表紙 > 曹魏 > 巻17・張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃、朱霊伝、初期の曹操軍

01) 張遼、楽進

『三国志集解』で、巻17をやります。
初期の曹操軍団を見たいので、兗州や豫州の人たち。200年代前半まで。

張遼:丁原、何進、董卓、呂布に、兵ごと属す

張遼字文遠,雁門馬邑人也。本聶壹之後,以避怨變姓。少為郡吏。

張遼は、あざなを文遠。雁門の馬邑の人だ。

『郡国志』はいう。并州の雁門郡だ。
『捜神記』はいう。むかし秦人は、城壁をきずき、胡人をふせぐ。しばしば城壁がくずれた。馬がいて、走りまわった。馬が走った場所に、城壁を築くと、くずれなかった。ゆえにこの土地を、馬邑という。

もとは張遼は、聶壹の後裔だ。怨みを避けて、姓をかえた。

『漢書』匈奴伝はいう。前漢は、馬邑の老人・聶壹に、匈奴と交易させた。交易で匈奴をだまし、利益をかすめた。ぼくは思う。張遼は、もとは聶遼という姓名ですね。聶遼という名だと、匈奴に怨まれる。よっぽどだな。妄想ですが。張遼の家もまた、匈奴に不利益をあたえる仕事をしたのではないか。数百年前の怨みより、昨日の怨みがこわい。

わかくして、郡吏となる。

漢末,並州刺史丁原以遼武力過人,召為從事,使將兵詣京都。何進遣詣河北募兵,得千餘人。還,進敗,以兵屬董卓。卓敗,以兵屬呂布,遷騎都尉。布為李傕所敗,從布東奔徐州,領魯相,時年二十八。

後漢末、并州刺史の丁原は、張遼の武力をみとめ、従事とした。兵をひきい、京都にゆかせた。

趙一清はいう。『宋書』百官志はいう。荊州に、従事史があった。議曹従事史の下である。張遼のついた「従事」も、これに比定できる。魏晋におかれた。荊州のほかにも、おなじ官位が置かれただろう。荊州だけでない。
盧弼は考える。『宋書』百官志はいう。刺史の官属に、別駕従事史・定員1名がある。刺史にしたがい、行部する。侍中従事史・定員1名がある。財政や穀物の帳簿をつかさどる。兵曹従事史・定員1名がある。兵事をつかさどる。部従事史は、郡ごとに1名おかれた。非法をとりしまる。以上が、漢制である。
また『続漢書』百官志を見るに。司隷校尉の従事は、12名である。刺史はみな、従事史がいる。仮佐した。司隷校尉と刺史は、おなじである。
趙一清は、荊州従事史の1例だけを見つけたが、検討が足りない。盧弼が考えるに、従事史をはぶいて、「従事」と言ったのだ。張遼がついたのは、并州刺史の従事史である。

何進は張遼をやり、河北で募兵させた。1千余人をえた。張遼が洛陽にもどると、何進がすでに敗れていた。

張遼は、河北の兵をつれて、董卓に属した。董卓が敗れると、張遼は、呂布に属した。騎都尉となる。呂布が李傕にやぶれると、呂布にしたがい、徐州にゆく。呂布の魯相となる。ときに張遼は、28歳。

『資治通鑑』はいう。建安三年(198)、呂布は、北地太守する雁門の張遼に、劉備を攻めさせた。胡三省はいう。呂布が任じた、張遼の北地太守は、遙任である。
ぼくは思う。魯相ならば、地理的には、現実的である。魯相と、北地太守は、どのようにつなげて理解したらよいのか。張遼が28歳なら、196年である。196年と、198年のあいだには、袁術が皇帝即位した197年がある。関係、あるのかなあ。笑


