表紙 > 曹魏 > 『三国志』武帝紀を読んで、原点回帰する

06) 徐栄に敗れ、揚州で募兵

言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
今回は、袁術と曹洪について、発見があって楽しいです。

徐栄にやぶれる

二月,卓聞兵起,乃徙天子都長安。卓留屯洛陽,遂焚宮室。是時紹屯河內,邈、岱、瑁、遺屯酸棗,術屯南陽,伷屯潁川,馥在鄴。卓兵強,紹等莫敢先進。

初平元年(190)2月、董卓は関東の起兵を聞き、天子を長安にうつした。董卓は洛陽にとどまり、洛陽の宮室をやいた。

ぼくは思う。董卓は、真っ先に逃げなかった。天子だけ移動させて、自分は洛陽にいる。ちゃんと、責任をとって、董卓が落ち着いた行動をとっていることに注意。

このとき袁紹は、河内にいた。張邈、劉岱、橋瑁、袁遺は、酸棗にいた。

『郡国志』はいう。酸棗は、兗州の陳留だ。『後漢書』袁紹伝はいう。艶書と王匡は、河内にいた。孔伷は、潁川にいた。韓馥は、鄴県にいた。のこりは、みな酸棗にいたと。ここから、曹操と鮑信が、酸棗にいたことが分かる。酸棗は、洛陽を攻めるのに都合がいい証拠だ。ぼくは思う。陳留と洛陽の近さは、196年、曹操が献帝を奉戴するとき、効いてくる。

袁術は南陽にいた。孔伷は潁川にいた。韓馥は、鄴県にいた。

『資治通鑑』は、袁術が魯陽に屯したという。胡三省はいう。魯陽は、南陽である。ぼくは補う。魯陽は、南陽の郡治よりも北で、洛陽に近い。袁術の居場所を、ただ「南陽」というより、「魯陽」とくわしく書いたほうが、袁術の董卓を攻撃する意思が見える。さらに、袁術が豫州を治めようとする意思も見える。
『郡国志』はいう。鄴県は、魏郡の郡治だ。盧弼は考える。袁紹は兵を進めて、諸郡の前=河内にいた。

董卓の兵は強い。袁紹らは、進めない。

太祖曰:「舉義兵以誅暴亂,大眾已合,諸君何疑?向使董卓聞山東兵起,倚王室之重,據二周之險,東向以臨天下;雖以無道行之,猶足為患。今焚燒宮室,劫遷天子,海內震動,不知所歸,此天亡之時也。一戰而天下定矣,不可失也。」遂引兵西,將據成皋。邈遣將衛茲分兵隨太祖。到滎陽汴水,遇卓將徐榮,與戰不利,士卒死傷甚多。太祖為流矢所中,所乘馬被創,從弟洪以馬與太祖,得夜遁去。榮見太祖所將兵少,力戰盡日,謂酸棗未易攻也,亦引兵還。

曹操は言った。「董卓は、二周の険に拠る。董卓を討て」と。

盧弼はいう。二周とは、東西の周である。『史記』周本紀はいう。西周とは、河南である。東周とは、鞏県である。『資治通鑑』は、「董卓は旧京に拠る」とする。陳寿の記述のほうが、明確である。

曹操は西へゆき、成皋に拠る。張邈は衛茲をつかわし、曹操に随わせた。曹操は、滎陽の汴水で、徐栄に敗れた。士卒がおおく死に、早々も矢に当たった。

『郡国志』はいう。滎陽は、河南尹である。盧弼は、滎陽の位置について、ながく注釈する。はぶく。徐栄とは、玄菟の人だ。董卓の中郎将になった。徐栄 は、公孫度伝にある。このとき、衛茲が死んだ。「魏志」衛シン伝にある。

