表紙 > 曹魏 > 『三国志』武帝紀を読んで、原点回帰する

01) 武帝紀のはじまり

言わずと知れた、『三国志』巻1、武帝紀。
原点回帰とレベルアップをはかります。『三国志集解』に頼ります。
久しぶりに『三国志集解』を読んだら、わからないなあ、、

武帝紀のはじまる前

魏書一

『三国志集解』は、この3文字にたくさん注釈する。以下、抄訳。

潘眉はいう。「魏」の字は、『説文解字』では、「山+魏」と書き、「山+鬼」の部首にのる。徐ゲンはいう。現代の人は、「山」をはぶく。
潘眉は考える。魏呉蜀の「魏」は、もとは「山+魏」と書いた。だから、『三国志』文帝紀の注釈に、「鬼は山にいて、、」という記述がある。もとは「山+魏」と書いた証拠だ。銭大昭はいう。人の姓とか、地名の郡で、いずれも「山+魏」と書く。洪氏の『隷釈』にも、「山+魏」の用法が、たくさんある。

文帝紀の注釈、ちくま訳を要チェック!笑
つづいて、陳寿『三国志』がデタラメなのか、議論される。盧弼はいう。「陳寿は、いろんな本に基づいて『三国志』を書いたのだよ」と。ここで、「陳寿なんて、意味ない、つまんねー」という話になったら、『三国志集解』が成立しない。笑


武帝紀第一
張照はいう。皇帝を本紀といい、臣下を列伝というのは、司馬遷『史記』が始めた。班固『漢書』も、おなじ構成で書いた。『晋書』は、16国を載記といった。この構成は、いまだ改められない。ただし『三国志』には、本紀と列伝という、名称や区別がない。魏を、呉蜀と区別しない。これは陳寿の意図だ。いまの考証学の成果では、陳寿の原書は、紀と伝という文字を、直接は記さなかった。
盧文ショウは、これに反対する。陳寿は、魏の諸帝を「紀」として、呉蜀の諸王を「伝」とした。陳寿が、紀や伝と記さなかったとは、後世の人が、写すときに改変したのだ。

けっきょく、どっちなんだ。解らないが、、三国時代そのものを研究対象とするなら、あまり悩まなくていい問題である。西晋の陳寿あたりを研究するなら、超重要なテーマだが。っていうか、これ以上、重要な問題ってないですけどね。

『史通』はいう。曹操は人臣だが、じつは王とおなじだ。曹操は皇帝でない。陳寿は、まだ後漢の時代だとしながらも、曹操のために魏の本紀をつくった。また『史通』はいう。孫権と劉備は、じつは本紀なのに、伝と呼んだだけだ。いま伝わっている本のうち、曹操に本紀を立てず、「曹操列伝」とするものは、写し誤りだ。

魏に本紀を立てない本が、出回っていたのですね。蜀漢びいきの産物? このあたりの議論、『三国志集解』は版本による差異を述べています。

盧弼は考える。『三国志』の、董卓、袁紹、公孫度、荀攸、華歆、鮑勛、華歆、程昱らの列伝には「武紀」という言葉がある。

とりあえず、魏に本紀があり、呉蜀の君主は列伝。ぼくたちが、だいたい「常識」としているものに、落ち着きました。結論は、訳し誤ってないと思います。でも、はぶきまくっているので、ご自身でお確かめください。


武帝紀のはじまり

太祖武皇帝,
『史通』はいう。古代、天子に廟号を「祖」とつけるのは、功績があり、一族に徳がある、はじめから3代の人物までだ。漢代には、廟号は実態がともなった。だが曹操は、徳がなくて、武ばかりの人だ。ゆえに陳寿は、曹操を「太祖」と呼ばない。ただ「武」という。曹丕や明帝も、廟号で呼ばず、「帝」とする。

ここから、曹操に対する評価と、呼び名にかんする議論が載っている。「後世の文筆家から見た、曹操にたいする評価」は、いまぼくが検討したい内容ではないので、はぶきます。曹操そのものを、検討したい。


