宗,琅邪姑幕人也。父仲玉,遭玉凶荒,傾家賑恤,九族鄉里賴全者以百數。仲玉早卒。
恢少仕州郡為吏,司徒楊賜聞其執法廉平,乃辟之。乃賜被劾當免,掾屬悉投刺去,恢獨詣闕爭之。乃得理,掾屬悉歸府,恢杖策而逝。由是論者歸美。

童恢は、あざなを漢宗という。琅邪の姑幕の人だ。父の童仲玉は、飢饉にあり、財産を投げて救済した。九族や郷里の人は、100人が生き延びた。父の童仲玉は、早くに死んだ。
童恢は、州郡の吏となる。司徒の楊賜は、童恢が法を廉平につかうと聞き、辟した。楊賜が弾劾されると、属官は辞表を出して去った。だが童恢は、楊賜の弾劾について、訴訟した。楊賜の弾劾がやみ、掾属が楊賜にもどった。童恢は、ツエをついて去った。ほめられた。

楊賜、なぜ弾劾されたんだっけ。興味があるエピソード!


復辟公府,除不其令。吏人有犯違禁法,輒隨方曉示。若吏稱其職,人行善事者,皆賜以酒肴之禮,以勸勵之。耕織種收,皆有條章。一境清靜,牢獄連年無囚。比縣流人歸化,徙居二萬餘戶。民嘗為虎所害,乃設檻捕之,生獲二虎。恢聞而出,咒虎曰:「天生萬物,唯人為貴。虎狼當食六畜,而殘暴於人。王法殺人者傷,傷人則論法。汝若是殺人者,當垂頭服罪;自知非者,當號呼稱冤。」一虎低頭閉目,狀如震懼,即時殺之。其一視恢鳴吼,踴躍自奮,遂令放釋。吏人為之歌頌。青州舉尤異,遷丹陽太守,暴疾而卒。

ふたたび三公府に辟され、不其令となる。賞罰きっちり。虎を2匹、生け捕った。殺人した虎の罪を裁いた。青州は童恢を、尤異(治績が優秀)にあげた。丹楊太守にうつる。にわかに病死した。

弟翊字漢文,名高於恢,宰府先辟之。翊陽喑不肯仕,及恢被命,乃就孝廉,除須昌長。化有異政,吏人生為立碑。聞舉將喪,棄官歸。後舉茂才,不就。卒於家。

童恢の弟は、あざなを漢文という。童恢より名声があり、先に三公府に辟された。ものが言えないふりをして、就かず。孝廉にあがり、須昌長となる。生前に、碑文を立てられた。舉將(自分を孝廉にあげた人)が死んだと聞き、官位をすえた。茂才にあがり、就かず。在家で死んだ。

循吏伝、おわった。後半、眠気と戦い、意地だった。110426

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