表紙 > 曹魏 > 『三国志』武帝紀を読んで、原点回帰する

07) 兗州牧を自称し、青州黄巾を降す

言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
今回は、東郡から兗州にすすみ、黄巾を降すまで。192年まで。

191年、東郡による

二年春,紹、馥遂立虞為帝,虞終不敢當。
夏四月,卓還長安。 秋七月,袁紹脅韓馥,取冀州。

初平二年(191)春、袁紹と韓馥は、ついに劉虞を皇帝にたてた。劉虞は、みとめず。

ぼくは思う。劉虞を立てたのは、こんなにピンポイントに、時期を特定できるのか。知らなかった。そして、このあたり、記事が過疎っているのは、「魏志」董卓伝に、本紀めいた内容を、移動したからですね。

夏4月、董卓は長安にもどる。
秋7月、袁紹は韓馥をおどし、冀州をとった。

くわしくは、「魏志」袁紹伝にある。ぼくは思う。袁紹が韓馥をおどしたのは、ともに劉虞を推戴して、ミスったあとだ。もし劉虞が皇帝になってくれたら、袁紹は冀州を取らなかったのか。袁紹が冀州を取った時点で、劉虞を皇帝にする話は、おわっている。さもなくば、協同者の韓馥と対立しない。袁紹が、うっすらと、みずから=袁氏の王朝を思い始めた時期を、ここに定めていいのかも。


黑山賊于毒、白繞、眭固等眭,申隨反。十餘萬眾略魏郡、東郡,王肱不能禦,太祖引兵入東郡,擊白繞于濮陽,破之。袁紹因表太祖為東郡太守,治東武陽。

黑山賊の于毒、白繞、眭固らは、10余万で、魏郡と東郡をせめた。

趙一清はいう。「申隨反」は、裴松之がつけた音の注釈だ。盧弼はいう。『後漢書』朱儁伝は、「畦固」と記す。
『後漢書』朱儁伝はいう。常山の張燕は、飛燕とよばれた。黒山を形成した。「魏志」巻8、張燕伝もおなじ。杜佑はいう。漢代、朝歌県の西北に、黒山がある。盧弼が『一統志』を見ると、黒山は河南にある。魏郡の郡治は、鄴県だ。まえに盧弼が注釈した。
ぼくは思う。冀州の中心地が、黒山に寇された。韓馥と袁紹の交替劇に、ぜったいに影響をあたえるはず。

東郡太守の王肱は、黒山を防げない。曹操が東郡に入り、濮陽で白繞をやぶった。袁紹は、曹操を東郡太守とした。曹操は、東武陽で東郡をおさめた。

『郡国志』はいう。兗州の東郡、東武陽である。銭大昭はいう。東郡のもとの郡治は、濮陽である。曹操が、東武陽にうつした。臧洪が東郡太守になったとき、曹操とおなじ、東武陽で治めた。
ぼくは思う。曹操が郡治を変えたなら、理由がある。濮陽じゃ治めにくく、東武陽だと治めやすい理由はなにか。考えてみたい。


192年春、黒山と匈奴とたたかう

三年春,太祖軍頓丘,毒等攻東武陽。太祖乃引兵西入山,攻毒等本屯。毒聞之,棄武陽還。太祖要擊眭固,

初平三年(192)春、曹操は頓丘をせめた。于毒らは、東武陽を攻めた。曹操は、兵をひいて西にゆき、于毒の本屯を攻めた。

頓丘は、盧弼が前に注釈した。
胡三省はいう。このとき于毒らは、魏郡をかすめ、西山に屯した。盧弼は考える。曹操は、西にゆき、黒山を攻めた。胡三省は、「西山」を地名だと思い、誤った。

