表紙 > 曹魏 > 『三国志』武帝紀を読んで、原点回帰する

03) 銅臭の曹嵩と、曹操の就職

言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
『三国志集解』、むずかしくて、わからないなあ、、

曹操の父・曹嵩

養子嵩嗣,官至太尉,莫能審其生出本末。
養子の曹嵩が、曹騰を嗣いだ。

『後漢書』順帝紀に、陽嘉4年、宦官の養子をみとめる記事がある。胡三省は、曹操が登場する伏線だという。盧弼は考える。順帝は幼いとき、孫程に助けられ、孫程ら19人を侯に封じた。宦官は、この爵位を、養子に嗣がせることができる。

曹嵩は、太尉にまで到った。

『漢書』百官志、『続漢書』百官志に、太尉の説明がある。
『後漢書』曹騰伝はいう。霊帝のとき、官位が販売され、曹嵩が買った。華嶠『後漢書』もおなじ。袁紹がつくらせた陳琳の檄文で、曹嵩の悪口をいう。章懐注は『続漢書』をひく。霊帝のとき、曹嵩は太尉となったと。
『水経注』はいう。譙郡の城南に、曹嵩の墓がある。

曹嵩の出自は、よくわからない。

潘眉はいう。陳寿は、曹嵩の出自がわからないという。だが、曹氏と夏侯氏を、まとめて1巻の列伝とした。夏侯氏を、宗室とした。盧弼は考える。三少帝紀で、「宮中のことは、秘されてわからない」という。曹芳の血筋は、わからないと書かれる。しかし陳寿は、曹丕の母・卞皇后が、娼家だと、そのまま書いた。執筆の態度が、徹底しない。


續漢書曰:嵩字巨高。質性敦慎,所在忠孝。為司隸校尉,靈帝擢拜大司農、大鴻臚,代崔烈為太尉。黃初元年,追尊嵩曰太皇帝。
『続漢書』はいう。曹嵩は、司隷校尉となった。霊帝のとき、大司農、大鴻臚となった。

司隷校尉は、盧弼が建安元年の記事に注釈した。『続漢書』百官志は、大司農と大鴻臚をのせる。

崔烈にかわり、曹嵩は太尉となった。黄初元年、太皇帝と贈られた。

『後漢書』崔イン伝に、崔烈がある。諸葛亮伝に、崔州平がいる。


吳人作曹瞞傳及郭頒世語並雲:嵩,夏侯氏之子,夏侯惇之叔父。太祖於惇為從父兄弟。
呉人がつくった『曹瞞伝』と、

盧弼は、『曹瞞伝』の作者にかんして注釈する。『曹瞞伝』に、曹操をけなす記事がある。タカを飛ばし、イヌを走らせた。音楽を好んだ。華歆をつかい、伏皇后を虐待したと。
ぼくは思う。タカとイヌは、「遊蕩」したという、悪口なんですね。袁術も、おなじことをしてた、という記述がありました。定型文のようです。

郭頒『世語』はいう。

盧弼は、『世語』について注釈する。はぶく。

曹嵩は、夏侯惇の叔父だ。曹操と夏侯惇は、いとこだ。

何焯はいう。夏侯惇の子・夏侯楙は、清河公主をめとった。夏侯淵の子・夏侯衡は、曹氏をめとった。同姓をめとったとは、敵国の人が言い出したことだ。ぼくは補う。同姓の婚姻にからめ、曹氏を批判する話は、夏侯惇伝のときやった。
『三国志集解』で夏侯惇を知る


就職するまでの曹操

嵩生太祖。 太祖少機警,有權數,而任俠放蕩,不治行業,故世人未之奇也。
曹嵩は、曹操を生んだ。曹操は権數を好んだ。任侠で、放蕩した。曹操は、世間から評価されない。

