表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝57・党錮列伝を抄訳

范曄による党錮伝の前書き

吉川版で、党錮伝をやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。

訓読された文書を見て、口語に要約する。それほど意味のある活動ではない。では、なぜやっているか。「読んだ」という行為の痕跡を、ホームページに叩きつけているだけ。あとで読み直すとき、自分用のガイドとする。

『後漢書』のうち、党錮伝は、特殊な位置にある。循吏、酷吏、宦者など、「その他」の人たちをまとめた列伝は、巻末にあつまる。党錮伝だけ、前のほうにある。竇武、皇甫嵩、董卓、袁紹よりも前にある。まるで党錮が時代の主役で、つぎの時代を開いたかのような優遇だ。
また、党錮伝にある「尹勲伝」は、ちがう内容で2回載る。同姓同名でなく、同一人物だ。おそらく范曄が、原書を整理しているときに、「党錮だけは、強調しなくちゃね」と意気ごみ、ダブルで項目を設けてしまったのだ。
そういうわけで、党錮伝を読むと、『後漢書』がどちらの方向に偏っているか、わかる。わかれば、自分なりに、補整をかけることができる。「『後漢書』には、こう書いてあります」という話から、もう1つ進んで、『三国志』を描けると思う。
長くてつらいが、2011GW前、2時間早く退社できたので、党錮伝やります。

党錮は李膺がキッカケ

(前略) 夫上好則下必甚,橋枉故直必過,其理然矣。若范滂、張儉之徒,清心忌惡,終陷黨議,不其然乎?
初,桓帝為蠡吾侯,受學于甘陵周福,及即帝位,擢福為尚書。時同郡河南尹房植有名當朝,鄉人為之謠曰:「天下規矩房伯武,因師獲印周仲進。」二家賓客,互相譏揣,遂各樹朋徒,漸成尤隙,由是甘陵有南北部,黨人之議,自此始矣。

まがったものを直し過ぎると、わざわいがある。范滂、張倹の事例だ。
桓帝が蠡吾侯のとき、甘陵の周福に学問を習う。桓帝が即位し、周福は尚書となる。同郡の河南尹する房植は、名声がある。郷人は謠言した。「天下の規矩たる、房植。桓帝の師ゆえに印綬を得た、周福」と。房植と周福の賓客は、そしりあった。党派をつくる。ゆえに甘陵の南北は、対立した。党人の議は、ここに始まった。

『資治通鑑』でも、時系列がいつと断定せず、書いてあった。象徴的なできごと。


後汝南太守宗資任功曹範滂,南陽太守成瑨亦委功曹岑BF40,二郡又為謠曰:「汝南太守范孟博,南陽宗資主畫諾。南陽太守岑公孝,弘農成瑨但坐嘯。」

のちに汝南太守の宗資は、功曹の範滂を任じた。南陽太守の成瑨もまた、功曹の岑シツを任じた。2郡は謠言した。「汝南太守は范滂みたいなもの。南陽の宗資は、押印して書類に同意するだけ。南陽太守は岑公孝みたいなもの。弘農の成瑨は、すわってうそぶくだけ」と。

太守が委任しても、いいじゃん。美しい効率化。ではない?


因此流言轉入太學,諸生三萬余人,郭林宗、賈偉節為其冠,並與李膺、陳蕃、王暢更相褒重。學中語曰:「天下模楷李元禮,不畏強禦陳仲舉,天下俊秀王叔茂。」又渤海公族進階、扶風魏齊卿,並危言深論,不隱豪強。自公卿以下,莫不畏其貶議,屣履到門。

この流言は、太学にとどく。諸生は3万余人。郭林宗、賈偉節がトップ。李膺、陳蕃、王暢も、重んじられた。太学の中で語られた。「天下の模楷は、李元禮。不畏強禦は、陳仲舉。天下の俊秀、王叔茂」と。
また渤海の公族進階、扶風の魏齊卿は、直言して、豪強から隠れない。公卿より以下は、けなされることを畏れた。名声ある人を、そそくさ訪問した。

時,河內張成善說風角,推占當赦,遂教子殺人。李膺為河南尹,督促收捕,既而逢宥獲免,膺愈懷憤疾,竟案殺之。初,成以方伎交通宦官,帝亦頗誶其占。成弟子牢B13F因上書誣告膺等養太學遊士,交結諸郡生徒,更相驅馳,共為部黨,誹訕朝廷,疑亂風俗。於是天子震怒,班下郡國,逮捕黨人,佈告天下,使同忿疾,遂收執膺等。其辭所連及陳寔之徒二百餘人,或有逃遁不獲,皆懸金購募。使者四出,相望於道。明年,尚書霍諝、城門校尉竇武並表為請,帝意稍解,乃皆赦歸田裏,禁錮終身。而黨人之名,猶書王府。