于毒は、黒山が攻められたと聞き、東武陽を攻めるのをあきらめた。曹操は、眭固を撃った。

魏書曰:諸將皆以為當還自救。太祖曰:「孫臏救趙而攻魏,耿弇欲走西安攻臨菑。使賊聞我西而還,武陽自解也;不還,我能敗其本屯,虜不能拔武陽必矣。」遂乃行。

『魏書』はいう。曹操の諸将は、本拠の東武陽を救いたい。曹操は、孫臏と耿弇の前例を出し、適の本拠の黒山を攻めた。

『史記』孫武伝は、孫臏をのせる。『後漢書』耿弇伝は、耿弇をのせる。いまは、はぶきます。読めば分かるので。孫臏の「救趙而攻魏」は、兵法として有名。
趙一清はいう。東武陽は、魏代に陽平郡に属した。拓抜魏のとき、東の1文字をとって「武陽」とした。陳寿のこの記述をうけて、「武陽」でもよくなったのだろう。


又擊匈奴於夫羅於內黃,皆大破之。

また、匈奴の於夫羅を、内黄で撃った。いずれも、大破した。

胡三省はいう。内黄県は、魏郡に属す。陳留に「外黄」県があるから、対比して「内黄」県という。何焯はいう。烏巣のとき、曹操は袁紹を謀略でやぶった。「兵は、彼己をどちらも知ることを貴ぶ」のだ。ぼくは思う。何焯の注釈は、曹操をほめたもの。


魏書曰:於夫羅者,南單于子也。中平中,發匈奴兵,於夫羅率以助漢。會本國反,殺南單于,於夫羅遂將其眾留中國。因天下撓亂,與西河白波賊合,破太原、河內,抄略諸郡為寇。

『魏書』はいう。於夫羅は、南單于の子だ。

潘眉はいう。於夫羅の父は、南単于の羌渠だ。『晋書』劉元海伝にみえる。『後漢書』南匈奴伝はいう。羌渠は単于を10年やり、於夫羅が立ったと。盧弼は考える。章懐注はいう。於夫羅は、劉元海の祖父である。劉元海は、晋を乱しはじめた。ぼくは補う。劉淵のことで、じっしつ西晋を滅ぼした。子の代に、洛陽を陥落させた。
『晋書』から劉元海伝を訳し、西晋から自立する

匈奴の本国がそむき、羌渠単于を殺した。於夫羅は、中国に入る。天下が乱れると、於夫羅は西河で白波とあわさる。太原、河内をおかした。

章懐注はいう。薛ケイの書がいう。郭泰らは、西河で白波をおこした。白波賊とよばれた。恵棟はいう。西河は、洛陽から北に1200里だ。『資治通鑑』に胡三省は注釈する。河南府にある、西河とは別である。ぼくは思う。郭泰ってダレ?
『郡国志』はいう。太原は、郡治が晋陽だ。河内は、盧弼が前に注釈した。


夏四月,司徒王允與呂布共殺卓。卓將李傕、郭汜等殺允攻布,布敗,東出武關。傕等擅朝政。

192年夏4月、司徒の王允と呂布は、董卓を殺した。李傕と郭汜らは、王允を殺した。呂布は東へゆき、武關を出た。李傕らが、朝政をにぎる。

武関は、盧弼が前に注釈した。董卓の死は、くわしくは董卓伝にある。
ぼくは思う。袁紹は、長安の情勢を、まったく見なくなった。独自の領土を、後漢から切り取り始めた。曹操もまた、おなじである。しばらく曹操は、献帝と関係ない生活をする。だから、せっかくの本紀なのに、献帝のことは、サッパリ書いていない。董卓伝に移された。
っていうか。陳寿が武帝紀に長安の様子を書かず、董卓伝に本紀っぽい内容を移したことは、何を意味するか。ぼくは思う。曹操が献帝を奉戴する正統性を、かならずしも強調しなかったことになる。事実、曹操は献帝と関係ないところで、戦闘に熱中しただろう。だが、事実と史書はベツモノだ。ほんとうに曹魏の正統性を言いたければ、ムリにでも、結びつけることは可能だ。少なくとも、董卓伝に記述を移したりしない。


青州の黄巾

青州黃巾眾百萬入兗州,殺任城相鄭遂,轉入東平。劉岱欲擊之,鮑信諫曰:「今賊眾百萬,百姓皆震恐,士卒無鬥志,不可敵也。觀賊眾群輩相隨,軍無輜重,唯以鈔略為資,今不若畜士眾之力,先為固守。彼欲戰不得,攻又不能,其勢必離散,後選精銳,據其要害,擊之可破也。」岱不從,遂與戰,果為所殺。