『世説新語』はいう。曹操が匈奴の使者をだました。袁紹と花嫁をぬすんだ。眠っても殺気を感じた。気に入った演奏家を、後継者を育てさせてから殺した。ぼくは補う。『世説新語』は、以前にやりました。
『世説新語』に登場する、曹操を総ざらい!
劉昭『幼童伝』はいう。曹操は10歳のとき、譙水でミズチを斬った。みながミズチを畏れたが、曹操はミズチを畏れなかった。ふーん。


曹瞞傳雲:太祖少好飛鷹走狗,遊蕩無度,其叔父數言之於嵩。太祖患之,後逢叔父於路,乃陽敗面口;叔父怪而問其故,太祖曰:「卒中惡風。」叔父以告嵩。嵩驚愕,呼太祖,太祖口貌如故。嵩問曰:「叔父言汝中風,已差乎?」太祖曰:「初不中風,但失愛於叔父,故見罔耳。」嵩乃疑焉。自後叔父有所告,嵩終不復信,太祖於是益得肆意矣。

『曹瞞伝』はいう。曹操は、タカを飛ばし、イヌを走らせた。放蕩して、キリがない。叔父に「中風です」と言って、だました。

盧文ショウはいう。『曹瞞伝』の本文に、「太祖」とあるが、おかしい。呉人が書いたなら、幼名で呼ぶべきだ。裴松之が引用するときに、書き改めたのだ。


惟梁國橋玄、南陽何顒異焉。玄謂太祖曰:「天下將亂,非命世之才不能濟也,能安之者,其在君乎!」
ただ梁国の橋玄と、南陽の何顒だけが、曹操を評価した。

橋玄は、『後漢書』橋玄伝がある。恵棟はいう。「橋」を、「喬」と書くことがある。陳球碑は、「喬玄」とする。古代、この2文字は通じた。盧弼が、べつの本がひく「魏志」を見ると、「喬玄」である。ぼくは補う。「大喬」「小喬」は、オオハシ、コハシでもいい。
何顒は、『後漢書』何顒伝がある。荀爽、荀彧ともつながる。『何顒別伝』はいう。何顒は、同郡の張仲景にたいしてコメントした。張仲景とは、医学をやった張機である。ぼくは補う。張機は、建安初期に、長沙太守だったらしい(ウィキペディアより)。何顒は、袁紹伝にひく『英雄記』、荀攸伝にひく張ハン『漢紀』にもある。

橋玄は、曹操に言った。「天下を安んじるのは、キミだ」と。

『後漢書』橋玄伝に、このセリフがある。『後漢書』李膺伝はいう。李膺の子は、李瓚だ。李瓚は言った。天下の英雄には、張邈や袁紹もいるが、曹操に劣ると。趙一清はいう。曹操はこのとき、汝南の王シュンにほめられた。盧弼はいう。王シュンは、武帝紀の建安13年の注釈にある。曹操を評価した衛茲は、「魏志」衛シン伝にある。


魏書曰:太尉橋玄,世名知人,睹太祖而異之,曰:「吾見天下名士多矣,未有若君者也!君善自持。吾老矣!原以妻子為讬。」由是聲名益重。
續漢書曰:玄字公祖,嚴明有才略,長於人物。

『魏書』はいう。橋玄は、曹操に言った。「妻子を託す」と。

『世説新語』識鑑篇で、橋玄は曹操に言う。「乱世の英雄、治世の奸雄だ」と。劉孝標の注釈はいう。『世説新語』の記事は、ウソだ。盧弼はいう。もし橋玄が「奸賊」と言ったら、曹操は橋玄に、大牢を祭らない。ウソだ。

『続漢書』はいう。橋玄は、厳明で、才略があった。

張璠漢紀曰:玄曆位中外,以剛斷稱,謙儉下士,不以王爵私親。光和中為太尉,以久病策罷,拜太中大夫,卒,家貧乏產業,柩無所殯。當世以此稱為名臣。世語曰:玄謂太祖曰:「君未有名,可交許子將。」太祖乃造子將,子將納焉,由是知名。

