表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝11,12,13,14を抄訳して、光武の功臣をならべる

01) 李忠、万脩、邳彤

『後漢書』列伝11・任光、任隗、李忠、萬脩、邳彤、劉植、耿純伝
渡邉義浩主編『全訳後漢書』をつかいながら、抄訳します。


李忠:光武に衣服をめぐみ、印綬と馬をもらう

李忠字仲都,東萊黃人也。父為高密都尉。忠元始中以父任為郎,署中數十人,而忠獨以好禮修整稱。王莽時為新博屬長,郡中鹹敬信之。

李忠は、あざなを仲都。東萊の黃県の人。父は高密都尉となる。

李賢はいう。『東観漢記』『続漢書』は、都尉でなく中尉という。『郡国志』に高密侯とある。『百官志』はいう。皇子が封建されれば、国ごとに、傅と相を1人ずつおく。中尉は1人。比2千石。職務は、郡都尉とおなじ。盗賊をとりしまると。高密は郡でないので、都尉でなく、中尉がただしい。
劉ハンはいう。高密侯でなく、高密国とすべきだ。高密は、侯でなく国だ。
渡邉注はいう。傅は、官名。王国の傅。王を善導する。臣下として、あつかわれず。相は、官名。もとは丞相という。前漢の王国は、皇帝とおなじ官僚制度をもった。呉楚七国のとき、官制が縮小された。

李忠は、元始中(001-005)、父が役人のため、郎となる。署中にいる數十人のうち、李忠だけが、好禮修整だから、たたえられた。

渡邉訳はいう。郎がぞくする、五官署、左署、右署のうちで、李忠がベストだった。

王莽のとき、新博(信都国)の屬長(都尉)となる。みな郡中は、敬信した。

更始立,使使者行郡國,即拜忠都尉官。忠遂與任光同奉世祖,以為右大將軍,封武固侯。時,世祖自解所佩綬以帶忠,因從攻下屬縣。至苦陘,世祖會諸將,問所得財物,唯忠獨無所掠。世祖曰:「我欲特賜,李忠,諸卿得無望乎?」即以所乘大驪馬及繡被衣物賜之。

更始がたつと、使者を郡國にゆかす。李忠を、都尉の官とした。李忠は、任光とともに光武につかえる。右大將軍、武固侯。

渡邉注はいう。右大将軍は、『後漢書』でここのみ。大将軍のように、国政を担当しない。ただの雑号と、考えてよい。

ときに光武は、みずから佩綬をといて、李忠に帯びさせた。

『東観漢記』はいう。光武がはじめて信都にきたとき、衣帯をとかず、垢まみれ。そこで李忠に、衣服をあらわせた。李服は光武に、あたらしい衣服をさしあげた。ぼくは思う。光武の行動は、ちっとも「ありがたく」ない。光武は、1人でも味方がほしい。必死に、朝廷をつくろうとしている。

信都の属県をせめた。苦陘(中山)にきて、光武は諸将に、財物をきいた。李忠だけは、財物をかすめず。光武は「とくに私は、李忠にたまわる。みなは、李忠とおなじ扱いをのぞむな」と。光武は、のる大驪馬と、きていた衣物を、李忠にたまう。

李賢はいう。馬の毛色が、くろく、あおいものを、驪という。


李忠:信都の大姓・馬寵が、王郎につき、妻子をとる

進圍巨鹿,未下,王郎遣將攻信都,信都大姓馬寵等開城內之,收太守宗廣及忠母、妻,而令親屬招呼忠。時,寵弟從忠為校尉,忠即時召見,責數以背恩反城,因格殺之。諸將皆驚曰:「家屬在人手中,殺其弟,何猛也!」忠曰:「若縱賊不誅,則二心也。」世祖聞而美之,謂忠曰:「今吾兵已成矣,將軍可歸救老母、妻、子,宜自募吏民能得家屬者,賜錢千萬,來從我取。」忠曰:「蒙明公大恩,思得效命,誠不敢內顧宗親。」

