表紙 > 曹魏 > 巻18・李典、李通、臧覇、文聘、呂虔、許褚、典韋伝、初期の曹操軍

01) 李典、李通、臧覇

『三国志集解』で、巻18をやります。
初期の曹操軍団を見たいので、兗州や豫州の人たち。200年代前半まで。

曹操を初期から支えた兗州豪族・李典

李典字曼成,山陽钜野人也。典從父乾,有雄氣,合賓客數千家在乘氏。初平中,以眾隨太祖,破黃巾於壽張,又從擊袁術,征徐州。呂布之亂,太祖遣乾還乘氏,慰勞諸縣。布別駕薛蘭、治中李封招乾,欲俱叛,乾不聽,遂殺乾。太祖使乾子整將乾兵,與諸將擊蘭、封。蘭、封破,從平兗州諸縣有功,稍遷青州刺史。

李典は、あざなを曼成。山陽の钜野の人だ。李典の從父は、李乾である。李乾は、賓客の數千家をあわせ、乘氏にいる。

鉅野は、武帝紀の興平二年にある。乗氏は、興平元年にある。

初平のとき(190-)、軍をつれて、曹操にしたがう。黄巾を壽張でやぶる。

寿張は、武帝紀の初平三年(192)にある。ぼくは思う。曹操が鮑信にむかえられ、兗州の黄巾を討ったとき、李乾は合流したのだ。ごくごく初期に、曹操に合流した、兗州の豪族だ。

また曹操にしたがい、袁術を撃った。徐州を征した。

ぼくは思う。193年春、袁術が南陽から北伐し、陳留に入った。李典が袁術を撃ったのは、このときだろう。曹操は、袁術を撃退するとき、兗州の在地勢力を活用したことがわかる。徐州を撃ったのは、2回にわたる陶謙の攻撃。

呂布が兗州を乱すと、曹操は李乾を乗氏にもどし、諸県を慰勞させた。呂布の別駕・薛蘭、治中・李封は、李乾を招いた。「ともに曹操に叛こう」と。李乾は曹操についたので、殺された。曹操は、李乾の子・李整に、李乾の兵をひきいさせ、薛蘭と李封をやぶった。兗州の平定に功績があり、李整は青州刺史となる。

ぼくは思う。呂布が、わりと詳しく、兗州の豪族を抱きこんだことがわかる。李乾の死から、呂布の強引な勧誘がうかがわれる。曹操は、まさしく兗州を失う勢いだったのだ。
そして李典は、なかなか出てこない。従父と従兄が、兗州の兵を率いていたから。
従兄の李整は、青州刺史だが、どうせ遙任だろう。曹操は、董昭や賈詡の「冀州牧」よろしく、遙任をけっこうやる。ただし、遙任にしろ、刺史にしてもらったのだから、初期の曹操軍団で、李整がいかに重要かがわかる。


整卒,典徙潁陰令,為中郎將,將整軍,遷離狐太守。
魏書曰:典少好學,不樂兵事,乃就師讀春秋左氏傳,博觀群書。太祖善之,故試以治民之政。

李整が死ぬと、李典は潁陰令となる。中郎將となり、李整の軍をひきいた。離狐太守となる。

離狐は、于禁伝にある。銭大昕はいう。離狐県は、前漢のとき東郡に属した。後漢のとき、済陰に属した。単県の西だ。おそらく建安のはじめに、県から郡にかえて、すぐに除いた。
ぼくは思う。曹操は、李典にためしに民政をさせるために、郡をおいたのだろう。県令として、民政をさせてもよかった。しかし、兗州の李氏のネイムバリューからすると、県令では軽すぎる。「李整が死んだ瞬間に、いきなり待遇のおとすのか」と思われたら、部曲をひきいる人たちが、曹操を見限る。しかし、曹操には領土がない。だから、離狐郡を捏造した。

魏書はいう。李典は、兵事より学問が好きだ。師事して『春秋左氏傳』をまなぶ。曹操は、ためしに李典に民政をやらせた。

時太祖與袁紹相拒官渡,典率宗族及部曲輸穀帛供軍。紹破,以典為裨將軍,屯安民。太祖擊譚、尚於黎陽,使典與程昱等以船運軍糧。

ときに曹操は、官渡で袁紹をふせぐ。李典は、宗族および部曲をひきい、穀帛をはこび、軍に供給した。袁紹をやぶると、裨將軍となり、安民に屯した。

ぼくは思う。官渡のとき、兗州が兵站となった。しかし、兗州まるまる全部でない。曹操が、兗州をどれだけ抑えていたか、チェックしたい。もしかしたら、李典や程昱と、その仲間たちだけかも。ここにある「宗族および部曲」は、研究者の好物。
安民は、荀彧伝にある。東平国の寿張県にある。『水経注』はいう。汶水が、済水にはいる。荀彧伝がいう、建安六年(201)、曹操が穀物をはこんだ場所である。

