表紙 > 曹魏 > 『三国志』武帝紀を読んで、原点回帰する

05) 虎牢関の東が、起兵する

言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
今回は、董卓に起兵した人たちの紹介でおわりです。笑

筆頭の袁術、袁紹を制止できる韓馥

初平元年春正月,後將軍袁術、冀州牧韓馥、
初平元年春正月、後将軍の袁術と、

『続漢書』百官志はいう。前後左右シュ緒軍があった。蔡質『漢儀』はいう。左右前後の4つの将軍は、みな金紫で、上卿についだ。京師の兵を、典じた。四夷をまもった。袁術伝は、あとにある。
ぼくは補う。董卓は、前将軍だっけ? 袁術と董卓は、おなじ位のたかさ。一時的に。

冀州牧の韓馥が起兵した。

『後漢書』霊帝紀はいう。中平五年、刺史を牧に改めた。劉焉伝はいう。刺史じゃ軽いから、牧伯にした。


英雄記曰:馥字文節,潁川人。為禦史中丞。董卓舉為冀州牧。于時冀州民人殷盛,兵糧優足。袁紹之在勃海,馥恐其興兵,遣數部從事守之,不得動搖。東郡太守橋瑁詐作京師三公移書與州郡,陳卓罪惡,雲「見逼迫,無以自救,企望義兵,解國患難。」馥得移,請諸從事問曰:「今當助袁氏邪,助董卓邪?」

『英雄記』はいう。

『隋書』経籍志はいう。『英雄記』は8巻、王粲が撰した。南朝梁に10巻あったが、減った。『唐書』経籍志はいう。『英雄記』は10巻。王粲らが撰した。ヨウ振宗はいう。『郡国志』会稽郡は、その注釈に『英雄交争記』の初平3年の記事をひく。『英雄記』の本名は、『英雄交争記』である。のちの人は、書名を省略してよぶ。
ぼくは思う。『英雄記』は、同時代史料だ。だいたい、信じていいのでは?

韓馥は、潁川の人。禦史中丞となる。董卓は韓馥を、冀州牧とする。

『続漢書』百官志は、御史中丞をいう。御史大夫の丞だ。御史大夫は、司空に転じた。ゆえに、べつに御史台をおいた。のちに少府に属した。鮑勛伝にある。
「蜀志」許靖伝はいう。董卓は、尚書の韓馥を、冀州牧にした。侍中の劉岱を、兗州刺史とした。潁川の張咨を、南陽太守とした。陳留の孔伷を、豫州刺史とした。東郡の張邈を、陳留太守にした。ぼくは思う。なぜこれが、許靖伝に載るのか。必然性がないよなあ。

冀州殷盛で、兵糧がたっぷり。袁紹は、渤海(郡治は南皮)にいた。韓馥は、袁紹の起兵をおそれた。

『後漢書』袁紹伝はいう。建安元年、袁紹が過去を振り返っている記述がある。このときのシチュエイションを指す。盧弼はいう。このとき、起兵の言いだしっぺは、じつは臧洪だ。臧洪は、張邈の兄弟を説得した。劉岱、孔伷、橋瑁らとむすんで、酸棗の盟をはじめた。くわしくは臧洪伝にある。そして橋瑁は、州郡に文書をまわしたのだ

東郡太守の橋瑁は、いつわりに三公の文書をつくり、州郡にまわした。韓馥は文書をもらい、從事らに問うた。「董卓と袁紹、どちらを助けるべきか」と。

英雄記曰(つづき):治中從事劉子惠曰:「今興兵為國,何謂袁、董!」馥自知言短而有慚色。子惠複言:「兵者凶事,不可為首;今宜往視他州,有發動者,然後和之。冀州於他州不為弱也,他人功未有在冀州之右者也。」馥然之。馥乃作書與紹,道卓之惡,聽其舉兵。

『英雄記』はつづく。治中從事の劉子惠は言った。「国のために兵を起こす。袁紹か董卓かと、そういう疑問が出てくるじたい、おかしい」と。韓馥は言い返せず、はじた。劉子恵は言った。「冀州は、いちばん強い州だ」と。

『後漢書』袁紹伝は、治中の劉恵とする。
『後漢書』袁紹伝の章懐注は、『英雄記』をひく。その文をひいてくる。
英雄記曰:「劉子惠,中山人。兗州刺史劉岱與其書,道『卓無道,天下所共攻,死在旦暮,不足為憂。但卓死之後,當復回師討文節。擁強兵,何凶逆,寧可得置』。封書與馥,馥得此大懼,歸咎子惠,欲斬之。別駕從事耿武等排閤伏子惠上,願并見斬,得不死,作徒,被赭衣,埽除宮門外。」と。
劉子恵は、袁紹につうじて、董卓のつぎに、韓馥をつぶすつもりだ。別駕従事の耿武らが、劉子恵をたすけた。ぼくは思う。裴注よりもくわしい『英雄記』が、章懐注におちているのですね。『三国志集解』さまさま。