沛國譙人也,
『続漢書』郡国志はいう。豫州の沛国に、譙県がある。豫州刺史の治所である。劉昭はいう。譙県の平陽邑は、『左伝』にあるキ公23年に、魯が楚に攻めとられた、乾谷の南である。
趙一清はいう。曹参は、河東の平陽に封じられた。のちに食邑は、沛国の譙県につがれた。ゆえに、譙県の平陽邑というのだ
恵棟はいう。『春秋伝』のキ公23年、楚は陳を伐ち、焦夷を攻めとった。杜預はいう。いま(西晋)の譙県は、焦と譙の文字がつうじる。
盧弼は考える。『一統志』はいう。譙県は、秦がおいた。漢代、沛郡に属した。のちに、漢の沛国に属した。豫州刺史の州治となった。熹平5年、黄龍があらわれた。譙県の太史令・単ヒョウは言った。「50年以内に、王者があらわれる」と。中平4年、曹操は、曹丕を譙県で生んだ。

建安のとき、譙郡をおいた。建安22年、沛国の穆王・劉林は、譙王に改められた。譙県を、譙国とした。延康元年、ふたたび黄龍があらわれた。曹丕は、譙国の父老たちを招き、邑東で宴した。
魏の黄初元年、譙国と、長安、許昌、鄴県、洛陽を、5都とした。黄初5年、諸王を、県王に改封した。また国を郡にもどした。
呉増キンはいう。『献帝起居注』建安18年春3月、州をはぶいて、郡にあわせた。豫州は8郡となる。このとき「譙郡」はない。さきの記述とあわない。建安18年夏5月、魏国はすでに建った。豊沛を、とくべつに譙郡とした。王粲の詩に、「譙郡」が出てくる。建安21年、曹操が孫呉を征伐したとき、王粲がつくった詩である。許褚伝にも、この話がある。

姓曹,諱操,字孟德,
潘眉はいう。班固『漢書』は、帝紀に、皇帝のいみなを記さない。班固は、漢代の人だからだ。『史記』は、前代の本紀で、名を記す。だから高祖(劉邦)は、あざなを記すだけだ。これが、古代からの例だ。陳寿は、西晋になってから、『三国志』を書いた。だから、曹操のいみなを記した。
ヨウ範はいう。『荀子』勧学篇は、「徳操」というワードがある。同時代の、司馬徳操の名も、おなじ由来だ。盧弼はいう。曹操の名を、平韻で読むのは、誤りである。節操、貞操、というときの「操」は、平声で読む。曹操の名と、ちがう。

すみません。音のことは、わかりません。


漢相國參之後。
『漢書』曹参伝はいう。曹参は、沛の人だ。高祖6年、列侯となり、平陽に食邑をもらった。子孫がおらず、絶えた。恵帝9年、相国と成った。銭大昭は言う。漢郃陽令の曹全碑は、曹参の出自を記す。『魏武家伝』は、系図をつないだ。のちに曹植は、曹操の誄をしるした。曹植はいう。曹操は、曹参と故郷がおなじだから、曹操は曹参の子孫だと。
しかし、費亭侯の曹騰碑は、曹氏の出自はチュとする。王沈『魏書』も、曹氏の出自をチュとする。
盧弼は考える。蒋済伝はいう。侍中の高堂隆は、魏が舜の後裔とした。舜のもとの姓はキ氏、苗は田氏だ。裴松之はいう。蒋済の発言と、曹騰の碑文は、曹氏の出自をチュとする。王沈『魏書』も、おなじくチュとする。曹参の子孫とする話と、くいちがう。
顧炎武はいう。漢代の碑文は、信じちゃいかんよと。出自の設定が三転した曹氏は、士大夫の笑いものである。

顧炎武の「合理的」な指摘に、しらけてしまう。笑
要は、よく分かりませんよ、ということで。

つづきは、また後日やります。110216

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