曹操は、袁譚と袁尚を、黎陽で撃った。李典と程昱らに、船で軍糧をはこばせた。

ぼくは思う。兗州は、水の戦いになる。程昱が渡し場をこわして、陳宮をブロックしたり。李典には、水軍があるのだろう。兗州の水軍について、むじんさんのサイトにありました。
李典と程昱は、兗州のうち、珍しく? 曹操に味方した豪族だ。官渡ののちも、曹操は兗州の豪族にたよっている。兗州の人の重要度がおちるのは、曹操が冀州を平定してからだろう。
以下、袁尚、劉備、高幹、孫権を撃退する。はぶく。


汝水あたりで、曹操の献帝奉戴を支持した李通

李通字文達,江夏平春人也。 魏略曰:通小字萬億。
以俠聞於江、汝之間。與其郡人陳恭共起兵於朗陵,眾多歸之。時有周直者,眾二千餘家,與恭、通外和內違。通欲圖殺直而恭難之。通知恭無斷,乃獨定策,與直克會,酒酣殺直。眾人大擾,通率恭誅其党帥,盡並其營。後恭妻弟陳郃,殺恭而據其眾。通攻破郃軍,斬郃首以祭恭墓。又生禽黃巾大帥吳霸而降其屬。遭歲大饑,通傾家振施,與士分糟糠,皆爭為用,由是盜賊不敢犯。

李通は、あざなを文達という。江夏の平春の人だ。『魏略』はいう。幼名は、万億。

洪亮吉は、平春を義陽郡に属させる。誤りだ。沈家本はいう。『晋書』李重伝はいう。李重は、江夏の鍾武の人だ。李通の曾孫である。

李通は、侠気をもって、長江と汝水のあいだで有名だ。同郡の陳恭とともに、朗陵で挙兵起兵した。

『御覧』だと、李通は遊学したとする。朗陵は、荀彧伝にある。盧弼はいう。李通という人は、光武帝のそばにいる。同姓同名である。

周直という人が、2千余家をひきいた。李通は、周直を殺し、人口をうばった。のちに、盟友の陳恭が殺されると、仇討した。黄巾の大帥・呉覇をくだし、人口をくだした。飢饉があると、李通は家財をかたむけて救った。盗賊は、李通の人口を犯さない。

盧弼の注釈はない。江夏郡で、190年代前半に、自力救済していた話。
ぼくは思う。注意したいのは、劉表が出てこないこと。っていうか、州牧レベルの介入がない。江夏は、汝水にちかい。豫州の南、荊州の北あたりは、空白地帯なのかも知れない。孫堅が死んで、袁紹が北方にゆき、袁術は淮南に出てゆき、劉表はまだ手がおよばず。
空白という点で、曹操が入る前の潁川も、似ているなあ。


建安初,通舉眾詣太祖於許。拜通振威中郎將,屯汝南西界。太祖討張繡,劉表遣兵以助繡,太祖軍不利。通將兵夜詣太祖,太祖得以複戰,通為先登,大破繡軍。拜裨將軍,封建功侯。分汝南二縣,以通為陽安都尉。

建安はじめ、李通は、許県の曹操にしたがう。李通は、振威中郎將となり、汝南の西界に屯した。

ぼくは思う。196年か、197年だ。曹操が献帝を手に入れたとき、反応は2種類。たよる人と、そむく人。李通は、曹操をたよった。州牧レベルの求心力が、豫州から荊州北東に、欠けていた。曹操が、これをおぎなった。

曹操は、張繍を討った。劉表は兵をやり、張繍を助けた。李通は、夜に曹操にあわさり、張繍を破った。裨將軍、建功侯。

銭大昕はいう。建功「亭」侯がただしい。曹操は、建安二十年(215)に、侯号を立てる。それと混同されているか。早すぎる。
ぼくは思う。張繍は、曹操が献帝を手に入れたことに、そむく人。張繍と李通は、曹操の献帝奉戴をめぐり、正反対の態度である。

汝南の2県をわけて、李通を陽安都尉とした。

銭大昕はいう。『魏略』は、李通が遙任にて、陽安太守になったとする。けだし都尉として、太守を代行したのだ。趙𠑊伝はいう。袁紹は、諸郡をさそったが、陽安郡だけは、袁紹になびかず。ときの都尉、別領県する人は、曹操にたたえられた。
趙一清はいう。『郡国志』の汝南郡に、陽安道亭がある。朗陵侯国の注釈にある『魏氏春秋』はいう。初平三年(192)、2県をわけて陽安都尉をおいた。『方輿紀要』巻50はいう。曹操は汝南をわけて、陽安都尉をおいた。朗陵県は、これに属したと。謝鍾英はいう。曹魏が受禅してから、陽安郡はない。
ぼくは思う。よく分からんが。江夏と汝南の境界を、李通が守ったのだろう。曹操につく前から、李通が拠点としたところ。曹操は、この拠点を追認したのだ。太守の権限をもった。


