表紙 > ~後漢 > 袁宏『後漢紀』の抄訳

152-156年、漢室の命数は、中天にある

『後漢紀』を抄訳します。

152年、桓帝の母・匽氏が死ぬ

正月丙辰〔一〕,京師地震。〔一〕范書亦同。按是月壬午朔,無丙辰,疑皆誤。
四月甲寅,孝崇皇后崩。帝舉哀洛陽西鄉。有司奏「禮為人後,制服有降,公卿已下各有差。贈送之禮儀,比恭懷皇后」。是時大將軍梁冀輔政,匽氏無在位者。
八月,黃龍見句陽,又見允〔街〕(衙)〔一〕。〔一〕據范書及續漢郡國志改。
十月乙亥,京師地震。

元嘉二年(152)、正月丙辰、京師が地震した。〔范曄もおなじ。だが、この月は壬午がついたちで、丙辰がない。袁宏も范曄も誤りだろう〕
4月甲寅、桓帝の母・孝崇皇后が崩じた。桓帝は、洛陽と西郷をあげて、哀しんだ。有司が上奏した。「恭懷皇后(和帝の母・梁氏)とおなじ形式で、葬儀しましょう」と。このとき大将軍の梁冀が輔政する。匽氏は、桓帝の母の一族だが、官位につく人がいない。

ぼくは思う。傍流から皇帝が即位すると、外戚ばかりふえるが。匽氏の高官を知らない。梁冀が、うまく抑えこんでいたのだ。

152年8月、黃龍が句陽にあらわれた。允衙(金城)にもあらわれた。〔范曄と『続漢書』郡国志に基づき、地名を「街」から「衙」にあらためた〕
152年10月乙亥、京師が地震した。

153年、『陳留耆舊傳』をつくる袁湯が、太尉を辞める

五月丙申,大赦天下。 十一月丁丑,減天下人死罪一等。民饑流亡數十萬口,詔所在賑給〔一〕。 〔一〕范書言民饑流亡乃秋七月,郡國三十三地震,及河水溢所致。又「口」作「戶」。

永興元年(153)5月丙申、天下を大赦した。
11月丁丑、天下で、死罪一等を減じた。民のうち、饑えて流亡する人は、10萬口をかぞえる。桓帝は詔して、賑給した。
〔范曄はいう。民が饑えて流亡したのは、秋七月だ。郡國33が地震して、黄河の水があふれた。また范曄は、10万「口」でなく、10万「戸」とする〕

太尉袁湯致仕。湯字仲河。初為陳留太守,褒善敘舊,以勸風俗。嘗曰:「不值仲尼,夷、齊西山餓夫,柳下東國黜臣,致聲名不泯者,篇籍使然也〔一〕。」〔一〕論語公冶長孔子曰:「伯夷叔齊,不念舊惡,怨是用希。」又衛靈公孔子曰:「臧文仲其竊位者與?知柳下惠之賢,而不與立也。」
乃使戶曹吏追錄舊聞,以為耆舊傳〔二〕。〔二〕隋書經籍志有漢議郎圈稱撰陳留耆舊傳。東漢時地方撰述耆舊傳成風,不詳圈稱所撰與袁湯所命是否為一書。
數年薨,追贈特進,謚曰康侯。子成左中郎將,逢及隗并為三公。太常胡廣為太尉,太僕黃瓊為司徒。

太尉の袁湯は、致仕している。袁湯は、あざなを仲河。はじめ陳留太守となる。敘舊を褒善し、風俗を勸めた。かつて袁湯は言った。「孔子、伯夷、叔斉は、西山の餓夫にすぎない。柳下恵(孔子の弟子)は、東國の黜臣である。しかし、彼らの名声が、ほろびないのは、篇籍が書き残してくれたからである」と。
〔『論語』はいう。公冶長(孔子の弟子)は、孔子に言った。「伯夷と叔齊は、旧悪をうらまず。これを用いることが、まれであることを、うらむ」と。また衛の霊公は、孔子に言った。「臧文仲(斉の宰相)は、高位をぬすむものか。臧文仲は、柳下惠の賢さを知り、ともに立たない。ゆえに臧文仲は、高位をぬすんでいない」と〕