すすんで鉅鹿をかこむ。王郎は信都をせめた。信都の大姓・馬寵らは、王郎の将をむかえる。信都太守の宗廣と、李忠の母と妻をとらえた。親属に、李忠をよばせる。

ぼくは思う。豪族なら、光武より王郎をえらぶよね。つよいから。馬寵は、更始の部将にやぶられる。

ときに馬寵の弟は、李忠にしたがい校尉。李忠は「お前の兄・馬寵がそむいた」とせめ、馬寵の弟をなぐり殺した。諸将はおどろき「李忠の家族が、信都にいるのに」という。李忠は「もし馬寵をゆるさねば、光武への二心になる」という。
光武は「兵をととのえ、李忠の母、妻、子をすくおう」という。李忠は「光武のためなら、宗親は、かえりみない」といった。

世祖乃使任光將兵救信都,光兵於道散降王郎,無功而還。會更始遣將攻破信都,忠家屬得全。世祖因使忠還,行太守事,收郡中大姓附邯鄲者,誅殺數百人。及任光歸郡,忠乃還複為都尉。建武二年,更封中水侯,食邑三千戶。其年,征拜五官中郎將,從平寵萌,董憲等。

光武は、任光に信都をすくわす。任光の兵が王郎ににげ、任光はもどる。たまたま更始の部将が信都をやぶり、李忠の家族はぶじ。李忠を、信都で行太守事させた。郡中の大姓で、王郎についた数百人をころした。

ぼくは思う。おお!過激すぎる。他郡の豪族を、強引にひきこむ作戦?この、信都の大姓への対応だけのために、李忠がたてられた。

信都太守の任光がもどると、李忠は都尉にもどる。
建武二年(026)、中水(涿郡)侯。食邑三千戶。五官中郎將となる。光武にしたがい、龐萌や董憲をたいらぐ。

渡邉注はいう。五官中郎将は、光禄勲にぞくす。五官郎をつかさどる。官秩は比2千石。
渡邉注はいう。龐萌は、山陽の人。光武の平狄将軍。賁休をすくえという詔が、蓋延にのみくだったので、謀反した。激怒した光武に親征され、にげた。呉漢の配下にきられた。『後漢書』列伝2・龐萌伝。
渡邉注はいう。董憲は、東海の人。王莽の末期、東海で自立。劉永の翼漢将軍となる。海西王。呉漢にきられた。『後漢書』呉漢伝。
ぼくは思う。すでに列伝をやったはずなのに、すぐに覚わらない。反復あるのみ。


李忠:丹陽の越俗を、教化する

六年,遷丹陽太守。是時,海內新定,南方海濱江淮,多擁兵據土。忠到郡,招懷降附,其不服者悉誅之,旬月皆平。忠以丹陽越俗不好學,嫁娶禮儀,衰於中國,乃為起學校,習禮容,春秋鄉飲,選用明經,郡中向慕之。墾田增多,三歲間流民占著者五萬余口。十四年,三公奏課為天下第一,遷豫章太守。病去官,征詣京師。十九年,卒。
子威嗣。威卒,子純嗣,永平九年,坐母殺純叔父。國除。永初七年,鄧太后複封純琴亭侯。純卒,子廣嗣。

六年(030)、丹陽太守にうつる。南方の海濱・江淮では、おおくの豪族が、自立する。李忠は丹陽につき、くだした。くだらないと、全殺した。旬月のうちに、たいらぐ。

ぼくは思う。豪族のあつかいに、うまい人だなあ。なぜだろ。

丹陽は越俗であり、学問をこのまない。嫁娶の禮儀も、中原におとる。学校をつくり、礼儀をならわせた。春と秋に、鄉飲して、明經な人を選用した。郡中は、李忠をしたう。墾田して、3年で流民を5萬余口、定住させた。

ぼくは思う。丹陽は越の習俗。おぼえたいセリフ。けっきょく前漢や王莽のとき、丹陽にまで、手がまわらなかったのか。
李賢はいう。「校」も「学」という意味だ。注釈おおし。はぶく。