張璠『漢紀』はいう。橋玄は、名臣だった。

盧弼は、『後漢書』橋玄伝から、関連する記事を、切り貼りする。橋玄伝を見れば、ひとつづきに読めるはずなので、はぶきます。『続漢書』百官志から、太中大夫を載せる。1000石だ。韋昭『弁釈名』はいう。太中大夫は、在中最高大だと。

『世語』はいう。橋玄は曹操に「許子將に会え」と言った。

『後漢書』許劭伝がある。許劭のことは、「魏志」巻23、和洽伝の注釈にある。『ホウ朴子』はいう。後漢末、朋党は、きそって許子將の月旦評をもらった。許子將がおこなう人物評価は、定まらない。曹丕は、ふかく許子將をねたんだ。曹丕は、許子將の首をとりたい。


孫盛異同雜語雲:太祖嘗私入中常侍張讓室,讓覺之;乃舞手戟於庭,逾垣而出。才武絕人,莫之能害。博覽群書,特好兵法,抄集諸家兵法,名曰接要,又注孫武十三篇,皆傳於世。嘗問許子將:「我何如人?」子將不答。固問之,子將曰:「子治世之能臣,亂世之奸雄。」太祖大笑。

孫盛『異同雜語』はいう。曹操は中常侍の張譲の家に入った。誰も、曹操に手出しできない。曹操は、兵法にくわしい。

孫盛は、『晋書』孫盛伝がある。孫盛は、『魏氏春秋』、『晋陽秋』を著した。このあと盧弼は、孫盛の著作について、検討する。興味がわいたら、またやります。
『後漢書』宦者伝に、張譲がある。盧弼は、『孫子』に注釈するが、はぶく。兵法書については、建安25年の注釈にも見える。

許子將に「治世の能臣、乱世の奸雄」と言われた。曹操は、大笑した。

許子將については、「蜀志」許靖伝にある。「蜀志」と『後漢書』で、曹操を評価する言葉がちがう。胡玉シンはいう。孫盛『異同雜語』は、魏をつぐ晋に遠慮して、曹操の悪評をはぶいた。『後漢書』許劭伝にある言葉が、事実であろう。のちに曹丕は、許劭を深くねたんだ。
ぼくは思う。南朝宋になって、はじめて、曹操に遠慮せずに筆を振るえるようになった。おもしろい指摘だと思います。


曹操が就職する

年二十,舉孝廉為郎,除洛陽北部尉,遷頓丘令,
曹操は20歳のとき、孝廉にあがる。郎となる。洛陽北部尉、頓丘の県令となる。

『続漢書』百官志はいう。孝廉は、20万人に1人。李祖楙はいう。『漢書』武帝紀で、はじめて孝廉があがる。和帝の永元14年、ふたたび郎官を置く。孝廉の人数は、丁コウが定めた。盧弼が百官志を見るに、令史は18人だ。光武帝のとき、、以下略。洛陽北部尉と、頓丘令についても、盧弼が官位を注釈する。はぶく。
曹植伝から、曹操から頓丘令となったとき、23歳だとわかる。


曹瞞傳曰:太祖初入尉廨,繕治四門。造五色棒,縣門左右各十餘枚,有犯禁,不避豪強,皆棒殺之。後數月,靈帝愛幸小黃門蹇碩叔父夜行,即殺之。京師斂跡,莫敢犯者。近習寵臣鹹疾之,然不能傷,於是共稱薦之,故遷為頓丘令。

『曹瞞伝』はいう。洛陽北部太の曹操は、五色棒で、小黄門・蹇碩の叔父を殺した。曹操は、頓丘令にうつされた。

『後漢書』霊帝紀はいう。中平5年8月、西園八校尉をおいた。楽資『山陽公載記』はいう。蹇碩は、八校尉をひきいた。袁宏『後漢紀』はいう。蹇碩は壮健だ。大将軍の何進より以下、みな蹇碩に属した。
ぼくは補う。曹操が八校尉になるのは、もっとあとだ。八校尉に編入されたとき、気まずいなあ。八校尉のトップは、かつて自分が叩き殺した人の、おいなんだから。


