表紙 > ~後漢 > 『後漢書』呉祐伝:門を閉ざして訴訟をなくした、膠東侯相

李固が死んだら、馬融の責任だ

『後漢書』を、抄訳します。原文は、省かずに載せます。『資治通鑑』で概観した、後漢の後半を知るために、列伝を読んでいます。
岩波版の『後漢書』を参考に、適宜、李賢の注釈もひろいます。

南海郡から帰るなら、手ぶらになれ

吳祐字季英,陳留長垣人也。父恢,為南海太守。祐年十二,隨從到官。恢欲殺青簡以寫經書,祐諫曰:「今大人逾越五領,遠在海濱,其俗誠陋,然舊多珍怪,上為國家所疑,下為權戚所望。此書若成,則載之兼兩。昔馬援以薏苡興謗,王陽以衣囊徼名。嫌疑之間,誠先賢所慎也。」恢及止,撫其首曰:「吳氏世不乏季子矣。」

吳祐は、あざなを季英という。陳留の長垣の人だ。父の呉恢は、南海太守だ。

吉川はいう。南海は、郡治が番グウ。広州。
ぼくは思う。儒教で名を立てた人は、父が南方の地方官という人がおおいか。胡広の父は、交趾に赴任した。

呉祐は12歳で、父に従って、南海で就職した。呉恢は、竹をあぶり、經書を筆写したい。呉祐は、父を諌めた。「いま私たちは、五領を越えて、遠い海濱にきた。南海には、珍怪な品がおおい。南海から、なにかを持ち帰ったら、天子に疑われ、外戚からはヨコセと言われる。むかし馬援は、交趾からハトムギを持ち帰って、疑われた。ぎゃくに王陽は、手ぶらで帰って、名声をえた」

吉川はいう。五嶺がどの山を指すか、定説なし。 吉川はいう。馬援は、『後漢書』列伝14。王陽は、王吉のこと。あざなは子陽。漢書72。

父の呉恢は、呉祐に従う。呉恢は、呉祐の首を撫でて、言った。「呉氏は、代々、季子がいる」と。

李賢はいう。季子とは、季札のこと。吉川はいう。春秋時代の呉の賢人。呉祐のあざなが、季英だ。父の呉恢は、これに引っかけて、ジョークを言った。


及年二十,喪父,居無簷石,而不受贍遺。常牧豕於長坦澤中,行吟經書。遇父故人,謂曰:「卿二千石子而自業賤事,縱子無恥,奈先君何?」祐辭謝而已,守志如初。

呉祐は20歳になり、父が死んだ。簷石(貯蓄)がないが、贍遺(贈与)を受けず。つねに豚を飼い、經書を吟じた。父の旧知が、呉祐に言った。「あなた(呉祐)は太守の子なのに、生業が賎しい。あなたがよくても、父(呉恢)が可哀想だ」と。呉祐は、辭謝しただけで、生活をかえず。

李賢は『続漢書』をひく。年40にして、呉祐は郡吏となる。
ぼくは思う。後漢には、このように、就職しなくても生活できる人が、在野にたくさんいたのだろう。価値観ひとつで、就職することを決めた。現代日本の、「とりあえず大学を出たら、働いておけ」というプレッシャーとは、ちがう。
当然、太守たちは、こういう在野の豪族?たちを、統御せねばならん。


目下を抜擢する才能がある

  後舉孝廉,將行,郡中為祖道,祐越壇共小史雍丘黃真歡語移時,與結友而別。功曹以祐倨,請黜之。太守曰:「吳季英有知人之明,卿且勿言。」真後亦舉孝廉,除新蔡長,世稱其清節。

のちに孝廉にあがる。郡中は、呉祐のために、祖道した。

李賢はいう。『陳留耆旧伝』はいう。陳留太守の冷宏は、呉祐を召して、文学(郡学の教官)にした。冷宏は、呉祐が特異だから、孝廉にあげた。
李賢はいう。祖道とは、土をもって、祭壇をつくること。『五経要義』はいう。祭りをおこない、道路のために祈ること。ぼくは補う。道中の安全を、祈ってくれたのだ。

呉祐は、祭壇をこえて、小史する雍丘の黃真とともに語り合い、友となった。呉祐と黃真は、時が移るまで語り、この場は別れた。

李賢は謝承『後漢書』をひく。黃真は、あざなを夏甫という。吉川はいう。小史とは、下級の書記官。

功曹は、呉祐がおごるから、クビにしたい。陳留太守は、呉祐をかばう。「呉祐は、知人の明がある。呉祐はクビだとか、言うな」と。のちに黄真は、孝廉にあがり、新蔡の県長となる。世は、黄真の清節をたたえた。