注釈にある「論語公冶長孔子曰」の構文がわからん。「孔子に言った」でいいのか。
どれだけ立派なおこないをしても、社会的に失敗した人は、忘れられてしまう。その立派さを伝えるのは、記録の役目ですよと。固有名詞のかかえる故事について、ちゃんと追いきれていないが、袁湯の論旨だけは、わかった。

袁湯は、戸曹吏に命じて、舊聞を追錄させた。『耆舊傳』にまとめた。〔『隋書』經籍志はいう。後漢の議郎・圈稱は、『陳留耆舊傳』を撰した。後漢のとき、地方にある耆舊傳を撰述して、まとめることがはやった。圈稱がつくった本と、袁湯が作成を命じた本が、おなじであるか、詳らかでない〕

袁湯が、陳留の旧聞をまとめた。フィールド・ワークさせた。知らなかった。

数年して、袁湯は薨じた。特進を追贈され、康侯と謚られた。子の袁成は、左中郎將となる。弟の袁逢と袁隗は、どちらも三公となった。太常の胡広が、太尉となる。太僕の黄瓊が、司徒となる。

この153年、袁湯が太尉をやめたから、この記事がある。
袁湯の没年が、范曄では、よくわからない。いま『後漢紀』では、153年から「数年」で死ぬ。すくなくとも梁冀が失脚するとき、袁湯はもう死んでいたんだろう。


154年、潁川の鍾覲が、李膺に説いた処世術

二年(甲午、一五四)正月甲午,大赦天下。 二月,初聽刺史、二千石三年喪〔一〕。〔一〕按安帝元初三年初聽行三年喪,建光元年復斷之。此當作「 復聽」。范書及通鑑即作「復聽」。袁紀作「初」誤。
癸卯,京師地震。詔公卿舉賢良方正、能直言極諫者各一人。 潁川荀淑對策譏切貴幸,為梁冀所忌,出為朗陵侯相,吏民敬愛,稱為神君焉。淑字季和,棄官隱居,以壽終。

永興二年(154)、正月甲午、天下を大赦した。
2月、はじめて刺史と二千石に、3年喪をゆるした。〔安帝の元初三年に、はじめて3年喪をゆるした。建光元年、ふたたび禁じた。ここでは「ふたたび、ゆるした」とすべきだ。范曄と司馬光は、「ふたたび、ゆるした」とする。袁宏が「はじめて」と書いたのは、誤りである〕
2月癸卯、京師が地震した。公卿に詔して、賢良方正な人材、直言極諫できる人材を、1人ずつ挙げさせた。
潁川の荀淑は対策して、貴幸を譏切した。荀淑は梁冀に忌まれ、洛陽から出されて、朗陵侯相となる。吏民は、荀淑を敬愛し、神君とよぶ。荀淑は、あざなを季和という。棄官して隱居し、寿命で死んだ。

桓帝は「ありのままに意見を言え」という。それにしたがうと、梁冀にきらわれる。納得、いかんなあ。荀淑と梁冀が対立した、というのは、チェックしておきたい。


是時潁川鍾皓字季明,以德行稱,官至林慮長。初,皓為本郡功曹,西門亭長陳寔未知名,皓獨敬異焉。皓初辟公府,太守問:「有誰可代君者?」皓曰:「明府必欲得其人,西門亭長陳寔可也。」自是名重海內。寔曰:「鍾君似不察人,不知何獨識我?」