韓馥は劉子恵をみとめ、袁紹に手紙した。「袁紹が、董卓を討つために、兵をあげろ。これをゆるす」と。

『通鑑考異』はいう。『後漢書』にも『三国志』にも、この記事がある。しかしタイミングがちがう。『後漢書』は挙兵ののちで、『三国志』は、挙兵の前である。もし挙兵のあとなら、袁紹はすでに盟主である。なぜ韓馥が、袁紹の挙兵を禁じられるか。もし挙兵の前が、おそらく正しい。『資治通鑑』は、『三国志』にしたがう。
盧弼はいう。韓馥は、董卓のおかげで冀州牧となった。袁紹の渤海は、冀州に属す。ゆえに韓馥は、袁紹を制止することができた。韓馥の内には、三公からの文書(橋瑁の偽作)がある。韓馥の外には、州郡の蜂起がある。内外の情況をうけて、はじめて袁紹の挙兵を許したなら、韓馥は逢紀が言ったとおり、庸才である。
ぼくは思う。韓馥と袁紹の関係は、つきつめて考えたいところ。なぜ、韓馥の決断の時期が、史料によって一致しないかも、気になるところ。


弁舌をあきさせない孔伷

豫州刺史孔伷、

英雄記曰:伷字公緒,陳留人。張璠漢紀載鄭泰說卓雲:「孔公緒能清談高論,噓枯吹生。」

豫州刺史の孔伷が起兵した

『後漢書』章懐注は、『九州春秋』をひく。孔伷は、豫州刺史となった。これは、賈逵伝にある。呉増キンはいう。『宋書』はいう。漢代の豫州は、譙県が州治だ。魏代は、安成が州治だ。銭大昭はいう。『郡国志』によれば、豫州刺史の州治は、譙県だ。曹操が譙県をたて、州治を汝南の項県にあらためた。諸説は、別のタイミングの話をしている。
賈逵伝によると。曹丕が出征した。賈逵は、曹丕にしたがい、譙県にきた。ここで賈逵は、豫州刺史となった。魏代の州治が譙県となったのは、これがはじめてだ。曹叡が即位すると、豫州の軍は項県にいて、州治とした。安成が州治となったのは、正始や嘉平のころだ。ぼくは思う。よくわかりました!

『英雄記』はいう。孔融は、陳留の人だ。張璠『漢紀』はいう。鄭泰は董卓に、「孔伷は、枯木に花をさかせる」と吹きこんだ。

孔伷のところに、魯国の孔融の父・孔宙の注釈をつける非本がある。盧弼はいう。これは、誤りである。ちなみに孔宙は、「魏志」崔琰伝にひく『続漢書』にある。
ぼくは思う。孔伷も、いわゆる党人で、儒教を修めたのだろうね。ろくでもない、、李賢によれば、枯木に生命を吹き込むとは、抑揚をつけて談論することをいう。


劉繇の兄で、黄巾に殺される劉岱

兗州刺史劉岱、 岱,劉繇之兄,事見吳志。
兗州刺史の劉岱が起兵した。

『郡国志』はいう。山陽郡の昌邑が、兗州刺史の治所だ。馬興龍はいう。興平のとき、曹操は兗州牧となった。鄄城を州治とした。魏代に、兗州の州治は、鄄城からリン丘に移した。

裴注はいう。劉岱は、劉繇の兄だ。「呉志」にある。

『後漢書』劉寵伝は、劉岱と劉繇を載せる。初平3年、青州の黄巾に、劉岱は殺された。『後漢書』献帝紀で、劉岱は東平で死んだ。


何進がめした、泰山の弩将・王匡

河內太守王匡、

英雄記曰:匡字公節,泰山人。輕財好施,以任俠聞。辟大將軍何進府進符使,匡於徐州發強弩五百西詣京師。會進敗,匡還州裏。起家,拜河內太守。

河内(郡治は解県)太守の王匡が、起兵した。
『英雄記』はいう。王匡は泰山(郡治は奉高)の人だ。財を軽んじて、施した。任侠をもって聞こえた。何進にめされた。徐州の強弩500をつれて、洛陽にむかう。

財を軽んじたり、任侠だったり。袁紹の奔走の友につうじる。方詩銘氏が、言いまくっていたことだ。下のリンク参照。董卓に歯向かったのは、袁紹や王匡のように、後漢から半分はみだした人がおおいですね。もし後漢が、霊帝のもとで、ひとつにキレイにまとまっていたら。董卓が牛耳った瞬間に、後漢は滅びていましたよ。後漢の関東方面に、異分子がのこっていて、後漢は延命しました。
方詩銘氏の「世族、豪傑、遊侠 ― 袁紹的一個側面」を翻訳する
『後漢書』か神殿はいう。何進は、泰山の王匡と、東郡太守の橋瑁をめした。盧弼は考える。王匡がひきいたのは、泰山の兵だ。泰山は、徐州でなく兗州だ。裴松之がひいた『英雄記』は、誤りだ。
ぼくは思う。泰山は、徐州にくいこんでいる。べつに、徐州の兵を連れてくることは、不可能でない。「同郷の人でないと、兵がついてこない」なら、盧弼の言うとおり、兗州とすべきだが。そこまで厳密なもの?