吉川はいう。功曹は、郡の人事を担当する。1万戸以上の県は、県令がおさめる。1万戸未満の県は、県長がおさめる。
ぼくは思う。陳留の功曹は、せっかく祭りのとき、呉祐が私語するから、怒ったんだろう。黄真と仲よくなり、長時間ダベっているなよと。呉祐は、のちの素晴らしい県長と、たちまち仲良くなった。人物を見抜く目があるでしょ?というエピソードだ。


時,公沙穆來遊太學,無資糧,乃變服客傭,為祐賃舂。祐與語大驚,遂共定交於杵臼之間。

ときに公沙穆(列伝72)が、太学にきた。金がないから、雇用されて労働した。公沙穆は、呉祐に雇われ、臼つきの賃労働をした。呉祐は、公沙穆と語って、おおいに驚いた。公沙穆と、仕事場で仲良くなった。

その場で人物を発掘し、仲良くなることが、呉祐の特技か。しかも、どちらのエピソードも、相手が目下である。賃労働の公沙穆は、自分で雇った人。黄真だって、孝廉になる順序からすれば、呉祐より下だ。


膠東侯相として、豪族の抗争をとめる

  祐以光祿四行遷膠東侯相。時濟北戴巨集父為縣丞,宏年十六,從在丞舍。祐每行園,常聞諷誦之音,奇而厚之,亦與為友,卒成儒宗,知名東夏,官至酒泉太守。祐

呉祐は、光祿で働いたとき、四行があるから、膠東侯相にうつる。

李賢は『漢官儀』をひく。四行とは、敦厚、質朴、遜譲、節倹だ。
『後漢書』黄琬伝はいう。旧制にある。光禄の三署郎(五官署と、左右の署にいる郎官)をあげるとき、高功、久次、才徳が、もっと異なるものを、茂才と四行となす。
吉川はいう。膠東は、山東省。侯相は、侯国の実質の為政者。郡の太守に相当。

ときに濟北の戴宏の父は、縣丞だ。戴宏は16歳で、父に従い、県の丞舍にいる。呉祐は、いつも戴宏が書物を読む声を聞いた。呉祐は、戴宏と友となった。戴宏は、やがて儒教の第一人者となった。戴宏は、名を東夏(東方)に知られた。戴宏は、官位が、酒泉太守までいたる。

また、目下を抜擢した話。膠東侯国は、青州だから東方だ。


政唯仁簡,以身率物。民有爭訴者,輒閉B22B自責,然後斷其訟,以道譬之。或身到閭裏,重相和解。自是之後,爭隙省息,吏人懷而不欺。嗇夫孫性私賊民錢,市衣以進其父,父得而怒曰:「有君如是,何忍欺之!」促歸伏罪。性慚懼,詣閣持衣自首。

呉祐の政治は、仁簡(慈愛があり、簡素)だ。訴訟があれば、役所の門を閉ざして、呉祐は自分を責めた。訴訟をやめさせ、道理を説明した。呉祐みずから、村里をまわり、和解させた。訴訟はなくなり、吏人は呉祐を欺かず。

ぼくは思う。地方の豪族は、つねに抗争する。これを鎮めることが、後漢の地方官の仕事だ。左雄伝で、この話をしました。呉祐も、おなじ文脈にいる。
『後漢書』左雄伝:孝廉を40歳以上に限定し、豪族の抗争を抑止

呉祐の部下・嗇夫の孫性は、税金をフトコロにいれた。父に布をわたした。

胡三省は『百官志』をひく。嗇夫は、県ごとに1人おく。民の善悪を知り、労役の先後をきめる。民の貧富を知り、税の多少をきめる。負担を平等にする。

孫性の父は怒って、孫性を呉祐に自首させた。呉祐は、孫性の父をほめた。「親族の不正をあばくのは、すばらしい」と。孫性の父に謝し、布をあげた。

『続漢書』百官志五はいう。郷(県のしたの行政組織)に、有秩、三老、ユウキョウをおく。郷の小さいものには、県に嗇夫1人をおく。
この話は、『資治通鑑』142年にある。142年、梁冀の風潮にあらがう官吏
梁冀でも宦官でも、同じだが。中央の権力者が、支配を強めようとすると、地方の長官に、一族の者を任命する。結果、地方の豪族と折り合いがつかず、摩擦が増える。呉祐が膠東侯相をしたとき、梁冀の最盛期である。おそらく、梁氏の求心力がつくった摩擦を、呉祐のような官吏が、緩和したのだろう。