張遼:東海の昌豨を説得し、河北で別働する

太祖破呂布於下邳,遼將其眾降,拜中郎將,賜爵關內侯。數有戰功,遷裨將軍。袁紹破,別遣遼定魯國諸縣。

(198年) 曹操は、呂布を下邳でやぶった。張遼は、兵をひきいて曹操にくだった。

ぼくは思う。張遼は、君主を移動するとき、いつも「兵をつれて」いる。呂布とも別に、じぶんの兵を持っていたのだろう。河北であつめた兵が母体だろうが、、并州じこみの部隊。

中郎将、関内侯。戦功があり、裨將軍。袁紹を破るとき、べつに張遼をやり、魯國の諸縣を平定させた。

ぼくは思う。官渡のとき、張遼は戦場にいない。魯国(兗州の東方)を攻めている。臧覇は、琅邪から青州に進入した。官渡の戦いは、袁紹がよこ並びになって、じわじわ領土の境界を、下げていった戦いかも知れない。官渡の局地戦だけで、決まらない。
巻18・李典、李通、臧覇、文聘、呂虔、許褚、典韋伝、初期の曹操軍


與夏侯淵圍昌豨於東海,數月糧盡,議引軍還,遼謂淵曰:「數日已來,每行諸圍,豨輒屬目視遼。又其射矢更稀,此必豨計猶豫,故不力戰。遼欲挑與語,儻可誘也?」乃使謂豨曰:「公有命,使遼傳之。」豨果下與遼語,遼為說「太祖神武,方以德懷四方,先附者受大賞」。豨乃許降。遼遂單身上三公山,入豨家,拜妻子。豨歡喜,隨詣太祖。太祖遣豨還,責遼曰:「此非大將法也。」遼謝曰:「以明公威信著於四海,遼奉聖旨,豨必不敢害故也。」

張遼は、夏侯淵とともに、東海で昌豨をかこんだ。数ヶ月で、曹操軍の軍糧がつき、兵をもどす。張遼は、夏侯淵に言った。「昌豨は、私を見ていた。あまり矢を射ない。昌豨をさそってみたい」と。張遼は、昌豨を降伏させた。張遼は、ひとりで三公山(郯県)にのぼり、昌豨の妻子に会った。
曹操は、張遼を責めた。「大将のやりかたでない」と。張遼はあやまった。「曹操の威信があるから、昌豨は私をだまし討ちにしないと考えた」と。

昌豨は、『三国志』巻17で、おおく登場する。着目したい人物。いまウィキペディアを見たら、226年に諸葛亮いわく、曹操が5回攻めてもくだせず。200年、劉備に呼応して、曹操にそむく。張遼が降伏させた。だが206年、ふたたび曹操にそむく。于禁に殺された。
曹操が、官渡から河北平定をやるとき、徐州の南部は、手薄になる。そこに、昌豨がいた。孫権が、曹操に放置してもらえたのも、おなじ理由。曹操が208年まで、荊州を南下しないのは、理由があったのだ。206年、昌豨平定があったしね。


從討袁譚、袁尚於黎陽,有功,行中堅將軍。從攻尚於鄴,尚堅守不下。太祖還許,使遼與樂進拔陰安,徙其民河南。複從攻鄴,鄴破,遼別徇趙國、常山,招降緣山諸賊及黑山孫輕等。從攻袁譚,譚破,別將徇海濱,破遼東賊柳毅等。還鄴,太祖自出迎遼,引共載,以遼為蕩寇將軍。

袁譚と袁尚を、黎陽で討った。行中堅將軍。袁尚を鄴県で攻めたが、くだせず。
曹操は、許県にもどる。曹操とわかれ、張遼と楽進は、陰安(魏郡)をぬく。河南に、陰安の人口をうつす。ふたたび鄴県を攻め、やぶった。わかれて張遼は、趙國、常山をめぐる。まわりの山賊や、黑山の孫輕らをくだす。
袁譚をやぶる。わかれて、海濱をめぐる。遼東の賊・柳毅らをやぶる。鄴県にもどる。曹操とともに、出陣した。蕩寇將軍。