徵拜議郎。
曹操は、議郎となった。

『続漢書』百官志は、議郎を載せる。
『後漢書』劉陶伝はいう。司徒する東海の陳耽は、議郎の曹操とともに、公卿が人事権を私物化したと、上言した。『通鑑考異』はいう。官位と行動があわない。すでに陳耽が司徒なら、議郎の曹操と、ともに上言するのはおかしい。王沈『魏書』はいう。この歳、災異の得失を、ひろく問うた。曹操は、きつく諌めた。陳耽とともに、上言したのでない。
ぼくは思う。「専務が社長を諌めるため、担当の事務員を連れてきた」と同じくらい、おかしい。ところで、なんで陳耽が紛れ込んだんだろう。『資治通鑑』を読んだときも思ったが、『後漢書』劉陶伝は、読まずにはおけない。


魏書曰:太祖從妹夫強侯宋奇被誅,從坐免官。後以能明古學,複徵拜議郎。先是大將軍竇武、太傅陳蕃謀誅閹官,反為所害。太祖上書陳武等正直而見陷害,奸邪盈朝,善人壅塞,其言甚切;靈帝不能用。是後詔書敕三府:舉奏州縣政理無效,民為作謠言者免罷之。三公傾邪,皆希世見詔用,貨賂並行,強者為怨,不見舉奏,弱者守道,多被陷毀。太祖疾之。是歲以災異博問得失,因此複上書切諫,說三公所舉奏專回避貴戚之意。奏上,天子感悟,以示三府責讓之,諸以謠言徵者皆拜議郎。是後政教日亂,豪猾益熾,多所摧毀;太祖知不可匡正,遂不復獻言。

『魏書』はいう。曹操の従妹の夫は、宋奇だ。宋奇が誅され、曹操は免官された。

『後漢書』宋皇后紀にある。光和元年、宋氏の父子は殺された。

曹操は、古学に明るいから、また議郎となる。大将軍の竇武、太傅の陳蕃が殺された件を、霊帝に抗議した。霊帝は、曹操を用いない。

『後漢書』竇武伝、陳蕃伝など。まえにやった『資治通鑑』でも、大きなテーマでした。第二次、党錮事件です。
ぼくは思う。曹操は、ほんとうに、竇武と陳蕃について、文句を言ったのか。王沈『魏書』が、曹操をほめるために、創作したのでは?「曹操は、党人の後継者ですよ」と宣伝することは、曹魏にメリットがある。後漢が滅びたあとなら、エピソードを追加しほうだいだ。『後漢書』が曹操の抗議を記さない。陳寿も、記さない。マユツバではないか。

霊帝は三公に、人事を見直せと命じた。曹操は、三公を批判したが、聞かれず。

崔寔『政論』はいう。三公は、天子の股肱である。掾属は、三公の喉舌だ。ぼくは補う。三公の件は、渡邉将智氏の論文を読めば、すべて分かります。
三公の機能が停止した理由を、盧弼は売官に求める。光和元年、西園で官位を売った。劉陶伝はいう。光和五年、霊帝は三公に、人事を見直せと命じた。ときの三公は、太尉の許イク、司空の張済である。2人はワイロを受けとり、人事を見直さない。
ぼくは思う。『後漢書』劉陶伝と、王沈『魏書』の記述が、一致している。光和5年の出来事なんだ。アタリマエかも知れないが、驚いた。王沈が、劉陶の話にかこつけて、曹操の手柄を創作した、なんてことは、ないかなあ。どうせ、採用されなかった意見である。どんなアトヅケをしても、ほかの史料と矛盾しない。


次回、黄巾の乱が起きます。曹操その人に興味がなくはないが、それよりも、190年代の情勢を知りたい。はやく「初平元年」まで、いけないものか。『三国志集解』で、あと5ページ!まだしばらく、曹操は脇役。110218

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