従弟の曹真が、曹操に馬をゆずった。

盧弼は考える。「魏志」曹洪伝はいう。天下に曹洪がいなくても、曹操が必要だと。趙一清はいう。『王嘉拾遺記』はいう。曹洪は、曹操の従弟だ。曹洪は家産で、駿馬をそだてた。曹洪が曹操にゆずった馬は、「白鵠」という名前だ。足が速く、地に足がつかない。汴水を渡ったが、馬の足は濡れない。ときの人は「神駿」と言った。ぼくは思う。くだらねー。

徐栄は、酸棗を攻めにくいと思い、ひいた。

袁紹は攻めるな、袁術は攻めろ

太祖到酸棗,諸軍兵十餘萬,日置酒高會,不圖進取。太祖責讓之,因為謀曰:「諸君聽吾計,使勃海引河內之眾臨孟津,酸棗諸將守成皋,據敖倉,塞轘轅、太谷,全制其險;使袁將軍率南陽之軍軍丹、析,入武關,以震三輔:皆高壘深壁,勿與戰,益為疑兵,示天下形勢,以順誅逆,可立定也。今兵以義動,持疑而不進,失天下之望,竊為諸君恥之!」邈等不能用。

曹操は酸棗にきた。諸軍は10余万いるが、進まない。曹操は責めた。「渤海(袁紹)は、河内の軍をひきい、孟津(河内)にゆけ。酸棗の諸将は、成皋をまもり、敖倉(河南)に拠れ。轘轅と太谷をふさげ」と。

『史記』で、漢王・劉邦は、滎陽にいて、敖倉をとった。
「呉志」孫堅伝はいう。孫堅の軍は、大谷にすすんだ。洛陽から90里のところで、ふせいだ。何焯はいう。「太谷」は、「大谷」とすべきだ。盧弼はいう。霊帝の中平元年、八関都尉をおいた。轘轅と大谷もふくまれる。ぼくは補う。洛陽に入るための、重要なルートのひとつ。曹操と孫堅が、おなじルートから、洛陽を攻めようとしたのが、おもしろい。しかし、すぐ下で判明するが、これは曹操の発想でない。孫堅の実績を、史家がねじまげ、あたかも曹操が発案者であるかのように描いただけ。

曹操は言った。「袁将軍は、南陽の軍をひきい、丹析から武関にはいり、三輔を震わせろ」と。

胡三省はいう。「袁将軍」とは、袁術である。盧弼はいう。袁術が後将軍だから、曹操は袁術を「袁将軍」と呼んだ。趙一清はいう。袁術は南陽にいた。袁紹と仲がよくない。だから、河北の軍と、いっしょにいない。曹操は、袁紹の河北の軍と、袁術の南陽の軍を、あわせるハカリゴトをした。ぼくは思う。おもしろい。曹操の役割を過大評価すると、袁術まで、思いどおりに動かそうとする。プロデューサー気どり。
っていうか、離れている袁術は、どうやって曹操の「命令」を聞けばいい?
『郡国志』はいう。南陽郡の丹水は、もとは弘農郡に属した。だから、析県は、もとは弘農郡に属した。武関の西にある。『カン宇記』はいう。丹水は、漢代に、川の名前をとって、県名になった。
『史記』はいう。楚の襄王の元年、秦は兵を発して、武関を出て、析をとった。前漢は、析県をおいた。析水から、県名をとった。『戦国策』はいう。蘇秦は、楚の威王に言った。「秦の軍が、いちど武関を出れば、、」以下、はぶく。ぼくは思う。後漢でいう荊州の楚と、関中の秦が、しのぎを削った場所だと、分かりました。袁術は、このルートから、攻め入ろうとしている。きっと袁術は、『史記』や『戦国策』を読んだだろうなあ。ぼくも読まねば!