青州黄巾100万が、兗州に入る。任城相の鄭遂を殺した。東平に入る。劉岱は、黄巾を撃ちたい。鮑信がいさめた。「いま黄巾は強い。黄巾が散ってから、撃てばいい」と。劉岱は鮑信にしたがわず、戦死した。

何焯はいう。光武帝は銅馬を、鄴県で撃った。光武帝は守りを固めて、銅馬の糧道をきった。1ヶ月余で、銅馬は食糧がつきて、逃げた。光武帝は、ここを撃った。劉岱は、光武帝を参考にすべきだ。ぼくは補う。つまり劉岱は、鮑信の言うとおり、攻めなければ良かったと。


世語曰:岱既死,陳宮謂太祖曰:「州今無主,而王命斷絕,宮請說州中,明府尋往牧之,資之以收天下,此霸王之業也。」宮說別駕、治中曰:「今天下分裂而州無主;曹東郡,命世之才也,若迎以牧州,必寧生民。」鮑信等亦謂之然。

『世語』はいう。陳宮は、別駕や治中を説得して、曹操をまねいた。鮑信らは、陳宮に賛成した。

陳宮は、東郡の東武陽の人だ。「魏志」呂布伝と、そこにひく魚氏『典略』にみえる。『後漢書』呂布伝にもある。
ぼくは思う。陳寿は、東武陽の人。曹操の居場所、ドマンナカだ。曹操が東武陽にきて、知り合ったか。陳宮の、地元に対する規制力を頼ったのか。とにかく、曹操に地盤をあたえる、最重要人物である。曹操の上司・袁紹ですら、まだ冀州の獲得がおぼつかないから、曹操は自前で経営しなければならない。陳宮が不可欠だ。
盧弼は、別駕と治中の官位を注釈する。はぶく。


信乃與州吏萬潛等至東郡迎太祖領兗州牧。遂進兵擊黃巾于壽張東。信力戰鬥死,僅而破之。

鮑信は、州吏の萬潛らとともに、東郡へ曹操を迎えにゆく。曹操を兗州牧とした。

『後漢書』袁紹伝はいう。建安元年、袁紹は上書した。「黄巾10万が、青州と兗州を焼いた。黒山の張楊が、冀城をおかした。私(袁紹)は承制し、議郎の曹操を兗州牧とした」と。曹操は兗州牧となったが、陳宮や鮑信に推戴されただけだ。朝廷の命令でない。盧弼が『後漢書』呂布伝にひく『典略』を見るに。金尚は、献帝のはじめ、兗州刺史となった。すでに曹操が兗州にいたから、金尚は袁術をたよった。群雄が興りはじめ、朝廷の命令があっても、兗州に入れない。
また盧弼は考える。袁紹伝は「10万」というが、武帝紀で黄巾は100万だ。どちらが正しいか。曹操が降したのが30余万だから、武帝紀の100万が正しい。ぼくは思う。30余万だって、誇張かも知れない。わからないぞ。

曹操は、黄巾を壽張(東平)の東で撃った。鮑信は戦死した。ぎりぎりで、曹操は黄巾を破った。

鮑信は、子の鮑勛伝にある。っていうか、この注釈、何回目?


魏書曰:太祖將步騎千餘人,行視戰地,卒抵賊營,戰不利,死者數百人,引還。賊尋前進。黃巾為賊久,數乘勝,兵皆精悍。太祖舊兵少,新兵不習練,舉軍皆懼。太祖被甲嬰胄,親巡將士,明勸賞罰,眾乃複奮,承間討擊,賊稍折退。賊乃移書太祖曰:「昔在濟南,毀壞神壇,其道乃與中黃太乙同,似若知道,今更迷惑。漢行已盡,黃家當立。天之大運,非君才力所能存也。」太祖見檄書,呵罵之,數開示降路;遂設奇伏,晝夜會戰,戰輒禽獲,賊乃退走。