ときに河內の張成は、よく風角を説く。張成は、恩赦があると占った。子に殺人させた。李膺は河南尹となり、張成を收捕したが、赦免された。李膺は怒り、張成を殺した。

これが、直接のキッカケです。

はじめ張成は宦官と交通した。桓帝も、張成の占いを信じた。張成の弟子・牢修は、桓帝にむけて、李膺を誣告した。「李膺は、太学の遊士をやしなう。諸郡の生徒と交結し、部黨をつくる。朝廷を誹訕する」と。桓帝は震怒し、郡國に黨人を逮捕させた。李膺を收執した。陳寔ら200余人が、連座した。党人を逃がすまいと、金をバラまいた。四方の道で、党人を見張った。
翌年、尚書の霍諝、城門校尉の竇武は、桓帝にねがい、党人を赦してもらう。田里にかえり、禁固は終身。黨人の名は、王府のブラックリストに記されたまま。

曹節が殺害を開始

自是正直廢放。邪枉熾結,海內希風之流,遂共相標榜,指天下名士,為之稱號。上曰「三君」,次曰「八俊」,次曰「八顧」,次曰「八及」,次曰「八廚」,猶古之「八元」、「八凱」也。竇武、劉淑、陳蕃為「三君」。君者,言一世之所宗也。李膺、荀翌、杜密、王暢、劉祐、魏朗、趙典、朱為「八俊」。俊者,言人之英也。郭林宗、宗慈、巴肅、夏馥、范滂、尹勳、蔡衍、羊陟為「八顧」。顧者,言能以德行引人者也。張儉、岑晊、劉表、陳翔、孔昱、苑康、檀敷、翟超為「八及」。及者,言其能導人追宗者也。度尚、張邈、王考、劉儒、胡母班、秦周、蕃向、王章為「八廚」。廚者,言能以財救人者也。

これより、正しいものが廃された。邪悪なものが、盛んとなる。天下の名士に、称号をつくる。序列は、三君、八俊、八顧、八及、八廚である。古代にあった、八元、八凱みたいなもの。
竇武、劉淑、陳蕃を、三君とする。君とは、一世之所宗をいう。
李膺、荀翌、杜密、王暢、劉祐、魏朗、趙典、朱ウを、八俊とする。俊とは、人之英をいう。郭林宗、宗慈、巴肅、夏馥、范滂、尹勳、蔡衍、羊陟を、八顧という。顧とは、能以德行引人者をいう。
張儉、岑晊、劉表、陳翔、孔昱、苑康、檀敷、翟超を、八及という。及とは、能導人追宗者をいう。度尚、張邈、王考、劉儒、胡母班、秦周、蕃向、王章を、八廚という。廚者とは、能以財救人者をいう。

又張儉鄉人朱B228,承望中常侍侯覽意旨,上書告儉與同鄉二十四人別相署號,共為部党,圖危社稷。以儉及檀彬、褚鳳、張肅、薛蘭、馮禧、魏玄、徐乾為「八俊」田林、張隱、劉表、薛郁、王訪、劉詆、宣靖、公緒恭為「八顧」,朱楷、田槃、B363耽、薛敦、宋布、唐龍、嬴咨、宣褒為「八及」,刻石立墠,共為部黨,而儉為之魁。靈帝詔刊章捕儉等。大長秋曹節因此諷有司奏捕前党故司空虞放、太僕杜密、長樂少府李膺、司隸校尉朱、潁川太守巴肅、沛相荀翌、河內太守魏朗、山陽太守翟超、任城相劉儒、太尉掾范滂等百餘人,皆死獄中。餘或先歿不及,或亡命獲免。自此諸為怨隙者,因相陷害,睚眥之忿,濫入黨中。又州郡承旨,或有未嘗交關,亦離禍毒。其死徙廢禁者,六七百人。

また張倹の郷人・朱並は、中常侍の侯覽に迎合した。「同郷の24人が、部党をつくり、社稷を危うくする」と、上書してチクった。張倹、檀彬、褚鳳、張肅、薛蘭、馮禧、魏玄、徐乾を、八俊という。田林、張隱、劉表、薛郁、王訪、劉詆、宣靖、公緒恭を、八顧という。朱楷、田槃、B363耽、薛敦、宋布、唐龍、嬴咨、宣褒を、八及という。名声のリストを石碑にきざむ。張倹をトップに、部党をくむと。