盧弼は、とくに注釈しない。曹操が河北を平定するとき、曹操とついたり、はなれたりする。別働隊として、機能を発揮するなあ。ただし、袁譚と袁尚をどちらも相手した黎陽、袁氏の本拠・鄴県、袁譚の最期の戦いなど、重要なときは、いつも曹操とともにいる。もしくは、張遼がいるとき、曹操は大きな戦果があがる。


複別擊荊州,定江夏諸縣,還屯臨潁,封都亭侯。從征袁尚於柳城,卒與虜遇,遼勸太祖戰,氣甚奮,太祖壯之,自以所持麾授遼。遂擊,大破之,斬單于蹋頓。
傅子曰:太祖將征柳城,遼諫曰:「夫許,天子之會也。今天子在許,公遠北征,若劉表遣劉備襲許,據之以號令四方,公之勢去矣。」太祖策表必不能任備,遂行也。(後略)

ふたたびわかれ、荊州を撃つ。江夏の諸県をさだめた。もどって臨潁にいる。都亭侯。曹操にしたがい、袁尚を柳城でつかまえた。烏桓の單于・蹋頓を斬った。

ぼくは思う。江夏のことでわかるように。曹操と劉備は、有機的につながっている。もとは吉川英治『三国志』から入ったので、こういうのは、地味にテンションがあがる。

『傅子』はいう。張遼は、曹操の柳城攻めに反対した。「劉表が劉備をつかい、許県を攻めたら、曹操の権勢が去ります」と。曹操は、劉表にはムリだと考えた。

『傅子』は、べつに無視していいだろう。いい加減。ナイとは言えないが、アルとしても、大勢に影響のない小説ばかり、載っている。

以下、はぶきます。つぎ、楽進。

楽進:曹操の本隊として、袁術戦に全参加

樂進字文謙,陽平衛國人也。容貌短小,以膽烈從太祖,為帳下吏。遣還本郡募兵,得千餘人,還為軍假司馬、陷陳都尉。從擊呂布於濮陽,張超於雍丘,橋曨於苦,皆先登有功,封廣昌亭侯。從征張繡於安眾,圍呂布於下邳,破別將,擊眭固於射犬,攻劉備於沛,皆破之,拜討寇校尉。

樂進は、あざなを文謙。陽平の衛國の人だ。

趙一清はいう。『郡国志』はいう。東郡に、衛公国がある。これが、衛県である。銭大昕はいう。漢代、衛国は東郡に属した。建安十七年(212)、衛国をきりとり、魏郡にうつす。曹魏の黄初二年、魏郡の東をきりとり、陽平郡とした。
ぼくは思う。ともあれ楽進は、兗州の人。曹操が、現地でひろった。

容貌は短小だが、膽烈があった。曹操の帳下吏となる。陽平にもどり、募兵した。1千余人を得た。軍假司馬、陷陳都尉となる。

ぼくは思う。はじめて曹操が兗州に入ったとき、こうやって、人材と兵数を集めたのだろう。楽進は、はじめから役人である。兵卒の出身ではない。

濮陽で呂布、雍丘で張超、苦県で橋蕤を撃った。みな先登して、功あり。

東郡の治所は、濮陽だ。雍丘は、武帝紀の興平二年(195)にある。苦県は、武帝紀の建安十八年(213)にある。

廣昌亭侯となる。安衆で張繍、下邳で呂布をやぶる。わかれて、射犬で眭固、沛国で劉備を撃った。みなやぶり、討寇校尉。

安衆は、武帝紀の建安三年にある。下邳は、武帝紀の初平四年にある。射犬は、武帝紀の建安四年にある。
ぼくは思う。曹操のおもな戦いに、すべて参加している。気になるのは、楽進が戦った人の共通点。呂布、張超、橋蕤、張繍、呂布、眭固、呂布。眭固は、ちょっとメドがないが、その他は、袁術との関係が認められる(あちこちに書いているので、はぶく)。楽進が云々でなく、曹操の仇敵が、袁術だったことを表すのだろう。
楽進の手柄が地味なのは、兗州兵として、曹操の本隊に所属し、本隊を形成するせいか。手柄が曹操に吸収される。みずから陳寿は「楽進の手柄が、いまいち書き足りない」と、巻末でぼやいている。張遼は、よく別働したので、手柄が目立った。張遼と対照的だ。
官位や防衛の配置を見ると、楽進は、張遼と同等に、晴れ晴れしいエピソードやキャラが立っていそうな人物。