十四年(038)、三公は、李忠の治績を、天下第一とした。豫章太守。

ぼくは思う。豫章のほうが、越俗の奥地だ。ハードな人事異動だ。

やまい(痛風)で、官をさる。洛陽にめさる。十九年、卒した。子の李威がつぐ。

万脩:更始の信都令として、光武をむかえる

萬脩字君遊,扶風茂陵人也。更始時,為信都令,與太守任光、都尉李忠共城守,迎世祖,拜為偏將軍,封造義侯。及破邯鄲,拜右將軍,從平河北。建武二年,更封槐裏侯。與揚化將軍堅鐔俱擊南陽,未克而病,卒於軍。
子普嗣,徙封泫氏侯。普卒,子親嗣,徙封扶柳侯。親卒,無子,國除。永初七年,鄧太后紹封脩曾孫豐為曲平亭侯。豐卒,子熾嗣。永建元年,熾卒,無子,國除。延熹二年,桓帝紹封脩玄孫恭為門德亭侯。

萬脩は、あざなを君遊。扶風の茂陵の人。更始のとき、信都令。信都太守の任光と、都尉の李忠とともに、城をまもる。光武をむかえる。偏將軍、造義侯。

ぼくは思う。信都の、任光と李忠と万脩は、セットでおぼえよう。それ以外に、この列伝がある意味がない。なにも、してない。こんな万脩でも、雲台の26ばんめ。河北にいったばかりの光武が、いかに心細かったか、わかる。

王郎をやぶり、右將軍(比公将軍)。河北の平定にしたがう。建武二年(025)、槐裏侯。揚化將軍の堅鐔と、南陽をうつ。勝つまえに、軍中で病死した。子の万普がつぐ。

邳彤:和成太守として、光武の長安逃亡をとめる

邳彤字偉君,信都人也。父吉,為遼西太守。彤初為王莽和成卒正。世祖徇河北,至下曲陽,彤舉城降,複以為太守,留止數日。世祖北至薊,會王郎兵起,使其將徇地,所到縣莫不奉迎,唯和成、信都堅守不下。彤聞世祖從薊還,失軍,欲至信都,乃先使五官掾張萬、督郵尹綏,選精騎二千餘匹,緣路迎世祖軍。彤尋與世祖會信都。世祖雖得二郡之助,而兵眾未合,議者多言可因信都兵自送,西還長安。彤廷對曰:

邳彤は、あざなを偉君。信都の人。父の邳吉は、遼西太守。邳彤は、はじめ王莽の、和成卒正(和成太守)となる。光武が河北にきて、下曲陽にいたる。邳彤は、和成郡をあげてくだる。和成太守にとどまる。光武は数日とどまり、北して薊県へ。

李賢はいう。『東観漢記』はいう。王莽は、鉅鹿をわけて、和成郡をつくる。下曲陽に、郡治をおく。邳彤を、卒正(太守)とした。ぼくは思う。王莽のおかげで、ここに郡レベルの、光武の味方があらわれた。

王郎が起兵して、光武をむかえる郡県はない。和成と信都だけ、王郎をむかえず。邳彤は、光武が軍をうしない、薊県からもどるときく。光武は、信都へゆくときく。
さきに邳彤は、五官掾の張萬、督郵の尹綏に、精騎2千をつけて、光武をむかえる。邳彤は、光武と信都であった。光武は、和成と信都にたすけられたが、兵がこない。議者は「更始の長安にかえれ」という。邳彤は、反対した。

議者之言皆非也。吏民歌吟思漢久矣,故更始舉尊號而天下回應,三輔清宮除道以迎之。一夫荷戟大呼,則千里之將無不捐城遁逃,虜伏請降。自上古以來,亦未有感物動民其如此者也。又卜者王郎,假名因勢,驅集烏合之眾,遂震燕、趙之地;況明公奮二郡之兵,揚回應之威,以攻則何城不克,以戰則何軍不服!今釋此而歸,豈徒空失河北,必要驚動三輔,墮損威重,非計之得者也。若明公無複征伐之意,則雖信都之兵猶難會也。何者?明公既西,則邯鄲城民不肯捐父母、背城主,而千里送公,其離散亡逃可必也。

邳彤はいう。「みな漢室をしたう。1人の男が、戟をかついで呼びかければ、莽新にぞくす千里の将だって、城をすてて、くだる。王郎ですら、劉氏の名をかりた。いま光武が河北をされば、三輔まで王郎にせめられる。もし光武があきらめるなら、信都は王郎につく」と。