何進がやぶれ、王匡は州里にひき返した。

「郷里」とする版本もある。盧弼は考える。『後漢書』袁安伝はいう。袁安は、州里で敬われたと。荀淑伝はいう。州里の人は、荀淑を知ったと。『九州春秋』で、韓遂は樊稠に「あなたは、州里の人だ」と言った。「魏志」呂布伝で、王允は呂布を州里の人とする。当時、郷里のことを、州里といった。誤りでない。

起家して、河内太守となった。

謝承後漢書曰:匡少與蔡邕善。其年為卓軍所敗,走還泰山,收集勁勇得數千人,欲與張邈合。匡先殺執金吾胡母班。班親屬不勝憤怒,與太祖並勢,共殺匡。

謝承『後漢書』はいう。

「呉志」妃ヒン伝はいう。孫権の謝夫人は、会稽の山陰の人だ。弟は、謝承である。謝承は、武陵太守となった。『後漢書』100余巻をつくった。以下、謝承と、謝承『後漢書』について、盧弼が注釈する。はぶく。ぼくは思う。孫呉の人がつくったから、孫呉びいきでは、ないのかなあ。っていうか、後漢を孫呉びいきに描くって、どうやればいいのか、わからんぞ。せいぜい孫堅を、もちあげるくらい?

王匡は、蔡邕と仲がよい。董卓に敗れて、王匡は泰山にかえった。強兵をあつめ、張邈とあわさる。王匡は、執金吾の胡母斑を殺した。胡母斑の親族は、王匡に怒った。

蔡邕は、董卓伝の注釈にある。ぼくは補う。っていうか、『後漢書』蔡邕伝は、上下巻に分かれた、オオゲサな列伝じゃないか。盧弼は、執金吾を注釈する。
胡母斑は、「魏志」袁紹伝の注釈にある。ぼくは補う。方詩銘氏は、言った。曹操は、不安定な兗州を治めるために、王匡と、胡母斑の遺族の対立に漬けこんだと。この解釈で、あっているのだろうか。抄訳した。
方詩銘氏の曹操論「曹操は兗州に拠る」等を翻訳する

胡母斑の遺族は、曹操とあわさり、王匡を殺した。

李清植はいう。あとの文を見ると、兵をつれて屯した列に、王匡と鮑信の名が欠ける。鮑信は、名声も官位も軽いから、はぶかれたか。列伝を見ると鮑信は、曹操に属したことで疑いがない。しかし王匡は、名声も官位も重いから、はぶいてはいけない。謝承『後漢書』のように、王匡を記すべきだ。
盧弼は考える。『後漢書』袁紹伝はいう。袁紹と王匡は、河内にいた。『三国志』は、べつのところで記す。王匡は本境(任地=河内)にいた。ゆえに必ずしも、王匡の屯所を書く必要がなかった。
たとえば、「魏志」董卓伝はいう。河内太守の王匡は、泰山の兵をのこし、河陽の津にいた。董卓の命をねらったと。「魏志」常林伝はいう。王匡は、諸生を属県にのこして、吏民をとりしまったと。これは、みずから死ぬ道を選ぶやりかただ。謝承『後漢書』は、常林伝の結末だけを記したのだ。王匡は、曹操に属したのでない。曹操に属したから、名を省かれた鮑信とはちがう。
沈家本はいう。鮑信は、ときに済北相となった。太守というランクで、鮑信と王匡は同じだ。官位の軽重を、はぶく基準とするのは、おかしい。鮑信は、兗州刺史の劉岱に属した。済北は、兗州に属すからだ。鮑信が曹操をたすけたのは、曹操が兗州牧になってからだ。この起兵のタイミングでない。
ぼくは思う。王匡について、考察できるとしたら、きっとこれで全部だろう。楽しかった。


袁紹、張邈、劉岱に殺される橋瑁

勃海太守袁紹、陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、
英雄記曰:瑁字元偉,玄族子。先為兗州刺史,甚有威惠。
渤海太守の袁紹、陳留太守の張邈、東郡太守の橋瑁は、起兵した。