楽進:同州の于禁、同格の張遼とならび、将軍となる

渡河攻獲嘉,還,從擊袁紹於官渡,力戰,斬紹將淳於瓊。

楽進は黄河をわたり、獲嘉(河内)を攻めた。官渡で力戰し、淳于瓊を斬った。

ぼくは思う。獲嘉って、地名だったのね。郭嘉の親戚かと思った。 何焯はいう。まだ淳于瓊を斬らない。つかまえただけ。武帝紀の建安五年の注釈にある。


從擊譚、尚於黎陽,斬其大將嚴敬,行遊擊將軍。別擊黃巾,破之,定樂安郡。從圍鄴,鄴定,從擊袁譚於南皮,先登,入譚東門。譚敗,別攻雍奴,破之。

黎陽で、袁譚、袁尚を撃った。大将の嚴敬を斬った。行遊擊將軍。わかれて黄巾をやぶる。樂安郡(青州)をさだめた。鄴県をかこみ、さだめた。袁譚を南皮で撃った。先登して、袁譚の東門に入った。

ぼくは思う。楽進の功績は「先登」がおおい。さきがけ。

袁譚をやぶると、わかれて雍奴(幽州の漁陽郡)をやぶった。

建安十一年,太祖表漢帝,稱進及于禁、張遼曰:「武力既弘,計略周備,質忠性一,守執節義,每臨戰攻,常為督率,奮強突固,無堅不陷,自援枹鼓,手不知倦。又遣別征,統禦師旅,撫眾則和,奉令無犯,當敵制決,靡有遺失。論功紀用,宜各顯寵。」於是禁為虎威;進,折沖;遼,蕩寇將軍。

建安十一年(206)、曹操は上表した。楽進、于禁、張遼をたたえた。于禁は、虎威将軍。楽進は、折沖将軍。張遼は、蕩寇將軍となる。

何焯はいう。建安十二年(207)とする本がある。盧弼は考える。建安十年(205)冬、高幹は并州でそむいた。建安十一年(206)、曹操は高幹を征した。同年8月、曹操は東にゆき、海賊の管承を征した。張遼伝で、張遼は、建安十年(205)、蕩寇将軍となり、柳城で袁尚をやぶった。いま上表で、張遼もほめている。この上表は、206年である。205年の張遼の功績を、あわせてほめたのだ。


進別征高幹,從北道入上黨,回出其後。幹等還守壺關,連戰斬首。幹堅守未下,會太祖自征之,乃拔。太祖征管承,軍淳於,遣進與李典擊之。承破走,逃入海島,海濱平,荊州未服,遣屯陽翟。

楽進は、わかれて高幹を上党で征した。高幹は、壺関をまもる。楽進は、陥とせない。みずから曹操がきて、壺関をぬいた。曹操は管承を征し、淳于にきた。楽進と李典に、管承を撃たせた。管承は、海島ににげた。海浜が、たいらいだ。荊州は、服さず。楽進は、陽翟に屯した。

淳于は、武帝紀の建安十一年にある。陽翟は、潁川の郡治。
ぼくは思う。のちに張遼、李典、楽進は、合肥にいた。管承との戦いでわかるように、兗州生まれの李典と楽進は、曹操軍の中核のようです。みずから、兵を集めてきた。
楽進は、巻17に列伝があり、李典は巻18に列伝がある。おなじ兗州出身なのに、このちがいは、どこにあるか。楽進は、張遼とならぶほど、武功がある人。李典は、武功というよりは、一族の遺産をひきついで、民政する人。

以下、楽進伝を、はぶく。つぎは、おなじ兗州の于禁。つづく。

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