ときに潁川の鍾皓は、あざなを季明。德行を稱された。林慮長にまでなる。はじめ鍾晧は、潁川の功曹となった。西門亭長の陳寔は、いまだ名を知られないが、鍾晧だけは陳寔を敬異した。はじめて鍾晧が、三公府に辟された。潁川太守は、鍾晧に「鍾晧に代わるのは、だれか」と聞いた。鍾晧は言った。「西門亭長の陳寔です」と。これより陳寔は、名が海內に重くなった。陳寔は言った。「鍾晧は、人材を知らないようだ。だが、なぜ私なんかを、知っていたのだろうか」と。

潁川李膺嘗歎曰:「荀君清識難尚,鍾君至德可師。」皓之嫂,膺之姑也。有子曰覲〔一〕,與膺同年,而並有令名。覲為人好學慕古,有進退之行。膺祖太尉修常言:「覲似我家性,國有道不廢,國無道免於刑戮者也。」復以膺妹妻之。覲屢被辟命,未嘗屈就。
〔一〕范書鍾皓傳「覲」作「瑾」。而三國志鍾繇傳注引先賢行狀,與袁紀同。

潁川の李膺は、かつて歎じた。「荀淑は、清識で尚びがたい。鍾晧は、徳があるから師とすべきだ」と。鍾晧のあによめは、李膺のおばだ。子がいて、鍾覲という。李膺と同年で、どちらも令名あり。〔范曄の鍾晧伝では「鍾瑾」とする。陳寿の鍾繇伝にひく先賢行状は、袁宏とおなじで「鍾覲」とする〕
鍾覲は、好學慕古し、進退之行あり。李膺の祖父は、太尉の李修だ。つねに李修は言った。「鍾覲は、私の家の性質にちかい。国に道理があれば、廃されない。国に道理がなければ、刑戮をのがれる」と。李膺の妹を、鍾覲の妻とした。
鍾覲は、しばしば辟命されたが、屈就せず。李膺は鍾覲にいった。「孟軻は言った。人は、是非之心がなければ、人でないと。なぜ弟(鍾覲)は、白黒つけないのか」と。〔李膺が引用したのは、『孟子』公孫丑章句上である〕

「皂」は、くろいこと。「是非」と「皂白」は、おなじ意味だろう。李膺は鍾覲に、「お前は官位につかないから、人間じゃない」と言ったのだ。


膺謂覲曰:「孟軻以為『人無是非之心,非人也』〔二〕,弟於是何太無皂白邪?」覲嘗以膺言告人曰:「元禮祖〔公〕(父)在位,諸〔父〕(從)並盛〔三〕,又〔諱〕(鍾)公之甥〔四〕,故得然乎。國武子好招人過,以為忽本〔五〕。豈其得保身全家!」〔六〕
〔二〕見孟子公孫丑章句上。 〔三〕皆據裴注引先賢行狀改。 〔四〕據黃本改,子言其父,不當直呼其姓,蔣本誤改。 〔五〕國語周語曰:齊國佐對單襄公曰:「雖齊國子亦將興焉,立於淫亂之國,而好盡言以招人過,怨之本也。」後齊人殺國武子。又成公十七年左傳曰:齊慶克通于聲孟子,鮑牽見之,以告國武子。武子召慶克而責之。聲孟子怒,訴于靈公,靈公遂刖鮑牽而逐高無咎。又韋昭曰:「招,舉也。」范書作「昭」。 〔六〕先賢行狀及范書以上鍾皓之語。

かつて鍾覲は、李膺について、人に告げたことがあった。「李膺の祖父は三公で、従父たちも、高位につく。だから、鍾公のおい=私が、官位につかないのを、きらうのだ。〔鍾覲が、じぶんの父を「鍾公」と、姓で呼ぶのはおかしい〕
國武子は、人材を推挙しまくり、かえって怨みを買った。私・鍾覲まで官位についたら、李膺の家をたもてなくなる」と。

國武子について、注釈がある。はぶく。
鍾覲の言い分を、ぼくなりに書き直す。「李氏は、いまの朝廷で高位にのぼる。李氏の親戚・鍾氏まで高官にのぼったら、リスクヘッジができなくなる。いまの梁冀政権と、密着しすぎると、李氏も鍾氏も、とも倒れになるぞ」と。國武子は、反面教師とすべき前例。荀淑も鍾覲も、梁冀とキョリを置いている。この家が、曹操のしたで発展する。