『魏書』はいう。曹操は、新兵ばかりで、訓練が充分でない。黄巾は、曹操に言った。「むかし曹操は、済南相のとき、神壇をこわした。曹操のやりかたは、中黃太乙とおなじだ」と。

「乙」を「一」とする版本がある。潘眉はいう。「太乙」とは、天の貴神のこと。張角は、みずから黄天を号した。中黄太乙は、黄巾の美号だ。

曹操は、伏兵して、黄巾を負かした。

購求信喪不得,眾乃刻木如信形狀,祭而哭焉。追黃巾至濟北。乞降。冬,受降卒三十餘萬,男女百餘萬口,收其精銳者,號為青州兵。

曹操は、鮑信の死体を見つけられない。木像に鮑信をきざんだ。黄巾を済北におう。192年冬、黄巾30余万の降伏を受け入れた。男女100余万口。精鋭をぬき、青州兵をつくった。

何焯はいう。「魏武の強きこと、これより始まるなり」と。


二袁の戦いへの予告編

袁術與紹有隙,術求援於公孫瓚,瓚使劉備屯高唐,單經屯平原,陶謙屯發幹,以逼紹。太祖與紹會擊,皆破之。

袁術と袁紹は、仲がわるい。袁術は、公孫瓚に救いをもとめた。公孫瓚は、劉備を高唐におき、單經を平原におき、陶謙を發幹におく。公孫瓚は、袁術にせまった。

『郡国志』はいう。青州の平原に、高唐がある。兗州の東郡に、発干がある。劉備は、さきに高唐令、平原令となり、のちに平原相になった。「蜀志」先主伝にある。
ぼくは補う。初期の劉備の官位は、公孫瓚に由来する。後漢は、関係ない。公孫瓚が、袁術を助けるためにつかった武人が、劉備である。まだ兗州が、袁紹や曹操に帰属すると、決まったわけじゃない。公孫瓚と袁術に、勝機はまだまだある。とりあえず二袁の対立は、兗州をめぐって激化し、5年くらい収まらない。
陶謙が、公孫瓚の一部将のように書かれる。方詩銘氏を翻訳したとき、出てきた。
方詩銘氏の曹操論「曹操は兗州に拠る」等を翻訳する

曹操と袁紹は、公孫瓚がおくった人たちを、すべて破った。

何焯はいう。曹操は、外では袁紹のために戦った。だが実は、兗州を保護するために戦った。盧弼は考える。このとき曹操は、毛玠の提案をみとめ、長安に使者した。董昭、鍾繇も、曹操と献帝をむすんだ。毛玠、董昭、鍾繇伝にくわしい。
ぼくは思う。曹操と献帝のつながりについて、2つの問題があると思う。時期と目的だ。
まず時期は、「曹魏の公式見解」としては、献帝との接点は、なるだけ早いほうがいい。ごくごく初期から、曹操は一貫して、献帝を奉戴しようとしたよ、と言いたい。禅譲を正当化するために。しかし、ぼくの印象では、毛玠、董昭、鍾繇らが、曹操と献帝を結びつけた時期は、史料でよく分からなかったのでは。後日、確認します。
つぎに意図だ。当時の地方官は、李傕から州牧にしてもらう。劉表や陶謙など。袁術も。べつに、献帝のパトロンになりたくて、李傕に使者するのではない。実力による州郡の支配に、ハクを付けたいのだ。もし曹操が献帝に使者したからと言って、曹操が献帝を保護する伏線にならない。保護する意図をしめさない。曹操の胸の底は、袁紹のやりかたに違和感をもつが、曹操の軍事行動は、袁紹の傘下だ。いくら曹操が献帝に使者したって、袁紹を支持しているというカタチは、揺るがない。なお、ここでぼくが言った袁紹のやりかたとは、劉虞に皇帝を断られたので、逆ギレして冀州で自立するもの。後漢を見棄てるというもの。


次回、曹操と袁術が、兗州をめぐって戦う。武帝紀、最大の山場?110222

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