曹操は言った。「ほかの皆は、防壁にとじこもり、袁術の攻めを見てろ。董卓が滅びるのを見てろ」と。

胡三省はいう。曹操の計略は、ただ形勢を見ているだけ。戦闘を、メインで担当するのでない。何焯はいう。これは、項羽が河北で戦うとき、劉邦が西から関中に入った作戦と同じだ。董卓は強いから、勝てない。董卓と、戦ってはいけない。董卓にスキができるのを待てと。
ぼくは補う。何焯の比喩では、「曹操=劉邦、董卓=項羽」かな?董卓(項羽)が激戦しているうちに、曹操(劉邦)こっそり利益を得ようという思惑。しかしぼくは思う。楚漢戦争に、後漢末の地理を一致させると、「袁術=劉邦、袁紹=項羽」となる。袁紹(項羽)が河北でダラダラしているうちに、袁術(劉邦)が関中に入って、董卓(秦帝)を降すという構図だ。こっちのほうが、テンションがあがる。楚漢戦争の、秦を倒すあたりの記事を、片っ端から読まねばならない。
盧弼は考える。曹操の作戦は、三面から、董卓を包囲する計略である。タイミング、地の利、兵の謀略の3つを、思いどおりにする。曹操が兵法を研究した成果である。曹操に、周公や管仲の志がないのが、惜しい。
ぼくは補う。盧弼は、曹操の子が「禅譲」を受けてしまったことを、惜しんでいる。惜しみ(文句をつけ)つつも盧弼は、曹操の兵法をほめている。ぼくは、これに反対する。曹操は、何もしていない。曹操の兵法など、関係ない。
事実は、どんなか。ただ、袁紹が河内で兵を動かさず、袁術が兵(孫堅)を動かしただけだ。この結果を、あたかも曹操がプロデュースしたかのように脚色すると、上のセリフができる。曹操が何も言わなくても、袁紹は董卓を攻めない曹操のセリフの前後で、袁紹の行動は変わっていない。また、曹操が何も言わなくても、袁術は董卓を攻める曹操のセリフの前後で、袁術の行動は変わっていない。ほら見たことか。笑
『蒼天航路』では、曹操が「私1人が董卓に突撃するから、みんなの兵を私にくれ。もし私に手柄を取らせたくなければ、突撃の役目を代わってあげてよい」と、大見得を切った。うまい換骨奪胎である。1人で董卓を攻めたのは、袁術だ。それも袁術は、袁紹たちから兵を借りることなく、董卓を攻めた、と。いかん、悪いクセが、、

張邈は、曹操を用いない。

蛇足な注釈が長すぎて、原文がスクロールしないと見えない。すみません。


揚州への募兵

太祖兵少,乃與夏侯惇等詣揚州募兵,刺史陳溫、丹楊太守周昕與兵四千餘人。還到龍亢,士卒多叛。至銍、建平,複收兵得千餘人,進屯河內。

曹操は、兵が少ない。夏侯惇とともに、揚州で募兵した。揚州刺史の陳温、丹楊太守の周昕は、曹操に4千余人をあたえた。

夏侯惇は、ときに奮武将軍司馬だ。夏侯惇伝にある。
陳温のことは、「魏志」袁術伝と、その注釈にある。陳温は、袁術に殺された。ここにある陳温は、陳泰の弟とは別人である。
『郡国志』はいう。揚州の丹楊は、郡治が宛陵だ。袁術は、呉景を丹楊太守として、周昕を討たせた。「呉志」妃ヒン伝はいう。王朗は、周昕と孫策を戦わせた。孫策は、周昕を斬った。「呉志」宗室伝に、周昕のことがある。孫静伝にひく『会稽典録』である。
ぼくは思う。「呉志」を読め、という盧弼の注釈に、胸が高鳴る。ところで、王朗が仕向けて、周昕と孫策が戦ったんだっけ?まだまだ、知らないことが多い。「呉志」を読みこもう。あと、王朗伝も。読みたい史料が尽きないなあ。