袁宏曰:鍾生之言,君子之道。古之善人,內修諸己,躬自厚而薄責於人。至其通者,嘉善而矜不能;其狹者,正身而不及於物。若其立朝,為不得已而後明焉。事至而應之,非司人之短者也。如得其情,猶復託以藜蒸,使過而可得悔,失而自新之路長。君子道廣,而處身之塗全矣。末世陵遲,臧否聿興,執銓提衡,稱量天下之人,揚清激濁,繩墨四海之士,於是德不周而怨有餘。故君子道亢,而無必全之體;小人塗窮,而有害勝之心。風俗彫薄,大路險巇,其在斯矣。

袁宏はいう。鍾覲の発言は、ただしい。

六月乙丑,封乳母馬惠子初為列侯。 九月丁卯朔,日有蝕之。太尉胡廣免,司徒黃瓊為太尉,光祿勳尹頌為司徒。 閏月,蜀郡盜賊李伯自稱「太初皇帝」,伏誅。

154年6月乙丑、乳母・馬惠の子・馬初を、列侯とした。
9月丁卯ついたち、日食あり。太尉の胡廣を免じた。司徒の黃瓊を太尉とした。光祿勳の尹頌を、司徒とした。 閏月、蜀郡の盜賊・李伯が、みずから「太初皇帝」を称した。李伯は、誅に伏した。

155年、劉陶が上疏し、朱穆と李膺が復帰

元壽元年〔一〕(乙未、一五五)二月,司、冀民饑,人民相食。詔所在賑給各有差。
〔一〕范書、續漢書、通鑑均作「永壽」。又玄文先生李休碑(見蔡中郎集)、魯相韓敕造孔廟禮器碑、吉成侯州輔碑(以上見隸釋)亦均有「永壽」年號。袁紀作「元壽」,誤。 正月戊申,大赦天下。二月,司、冀民饑,人民相食。詔所在賑給各有差。

元壽元年(155)、正月戊申、天下を大赦した。
〔范曄、司馬彪、司馬光は、ひとしく「永壽」とする。また玄文先生の李休碑(蔡中郎集にある)、魯相の韓敕がつくった孔廟禮器碑、吉成侯の州輔碑(以上は、隸釋にある)も、ひとしく「永壽」とする。袁宏の「元壽」は、誤りである〕
2月、司隷と冀州で、民が饑えた。人民は相い食んだ。詔して、それぞれ賑給した。

時梁氏威勢傾天下,而上無繼嗣,災異數見。潁陰人劉陶上疏曰:「蓋人非天地無以寓生,天地非人無以為靈〔一〕。是故常非民不立,民非帝不寧。夫天地之與帝,帝之與民,猶〔首〕(手)之與足〔二〕,相須而行,混同一體,自然之勢也。臣竊觀之,今玄象錯度,日月不明,地裂川溢,妖祥並興,胤嗣仍絕,民率流亡。昔夏癸由此而廢,商辛以斯而喪〔三〕,若不悔寤,恐懼將無及矣。
〔一〕書泰誓曰:「惟天地萬物父母,惟人萬物之靈。」 〔二〕據黃本改,范書劉陶傳作「頭」。 〔三〕夏桀名履癸,商紂名辛。

ときに梁氏の威勢は、天下をかたむけた。桓帝には、繼嗣がない。しばしば災異があらわれた。潁陰の劉陶は、上疏した。「人は天地がなくては生きられない。天地は、人がなければ霊をなさない。ゆえに天地は、民がなければ立たない。民は、皇帝がないと、安寧でない。天地-皇帝-人民は、切りはなせない。いま日月が明らかでなく、地がさけ、川があふれるのは、桓帝に継嗣がないからだ。むかし夏の桀王や、商の紂王は、おなじようにほろびた」と。