上の三君より以下とは、べつの話。
張倹に見捨てられた朱並が、張倹を陥れるためにつくったリスト。スケールが小さく、とくに意味はない。同郷から、知り合いを見繕っただけ。おそらく朱並も、もとは仲間。25人目。

霊帝は石碑をけずり、張倹を捕らえた。大長秋の曹節は、諷して上奏した。「もと党人、もと司空の虞放、太僕の杜密、長樂少府の李膺、司隸校尉の朱ウ、潁川太守の巴肅、沛相の荀昱、河內太守の魏朗、山陽太守の翟超、任城相の劉儒、太尉掾の范滂ら100余人を、獄死させた。

ただのブラックリストでなく、死刑にされた。

州郡は、霊帝の意思をうけ、関係がない人も党人にふくめた。死罪、徙罪、禁固は、6、7百人。

180年代は、党錮がゆるむ

熹平五年,永昌太守曹鸞上書大訟黨人,言甚方切。帝省奏大怒,即詔司隸、益州檻車收鸞,送槐裏獄掠殺之。於是又詔州郡更考党人門生故吏父子兄弟,其在位者,免官禁錮,爰及五屬。
光和二年,上祿長和海上言:「禮,從祖兄弟別居異財,恩義已輕,服屬疏末。而今黨人錮及五族,既乖典訓之文,有謬經常之法。」帝覽而悟之,黨錮自從祖以下,皆得解釋。

熹平五年(167)、永昌太守の曹鸞は、上書した。きつく「党人をゆるせ」と言った。霊帝は怒り、曹鸞を殺した。党人の五属まで、免官、禁固された。
光和二年(179)、上祿長の和海が上言した。「五族は、党錮の範囲をひろげすぎだ」と。霊帝は、党錮の範囲をせばめた。

179年、陽球が宦官を殺しまくる。180年、霊帝の何皇后がたつ。この時期、区切りがありそう。179年までは、党錮がきつい時代。180年から、ちょっとゆるむ時代。ゆるみは、184年に黄巾の乱が起きて、加速する。


中平元年,黃巾賊起,中常侍呂強言於帝曰:「黨錮久積,人情多怨。若久不赦宥,輕與張角合謀,為變滋大,悔之無救。」帝懼其言,乃大赦黨人,誅徙之家皆歸故郡。其後黃巾遂盛,朝野崩離,綱紀文章蕩然矣。

中平元年、黄巾。中常侍の呂強が霊帝に言った。「黨錮久積,人情多怨。若久不赦宥,輕與張角合謀,為變滋大,悔之無救。」と。党人を大赦した。誅徙された人の家族は、みな故郡に帰る。黄巾により、朝野は崩離した。

凡党事始自甘陵、汝南,成于李膺、張儉,海內塗炭,二十餘年,諸所蔓衍,皆天下善士。三君、八俊等三十五人,其名跡存者,並載乎篇。陳蕃、竇武、王暢、劉表、度尚、郭林宗別有傳。荀翌附祖《淑傳》。張邈附《呂布傳》。胡母班附《袁紹傳》。王考字文祖,東平壽張人,冀州刺史;秦周字平王,陳留平丘人,北海相;蕃向字嘉景,魯國人,郎中;王璋字伯儀,東萊曲城人,少府卿:位行並不顯。翟超,山陽太守,事在《陳蕃傳》,字及郡縣未詳。朱,沛人,與杜密等俱死獄中。唯趙典名見而已。

党錮の事件は、甘陵、汝南から始まり、李膺、張儉の事件で成立した。海內の塗炭は、20余年だ。三君、八俊ら35人の行状を、記録しよう。陳蕃、竇武、王暢、劉表、度尚、郭林宗は、べつに列伝がある。荀昱は、荀淑伝につく。張邈は、呂布伝につく。胡母班は、袁紹伝につく。
王考は、あざなを文祖という。東平の壽張の人だ。冀州刺史となる。秦周は、あざなを平王。陳留の平丘の人だ。北海相となる。蕃向は、あざなを嘉景という。魯國の人だ。郎中となる。王璋は、あざなを伯儀という。東萊の曲城の人だ。少府卿となる。官位と行状は、明らかでない。
翟超は、山陽太守となる。陳蕃伝につく。あざなと出身は未詳。朱ウは、沛の人。杜密らとともに獄死した。趙典は、名が見えるだけで、ほかは不明。

党錮伝に載らない人たちを、除外する理由でした。


次回から、列伝が始まります。前置き、長かった。つづく。

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