毋丘長に、子孫を残させる

又安丘男子毋丘長與母俱行市,道遇醉客辱其母,長殺之而亡,安丘追蹤於膠東得之。祐呼長謂曰:「子母見辱,人情所恥。然孝子忿必慮難,動不累親。今若背親逞怒,白日殺人,赦若非義,刑若不忍,將如之何?」長以械自系,曰:「國家制法,囚身犯之。明府雖加哀矜,恩無所施。」祐問長:「有妻、子乎?」對曰:「有妻未有子也。」即移安丘逮長妻,妻到,解到桎梏,使同宿獄中,妻遂懷孕。至冬盡行刑,長泣謂母曰:「負母應死,當何以報吳君乎?」乃齧指而吞之,含血言曰:「妻若生子,名之'吳生',言我臨死吞指為誓,屬兒以報吳君。」因投繯而死。

安丘の男子・毋丘長は、母とともに、市にゆく。醉客は、母を辱めた。毋丘長は、酔客を殺した。安丘の役人は、毋丘長を追いかけ、膠東で捕えた。呉祐は、毋丘長に言った。「母を辱められたら、怒るのは人情だ。もし毋丘長を赦したら、法規にそむく。だが、毋丘長を刑すのは忍びない。どうするか」と。毋丘長は、みずから手カセして言った。「呉祐さんに迷惑はかけられん。罰してくれ」と。呉祐は、毋丘長に聞く。「妻子はあるか」と。毋丘長は言う。「妻はいるが、子はない」と。
呉祐は、毋丘長を安丘にうつし、妻といっしょに投獄した。妻が妊娠した。冬の終わり、毋丘長は死刑となる。毋丘長は、指を噛み切って飲みこみ、血を吹きながら言った。「妻が生んだ子を、吳生と名づけよ。この子が、呉祐さんに報いるのだ」と。毋丘長は、首をつって死んだ。

子孫が絶えないように、気をつかったエピソード。ふーん。


李固を弁護し、梁冀によって左遷される

  祐在膠東九年,遷齊相,大將軍梁冀表為長史。及冀誣奏太尉李固,祐聞而請見,與冀爭之,不聽。時扶風馬融在坐,為冀章草,祐因謂融曰:「李公之罪,成於卿手。李公即誅,卿何面目見天下之人乎?」冀怒而起入室,祐亦徑去。冀遂出祐為河間相,因自免歸家,不復仕,躬灌園蔬,以經書教授。年九十八卒。

呉祐は、膠東に9年いた。齊相にうつる。

李賢は『陳留耆旧伝』をひく。呉祐は、私的な手紙をおくらず。上司に、表敬するための文書をおくらず。膠東にいて、京師と文書の交換がなかった。
ぼくは思う。もともと、京師にろくな人脈がないじゃないか。その分、東の果てで、調停係りとして、職務に集中できたのだ。

大將軍・梁冀は、呉祐を長史とした。梁冀が、太尉の李固を誣奏する。呉祐はこれを聞き、梁冀と言い争った。だが呉祐は、梁冀の誣奏をとめられず。
ときに扶風の馬融が、梁冀のために章草を書いた。呉祐は、馬融に言った。「李固の罪は、馬融がつくったのだ。もし李固が誅されたら、馬融は、どのツラさげて天下にまみえるか」と。梁冀が怒って入室したので、すぐに呉祐は去った。

吉川はいう。李固伝に、馬融が書いた、李固を陥れる文章がある。
ぼくは思う。『資治通鑑』147年に、このエピソードがある。呉祐は、官位が高くなく、政権は持たないが、キラリと光るエピソードがある。

梁冀は呉祐を、河間相とした。呉祐は辞退して、家に帰る。もう出仕せず。野菜をつくり、経書を教授した。98歳で死んだ。

『続漢書』の言うとおり、郡吏に40歳でなったとすると。霊帝の時代まで、生きていた。けっきょく呉祐は、自宅で、せっせと生業するほうが、性にあっていたらしい。豚飼いだろうが、野菜だろうが、ただのレトリックの違い。やっていることは、おなじだ。野菜と畜産を兼業したのだろう。時間は、たっぷりある。


  長子鳳,官至樂浪太守;少子愷,新息令;鳳子馮,鯛陽侯相:皆有名於世。

呉祐の長子は、呉鳳だ。樂浪太守までなる。呉祐の少子、呉愷だ。新息令となる。呉鳳の子は、呉馮だ。鯛陽侯相となる。みな世に、名声がある。101224

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