ぼくは思う。戟をかついだ1人の男が、まさに光武だな。なんの軍兵のうらづけもない。邳彤は、信都の世論を手にして、光武をおどしている。光武の河北平定にとって、この邳彤の演説は、かなりの名場面だ。『全訳後漢書』24頁に、口語訳あり。


世祖善其言而止。即日拜彤為後大將軍,和成太守如故,使將兵居前。比至堂陽,堂陽已反屬王郎,彤使張萬、尹綏先曉譬吏民,世祖夜至,即開門出迎。引兵擊破白奢賊於中山。自此常從戰攻。

光武は、邳彤にしたがう。即日、邳彤の後大将軍とする。和成太守のまま。

渡邉注はいう。後大将軍は、ここのみ。国政を担当しない。雑号。

邳彤は北して、堂陽にゆく。堂陽は、王郎につく。邳彤は、張萬、尹綏をやり、堂陽の吏民をさとす。よるに光武がきた。すぐ開門して、むかえた。白奢の賊を、中山でうつ。これより邳彤は、つねに光武にしたがう。

邳彤:行大司空、太常、少府した年長者

信都複反為王郎,郎所置信都王捕系彤父弟及妻子,使為手書呼彤曰:「降者封爵,不降族滅。」彤涕泣報曰:「事君者不得顧家。彤親屬所以至今得安於信都者,劉公之恩也。公方爭國事,彤不得複念私也。」會更始所遣將攻拔信都,郎兵敗走,彤家屬得免。

ふたたび信都が、王郎につく。王郎の信都王は、邳彤の父弟と妻子をとらえる。手書で、邳彤に呼びかけさせた。「くだれば封爵。くだらねば族滅」と。邳彤は涕泣して、返書した。「信都でくらせたのは、光武のおかげ。国事をするとき、念私しない」と。たまたま更始の将が、信都をぬいた。邳彤の家属は、たすかった。

ぼくは思う。さっきの李忠と、まったくおなじ展開。このときの更始の将って、だれなんだろう。光武からみたら、すごく功績がおおきいのに、姓名がない。


及拔邯鄲,封武義侯。建武元年,更封靈壽侯,行大司空事。帝入洛陽,拜彤太常,月餘日轉少府,是年免。複為左曹侍中,常從征伐。六年,就國。彤卒,子湯嗣,九年,徙封樂陵侯。十九年,湯卒,子某嗣;無子,國除。元初元年,鄧太后紹封彤孫音為平亭侯。音卒、子柴嗣。

王郎をぬき、武義侯。建武元年(025)、靈壽侯、行大司空事。光武が洛陽にはいると、太常。月餘して、少府。

渡邉注は、大司空、太常、少府を注釈する。はぶく。
ぼくは思う。すごく、昇進のペースがはやい。王莽に太守にしてもらうほどだから、年長者だろう。だから光武に「河北をすて、長安にいくな」なんて、説教ができた。

この歳、免ぜらる。左曹の侍中、つねに光武に従軍した。六年(030)、就國する。邳彤が卒し、子の邳湯がつぐ。

初,張萬,尹綏與彤俱迎世祖,皆拜偏將軍,亦從征伐。萬封重平侯,綏封平臺侯。

はじめ張萬と尹綏は、邳彤とともに光武をむかえた。どちらも偏將軍、光武に従軍する。張萬は、重平侯。尹綏は、平臺侯。

范陽による論と賛

論曰:凡言成事者,以功著易顯;謀幾初者,以理隱難昭。斯固原情比跡,所宜推察者也。若乃議者欲因二郡之眾,建入關之策,委成業,臨不測,而世主未悟,謀夫景同,邳彤之廷對,其為幾乎!語曰「一言可以興邦」,斯近之矣。
贊曰:任、邳識幾,嚴城解扉。委佗還旅,二守焉依。純、植義發,奉兵佐威。

范曄の論はいう。成功した後で、説明するのはカンタンだ。邳彤は議者に反対して、成功する前に、光武を河北にとどめた。
范曄の賛はいう。任光と邳彤は、きざしを知り、信都郡と和成郡を、光武にさしだした。光武は、ゆくあてなく、任光と邳彤にたよった。耿純と劉植は、兵をほうじて、光武をたすけた。110728

つぎ、『後漢書』列伝12につづきます。

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