曹操は、龍亢(沛国)にもどる。士卒が、曹操に反した。

曹洪伝はいう。揚州刺史の陳温は、もとより曹洪と仲がよい。曹洪は、家兵1千余人をひきいて、陳温をたよる。曹洪は募兵して、廬江で2千人をえた。曹洪は東へゆき、丹楊で数千人をえた。曹洪は、曹操と龍亢で合わさった。
ぼくは思う。曹洪の存在感が、とてもデカい。徐栄に負けたときだって、もしかしたら、曹洪の軍が、曹操の主力だったかも知れない。っていうか、徐栄に負け、生死の瀬戸際になって初めて、曹氏の族長が曹操に決まったようであり。曹洪でなく、曹操をトップに立てましょうと。曹洪と、揚州刺史の陳温の人脈、いろいろ妄想できる。沛国は、揚州に近い。人脈の形成が可能である。
っていうか、龍亢で曹操に叛いた人たちって、曹洪が連れてきた兵じゃないのか?曹氏の族長を、曹操と曹洪のどちらがやるのか、決まっておらず、指揮命令の統制がよわいとか。そういえば、曹丕が曹洪を嫌っていたが、ただの性格の不一致が原因なのか? 曹洪にイニシアティブを奪われるのを恐れて反発したとか。曹洪は、べつに「内職」で「蓄財」した「ケチ」でない。曹操を圧倒するほどの、経済基盤を持っていたとか。妄想がすぎました。

曹操は、銍県(沛国)、建平(沛国)にきた。ふたたび1千余人をえて、曹操は河内にすすむ。

胡三省はいう。曹操は、袁紹にしたがった。
ぼくは思う。胡三省に、断固、賛成だ(ダジャレ)。曹操が揚州に行ったのは、兵力あつめ。董卓と決戦のときかも知れないのに、曹操は戦線を離脱するのは、なぜか。雑用係だからだ。劉備が何進に命じられて、毋丘毅とともに揚州へ行ったのと、おなじ役目である。けっきょく、募兵は失敗した。使えねー、曹操。


魏書曰:兵謀叛,夜燒太祖帳,太祖手劍殺數十人,餘皆披靡,乃得出營;其不叛者五百餘人。

兵が反した。曹操は、命からがら、5百人だけ連れて逃げた。

関東の分散

劉岱與橋瑁相惡,岱殺瑁,以王肱領東郡太守。袁紹與韓馥謀立幽州牧劉虞為帝,太祖拒之。

劉岱と橋瑁は、にくみあう。劉岱は、橋瑁を殺した。王肱が、東郡太守を領す。

ぼくは思う。盧弼は、王肱に注釈しない。ざんねん!

袁紹と韓馥は、幽州牧の劉虞を、皇帝にたてたい。曹操は、袁紹と韓馥をこばむ。

幽州の広陽郡にある薊県が、幽州の州治である。もとは、燕国だ。劉虞のことは、「魏志」公孫瓚伝にある。ぼくは思う。韓馥は、劉虞を立てることについては、袁紹に賛成である。劉虞と袁紹の一致。見落としやすいポイントだと思います。
武帝紀を、袁紹が死ぬまで読み終えたら、つぎは公孫瓚伝をやるつもりです。公孫瓚と劉虞について、考えてみる予定です。


魏書載太祖答紹曰:「董卓之罪,暴于四海,吾等合大眾、興義兵而遠近莫不回應,此以義動故也。今幼主微弱,制于奸臣,未有昌邑亡國之釁,而一旦改易,天下其孰安之?諸君北面,我自西向。」