伏惟陛下,年隆德茂,中天稱號〔一〕,襲常存之爵,修不易之制。目不視鳴條之事,耳不聞檀車之聲〔二〕,天災不卒有痛於肌膚,震蝕不卒有損於己身〔三〕。故蔑三光之錯,不畏上天之怒,怡民饑之憂,忽震烈之變,輕無嗣之禍,殆國家之命,非所以彰美祖業,克保天祉者也。當今忠諫者誅,諛進者賞,嘉言結於忠舌,國命在於讒口,擅閻樂以咸陽,授趙高以車府〔四〕。
〔一〕惠棟曰:「法言云:『漢興二百一十載而中天。』柳宗元云:『揚子極陰陽之數,此言知漢祚之方半耳。陶在靈帝而稱中天,非也。』愚謂中天,猶日之中天,言歷數方永耳。」惠說是,而柳所言「靈帝」乃「桓帝」之誤。 〔二〕胡三省曰:「余按大雅大明之詩曰:『牧野洋洋,檀車煌煌。維師尚父,時維鷹揚。涼彼武王,肆伐大商。』陶蓋用此檀車事,言桀紂貴為天子,得罪於天,流毒於民,而湯武伐之;亡國之事不接於帝之耳目,帝不知為戒也。」 〔三〕「損」原誤作「捐」,據范書逕改。 〔四〕李賢曰:「趙高為車府令,與婿咸陽令閻樂謀殺胡亥,事見史記也。」按謀誅胡亥時,趙高為丞相。其任車府令在始皇末年。因其轄符璽事,故能于始皇崩後,作偽書,賜死扶蘇,而立二世。袁紀此二語之意,乃言授惡人以要職,必至大禍也。

劉陶の上疏はつづく。「桓帝は、年齢も徳もたかい。中天に皇帝号を称す。
〔恵棟はいう。法言はいう。「漢室がおこって210年で、中天となる」と。柳宗元はいう。「陰陽の数がきわまり、これは漢室の天命が半分をすぎたことを指す。劉陶は桓帝のとき、中天というが、そうでない」と。中天とは、太陽が南中をすぎることでなく、太陽がたかく、歴数がながいことを指す。恵棟がただしい〕
桓帝の耳目は、王朝がほろびる警告に、気づかない。いま忠諫すると誅され、諛進すると賞される。秦朝は始皇帝の死後、趙高に2世皇帝をあやつられた。桓帝は、始皇帝をくりかえしそうだ」
〔李賢はいう。車府令の趙高は、むこ・咸陽令の閻樂とはかり、胡亥を殺そうとした。趙高は丞相となった。始皇帝の死後、詔書をいつわり、扶蘇を殺して、胡亥を2世皇帝とした。袁紀は、悪人を要職につけると、おおきな禍いになると示した〕

夫危非仁不扶,亂非智不救。故武丁得傅說,以消鼎雉之變〔五〕:周宣用山甫,以濟〔夷〕(幽)、厲之荒〔六〕。竊見冀州刺史朱穆、烏桓校尉李膺,皆履正清修,貞介絕俗。穆前在冀州,彈糾豪傑,埽滅饕惡,肅清萬里,不仁者遠,雖山甫不畏強禦,誠無以逾也。膺前後歷職,正身率下。及掌戎馬,鎮撫北疆,神武揚於朔州,彊胡懾於漠北。文既俎豆,武亦干戈,功遂身退,家無私積。斯則中興之良佐,國家之柱臣也。宜還本朝,夾輔王室,不合久屈間曹,委於草莽〔七〕。
〔五〕書高宗肜日曰:「高宗祭成湯,有飛雉升鼎耳而雊,祖己訓諸王,作高宗肜日。」疏曰:「祖己以為王有失德而致此祥,遂以道義訓王,勸王以脩德政。」高宗,武丁之尊號,其使百工求諸野,得傅說以為相,國勢日盛。 〔六〕夷王,厲王之父;宣王,厲王之子。史記正義引紀年曰:夷王三年,致諸侯,烹齊哀公于鼎。又厲王立,好利,暴虐侈傲,國人叛,厲王逃至彘而亡。事並見史記周本紀。幽王乃宣王之子,于文意不合,袁紀作「幽」,誤。 〔七〕胡三省曰:「前年朱穆得罪,李膺時亦免居綸氏。」