通妻伯父犯法,朗陵長趙儼收治,致之大辟。是時殺生之柄,決於牧守,通妻子號泣以請其命。通曰:「方與曹公戮力,義不以私廢公。」嘉儼執憲不阿,與為親交。

李通の妻の伯父が、法をおかした。朗陵長の趙儼は、妻の伯父を捕えた。このとき、妻の伯父の生死は、牧守である李通がにぎる。妻子は、李通に泣きついた。「伯父をたすけてくれ」と。李通は言った。「曹操とともに、力をつくす。私を公に優先しない」と。李通は、きびしい趙𠑊をよみし、親交をむすぶ。

銭大昕はいう。漢制では、おおきな県に令をおき、ちいさな県に長をおく。趙𠑊伝には、朗陵長とある。田豫伝には、朗陵令とある。どちらかが、誤りだ。ぼくは思う。朗陵県のサイズが、変わったのではないの?
ぼくは思う。李通が曹操にもとめたものが、「公」権力だとわかる。李通は、江夏のあたりで、「私」権力を築いた。しかし、ほしいのは「公」だった。おなじことが、荀彧にも言えると思う。荀彧は潁川に献帝をまねいたが、豫州を「公」権力で立て直すことが、願いだったのだろう。献帝がいるだけで、自然と秩序ができてゆく。漢の歴史、すごい。ぎゃくに長安のあたりは、献帝がいなくなり、秩序がくずれたのだろう。馬超とか、出てきた。


太祖與袁紹相拒於官渡。紹遣使拜通征南將軍,劉表亦陰招之,通皆拒焉。通親戚部曲流涕曰:「今孤危獨守,以失大援,亡可立而待也,不如亟從紹。」通按劍以叱之曰:「曹公明哲,必定天下。紹雖強盛,而任使無方,終為之虜耳。吾以死不貳。」即斬紹使,送印綬詣太祖。又擊郡賊瞿恭、江宮、沈成等,皆破殘其眾,送其首。遂定淮、汝之地。改封都亭侯,拜汝南太守。

官渡のとき、袁紹は、李通を征南将軍にした。劉表もまた、ひそかに李通をさそった。李通は、こばんだ。親戚や部曲は、流涕して言った。「孤立した。袁紹につこう」と。李通は剣をにぎり、叱った。「曹操が天下を定めるはずだ」と。袁紹の使者を切って、征南将軍の印綬を曹操にとどけた。

趙𠑊伝にひく『魏略』はいう。李通は、袁紹に通じたかった。真逆だ。
ぼくは思う。以下の2つを確認した。曹操が孤立して、勝ち目がないこと。袁紹が、官位を勝手に発行していること。本文にある李通のセリフは、いかにも曹操バンザイである。こんなセリフ、アトヅケだろう。ともあれ、汝南がめちゃめちゃ動揺したことは、間違いない。

陽安郡の賊・瞿恭、江宮、沈成らを、李通は撃った。ついに李通は、淮水、汝水の地を定めた。

ぼくは思う。「賊」のわりには、きちんと名が残っている。汝南、江夏、あいだの陽安のあたりで、よほど強盛だった人たちだ。もしかしたら、李通とおなじレベルで自力救済し、「私」権力を築いていた人たちか。李通は、淮水や汝水あたりで、主導権を握るために、曹操がつくった「公」権力を支持したのだ。
さっき、妻の伯父をたすけたら、この方針がゆらぐ。同郡のライバルたちに、勝てなくなる。待てよ。政略結婚するだろうから、李通の妻も、地元の豪族だろう。発言力がある。妻子が、刑罰の内容について、口出ししたことから、推測できる。
李通に敵対した「賊」たちは、誰になびいたか。劉表や袁術だろうね。いま「淮水、汝水の地を定めた」とある。つまり、官渡のころまで、曹操が平定していないことが、わかる。

李通は、都亭侯、汝南太守となる。

袁紹をやぶって、やっと初めて、堂々と汝南太守となった。思うに、陽安都尉として、陽安太守を代行するというのは、苦肉の官位。ほんとは汝南太守を置きたいが、ろくに制圧できていなかった。


時賊張赤等五千餘家聚桃山,通攻破之。劉備與周瑜圍曹仁於江陵,別遣關羽絕北道。通率眾擊之,下馬拔鹿角入圍,且戰且前,以迎仁軍,勇冠諸將。通道得病薨,時年四十二。追增邑二百戶,並前四百戶。文帝踐阼,諡曰剛侯。詔曰:「昔袁紹之難,自許、蔡以南,人懷異心。通秉義不顧,使攜貳率服,朕甚嘉之。不幸早薨,子基雖已襲爵,未足酬其庸勳。基兄緒,前屯樊城,又有功。世篤其勞,其以基為奉義中郎將,緒平虜中郎將,以寵異焉。」

ときに賊の張赤らが、5千余家で、桃山にいる。破った。劉備と周瑜が、曹仁を攻めた。李通が曹仁を救った。李通は、42歳で死んだ。曹丕が皇帝即位し、李通に剛侯と贈る。曹丕は詔した。「むかし官渡のとき、許や蔡より南は、曹操にそむいた。李通は、そむかず」と。

子孫について、はぶく。裴注もあるけど、はぶく。


つづきます。臧覇、文聘、呂虔、許褚、典韋です。

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