『魏書』は、曹操から袁紹への返答を載せる。「劉協は、昌邑王のようなミスがない。諸君が北(幽州)を見ても、私は西(長安)を見る」と。

紹又嘗得一玉印,於太祖坐中舉向其肘,太祖由是笑而惡焉。

かつて袁紹は、1つ玉印をえた。座中で玉印を、曹操にむけて挙げた。曹操は笑ったが、袁紹をにくんだ。

趙一清はいう。『後漢書』徐璆伝の注釈はいう。玉印を挙げたのは、袁術である。孫堅の妻をうばい、玉印を手にいれたのだ。『魏書』(このページの、すぐ下で訳します)で、曹操が「お前を許さない」と言ったのは、袁術に対してである。袁紹と袁術を、まちがえたのだ。陳寿はバカだなあと。
沈欽韓はいう。これは袁術でなく、袁紹の話である。ただし袁紹が董卓を攻めて、玉印を得たかどうか、定かでないが(可能性はゼロでない)。また袁術が、孫堅から玉璽をうばったのは、孫堅の死後、淮南にいるときだ。なぜ淮南にいる袁術が、曹操にむけて玉印を挙げられるか。袁紹と袁術の話が、ゴチャゴチャに混ざったのだ。
盧弼は考える。初平元年、袁術は南陽にいる。曹操と、離れている。袁術が孫堅の妻をつかまえたのは、『後漢書』袁術伝で、初平4年だ。このとき袁術は、曹操と匡亭で戦う。なぜ袁術が、曹操に玉印を見せるものか。『後漢書』徐璆伝の章懐注は、誤って衛宏の意見をひいた。章懐注にひきずられて、趙一清は誤った。けっきょく陳寿が正しい。盧弼はいう。衛宏は、武帝紀の建安十三年の注釈にある。
ぼくは補う。沈欽韓は袁術について、年号(時期)をまちがえた。話が、意味不明になっている。年号(時期)の誤りは、盧弼が正しているから、あえて触れない。ますます話がこじれる。年号(時期)のミスが、問題にならないように、ぼかして訳しました。
ぼくは思う。玉印や玉璽という、特別なアイテムには、逸話がつきもの。そして、真偽の検証が、とても難しい。戦闘の勝敗なら、のちのちまで、影響をひきずる。巻き込まれる人がおおい。情況証拠があつまる。だが、1つの小物は、影響をひきずらない。っていうか、このように検証が難しいから、小物アイテムのエピソードが、たくさん創作されるのだろうなあ。政敵に、論破されることがないからね。「このハコのなかに、玉璽がありますよ。見せないけどね!」と、言い張ればよい。小物アイテムは、利用する人にとってはメリットが大きいが、史料を読む後世人にとっては、デメリットばかりである。


魏書曰:太祖大笑曰:「吾不聽汝也。」紹複使人說太祖曰:「今袁公勢盛兵強,二子已長,天下群英,孰逾於此?」太祖不應。由是益不直紹,圖誅滅之。

『魏書』はいう。曹操は大笑した。「私は、袁紹をゆるさない」と。
ふたたび袁紹は、人をおくり、曹操を説得した。「袁公は、つよい。袁公の2子は成長した。天下の群英に、袁公にかなう人がいますか」と。曹操は、袁紹に応じない。ますます曹操は、袁紹を殺そうと思った。

何焯はいう。このとき袁紹は、渤海の1郡しかない。韓馥から、冀州をゆずられない。それほど強くない。ぼくは思う。何焯の言うとおりだ。この『魏書』の記述は、のちに劉協を奉戴した結果から、捏造したエピソード。明白である。曹操の実態は、揚州で募兵にして、袁紹の傘下に、舞い戻ってきただけ。記録にないが、曹操は、劉虞を支持したのかも。
例え話をする。電機メーカーの新入社員は、自分で開発・製造・販売をするわけじゃない。だが、いちおう電機製品を、世間に提供する仕事をしている。もしこの新入社員が、途中で転向して、「電機製品は、地球環境の敵だ。電機製品をつかうな」と声高に運動を始めたら(なんだそりゃ)、新入社員のときに、電機製品に加担した過去は、意図的に消し去られるだろう。 曹操が劉虞を支持するとは、これと同じである。
なお、この架空の史料に、ぼくがムリに注釈を試みるなら。2子とは、袁譚と袁煕である。袁尚は、まだかな。袁尚は、「曹操が徐州に劉備を攻めたとき、病気になった幼子」に該当するほど、若くはないだろうが。兄弟が充実していることが、袁紹の死後に、河北の袁氏が敗北する原因である。このエピソード作家は、袁紹の末路まで織りこんで、たくみな皮肉を著したようです。うまい。


次回、兗州のお話です。もりあがってきました!100221

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