劉陶はつづく。「そもそも危は、仁でなければ、扶からない。乱は、智でなければ、救われない。武丁、周宣王の前例がある。ひそかに見るに、 冀州刺史の朱穆、烏桓校尉の李膺は、どちらも履正して清修する。さきに朱穆は冀州で、豪傑を彈糾し、饕惡を埽滅し、萬里を肅清した。李膺は、前後に歷職して、正身して率下した。戎馬をつかさどり、北疆を鎮撫した。李膺の神武は、朔州にあがる。彊胡は、漠北で李膺を懾した。朱穆と李膺は、中興の良佐であり、國家の柱臣である。朱穆と李膺を、おもく用いよ」
〔胡三省はいう。前年、朱穆は罪をえた。ときに李膺も免ぜられ、綸氏にいる〕

臣恐小人道長,遂成其敗,犯冒天顏,言誠非議,知必以身脂鼎鑊,為海內先笑,所學之事,將復何恨!不學鬼谷之於東齊,而習秦儀之於周魏〔一〕,賈王孫於蜀郡,交猗頓之貨殖,如此,亦可以示王室之爵,置天地之位矣。臣始悲天下之可悲,今天下亦悲臣之愚惑矣。」書奏,上善其言〔二〕。
〔一〕鬼谷子隱居深山,終身不仕。秦、蘇秦;儀,張儀。皆戰國時著名說士,各主合縱連橫,奔走于列國之間,以取卿相。 〔二〕范書作「書奏不省」。按永壽二年,拜膺為度遼將軍,穆為尚書,則袁紀是。

劉陶はつづく。「ばかな私の上疏ですが、どうか聞いてください」と。
桓帝は、劉陶の上疏を善しとした。
〔范曄は「上疏は、かえりみられず」とする。永寿二年を考えると、李膺は度遼将軍となり、朱穆は尚書となった。劉陶がみとめられたとする、袁紀がただしい〕

ぼくは思う。『後漢書』の特徴は、ながい上疏を読まして、最後に「不省」と、素っ気なく却下すること。徒労感がひとしお。後漢が、正しい発言がとおらなかった時代という、時代観をうえつけるための、レトリックだ。じつは後漢は、そんなわるい時代でない。


六月,匈奴叛,中郎將張奐擊降之。 太常韓縯為司空。

6月、匈奴がそむく。中郎将の張奐がくだす。太常の韓縯を、司徒とする。

156年、中常侍に三年喪をゆるす

二年(丙申、一五六) 春正月,初聽中常侍行三年喪〔一〕。
〔一〕范書桓帝紀作「中官」。李賢曰:「中官,常侍以下。」

永寿二年(156)春正月、はじめて中常侍に、三年喪をゆるす。
〔范曄の桓帝紀では「中官」とする。李賢はいう。「中官」とは、中常侍より以下

ぼくは思う。范曄のほうが、三年喪がゆるされた範囲が、ひろがる。えらい中常侍だけでなく、宦官みんなにゆるされたことになる。范曄が「後漢は、宦官がのさばった時代」だと、言いたいばかりに、脚色したのかも知れない。


七月,鮮卑寇雲中。 十月,京師地震〔一〕。
〔一〕范書及續漢五行志均作「十二月」,袁紀恐誤。

156年7月、鮮卑が雲中を寇した。10月、京師が地震した。
〔范曄と司馬彪「五行志」は、京師の地震を12月とする。おそらく袁紀の誤り〕

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