胡三省はいう。瑁は、ボウだ。何進は橋瑁を召して、成コウに召した。
ぼくは思う。何進は、王匡や橋瑁などの軍事力を、後漢に編入した。もともと、後漢とはべつに育った軍事力を、霊帝のしたに編入した。霊帝-霊帝の宦官-宦官の子弟がつとめる三公や地方官、というラインでは、王匡や橋瑁をとりこめない。その点、お肉屋さんの何進ならば、わりにニュートラルに、新興の軍事力を取りこめたのかも知れない。
もちろん、何進が取りこんだ最大の、はみだし勢力は、袁紹だ。

『英雄記』はいう。橋瑁は、橋玄の族子だ。さきに兗州刺史となった。

『続漢書』五行志2で、劉昭は、応邵をひく。関東の義兵は、宋衛あたりで起った。東郡太守の橋瑁は、関東の義兵に統制がないから、義兵を軽蔑した。義兵のなかで浮いた。盧弼はいう。これは、劉岱が橋瑁を殺すことを言う。
ぼくは思う。東郡は、兗州に属する。兗州刺史から、東郡太守に移ることは、昇格?降格?よくあることなのか?どこかで、聞いたような、、


袁紹の従兄で、袁術にやぶれる袁遺

山陽太守袁遺、

遺字伯業,紹從兄。為長安令。河間張超嘗薦遺于太尉硃俊,稱遺「有冠世之懿,幹時之量。其忠允亮直,固天所縱;若乃包羅載籍,管綜百氏,登高能賦,睹物知名,求之今日,邈焉靡儔。」事在超集合。

山陽太守の袁遺は起兵した。
裴注はいう。袁遺は、袁紹の從兄だ。長安令となった。

山陽郡は、郡治は昌邑だ。兗州刺史も、おなじ昌邑を州治とする。ぼくは思う。山陽太守と、兗州刺史は、ケンカしないのかな。下衆のかんぐり?ほかに、郡治と州治がバッティングするのは、どこだろう。なにか、事件はないかなあ。
『後漢書』袁紹伝にひく『英雄記』は、袁遺を袁紹の従弟とする。

河間の張超は、かつて袁遺を、太尉の朱儁にすすめた。張超の著作は、『張超集』にある。

この張超は、のちの広陵太守の張超とは別人だ。『後漢書』文苑伝に、この張超がある。張良の子孫である。霊帝のとき、車騎将軍の朱儁にしたがい、黄巾を討った。草書の名人だ。朱儁は、『後漢書』朱儁伝がある。朱儁は、初平4年、周忠にかわって太尉となった。


英雄記曰:紹後用遺為揚州刺史,為袁術所敗。太祖稱「長大而能勤學者,惟吾與袁伯業耳。」語在文帝典論。

英雄記はいう。のちに袁紹は、袁遺を揚州刺史とした。袁遺は、袁術にやぶれた。

『郡国志』はいう。揚州の九江の歴陽が、刺史の州治だ。劉昭は注釈して、『漢官』をひく。揚州刺史の治所は、寿春である。刺史は、さきに歴陽だったが、のちに寿春にうつった。また、曲阿にうつったと。
銭大昕は、劉昭の注釈にいう。漢代、刺史の治所は、『郡国志』と同じでない。後漢末、じっさい揚州の州治は、寿春だった。初平4年、袁術は刺史の陳温を殺して、寿春に拠った。淮南は、寿春である。『郡国志』が記すのは、順帝の永和のとき以前だ。応邵『漢官』は、献帝の時代に書かれた。ゆえに、順帝の時代と同じでない。劉繇は揚州刺史となり、州治を曲阿に移した。群雄が、揚州のそれぞれを拠点に、ならんだ。

曹操は言った。大人になっても勉強するのは、袁遺だけだ。文帝紀にある。

裴松之が言ったとおり、文帝紀の注釈に、袁遺にかんする言葉がある。
ぼくは思う。袁遺は、曹操のお友達。袁術は、袁遺の従弟だけど、袁遺を揚州から追い出した。曹操と袁術は、まったく仲がわるい。当人同士が、仲がわるいだけじゃなく、袁遺を媒介にしても、キッパリと敵である。


曹操をたすけた鮑信

濟北相鮑信同時俱起兵,眾各數萬,推紹為盟主。太祖行奮武將軍。
信事見子勳傳。
濟北(国治は盧県)相の鮑信が、起兵した。袁紹を盟主とした。曹操は、行奮武將軍となる。 裴注はいう。鮑信は、子の鮑勛伝にある。

次回、初平元年2月です。今回、紹介された関東の地方官たちが、董卓の并州&涼州軍団と、総力戦をするのですね。っていうぐらいの見せ場がないと、紹介に「紙幅」を割きまくったことが、ペイしないなあ。笑 110219

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