表紙 > ~後漢 > 『後漢書』列伝47・劉陶、李雲、劉瑜、謝弼伝を抄訳

諫言するが、宦官や皇帝に阻まれた人々

吉川版でやります。ただ抄訳して、読みなおしやすくした。
上表文のたぐいをはぶき、、関連する事件と人物にしぼった。どうぞ。

訓読された文書を見て、口語に要約する。それほど意味のある活動ではない。では、なぜやっているか。「読んだ」という行為の痕跡を、ホームページに叩きつけているだけ。あとで読み直すとき、自分用のガイドとする。


劉陶が、桓帝の後宮に文句をつける

劉陶字子奇,一名偉,潁川潁陰人,濟北貞王勃之後。陶為人居簡,不修上節。所與交友,必也同志。好尚或殊,富貴不求合;情趣苟同,貧賤不易意。同宗劉愷,以雅德知名,獨深器陶。
時,大將軍梁冀專朝,而桓帝無子,連歲荒饑,災異數見。陶時遊太學,乃上疏陳事曰 (中略) 書奏不省。

劉陶は、あざなを子奇という。一名を偉。潁川の潁陰の人だ。濟北貞王の劉勃(高帝の孫、『漢書』44)の後裔だ。志向がちがえば、富貴でも交際しない。志向があえば、貧賤でも交際した。同宗の劉愷(列伝29)は、劉陶をふかく評価した。
大将軍の梁冀が、朝政をもっぱらにする。桓帝に子がない。災異がある。劉陶は、太学にゆく。上疏した。
「梁冀はダメ。桓帝は後宮を増すが、子がない。もと冀州刺史した南陽の朱穆、さきの烏桓校尉した、私と同郡の李膺は、いい人物だ」と。桓帝は、かえりみず。

時,有上書言人以貨輕錢薄,故致貧困,宜改鑄大錢。事下四府群僚及太學能言之士。陶上議曰 (中略) 帝竟不鑄錢。

貨幣が軽くて薄いから、貧困が起こるという人がいた。四府は、群僚や、太学にいる能言の士に、議論させた。劉陶は、改鋳せよと言った。桓帝は、改鋳せず。

2つの議論を、はぶきましたが。劉陶は、黄巾にからみ、おもしろいことを言う。黄巾までは、おまけみたいなもの。


後陶舉孝廉,除順陽長。縣多奸猾,陶到官,宣募吏民有氣力勇猛,能以死易生者,不拘亡命奸臧,於是剽輕劍客之徒過晏等十餘人,皆來應募。陶責其先過,要以後效,使各結所厚少年,得數百人,皆嚴兵待命。於是複案奸軌,所發若神。以病免,吏民思而歌之曰:「邑然不樂,思我劉君。何時複來,安此下民。」

のちに孝廉にあがり、順陽長となる。県には、奸猾な人がおおい。命知らずの少年を集め、奸猾な人を取り調べた。病気で去官するとき、「また順陽長になってくれ」と言われた。

劉陶は、黄巾の防止より、訓詁が仕事

陶明《尚書》、《春秋》,為之訓詁。推三家《尚書》及古文,是正文字七百餘事,名曰《中文尚書》。頃之,拜侍御史。靈帝宿聞其名,數引納之。時,巨鹿張角偽託大道,妖惑小民,陶與奉車都尉樂松、議郎袁貢連名上疏言之,曰:
聖王以天下耳目為視聽,故能無不聞見。今張角支党不可勝計。前司徒楊賜奏下詔書,切敕州郡,護送流民,會賜去位,不復捕錄。雖會赦令,而謀不解散。四方私言,雲角等竊入京師,覘視朝政,鳥聲獸心,私共鳴呼。州郡忌諱,不欲聞之,但更相告語,莫肯公文。宜下明詔,重募角等,賞以國土。有敢回避,與之同罪。

劉陶は『尚書』『春秋』に明るい。訓詁した。侍御史となる。霊帝は、劉陶の名声をきき、研究スタッフにむかえる。ときに鉅鹿の張角が、民をまどわす。劉陶と、奉車都尉の樂松、議郎の袁貢は、連名で上疏した。
「張角の支党は、数えきれない。さきに司徒した楊賜は、州郡に命じ、流民を護送せよと言った。楊賜が司徒を去ったので、流民はそのままだ。赦令を出しても、流民は解散しない。州郡は、張角の脅威に目をむけない。張角に賞金をかけよ」と。

黄巾の母体は、流民。流民を解消しようとしたのは、楊賜。


帝殊不悟,方詔陶次第《春秋》條例。明年,張角反亂,海內鼎沸,帝思陶言,封中陵鄉侯,三遷尚書令。以所舉將為尚書,難與齊列,乞從冗散,拜侍中。以數切諫,以權臣所憚,徙為京兆尹。到職,當出修宮錢直千萬,陶既清貧,而恥以錢買職,稱疾不聽政。帝宿重陶才,原其罪,征拜諫議大夫。
是時,天下日危,寇賊方熾,陶憂致崩亂,複上疏曰:

霊帝は黄巾の脅威をさとらず、劉陶に『春秋』の検討を命じた。翌年、張角が反乱した。劉陶は、中陵郷侯に封ぜらる。3たび遷り、尚書令。かつて挙将(劉陶を孝廉にあげた人)も尚書だ。同列を避け、閑職をねがい、侍中となる。きつく諌めるので、權臣に憚られ、京兆尹となる。買官を恥じ、就かず。
霊帝は、買官をこばんだ罪をゆるし、諫議大夫とする。劉陶は、後漢の崩乱をうれい、また上疏した。

臣聞事之急者不能安言,心之痛者不能緩聲。竊見天下前遇張角之亂,後遭邊章之寇,每聞羽書告急之聲,心灼內忍,四體驚竦。今西羌逆類,私署將帥,皆多段DA5E時吏,曉習戰陳,識知山川,變詐萬端。臣常懼其輕出河東、馮翊,抄西軍之後,東之函穀,據厄高望。今果已攻河東,恐遂轉更豕突上京。如是則南道斷絕,車騎之軍孤立,關東破膽,四方動搖,威之不來,叫之不應,雖有田單、陳平之策,計無所用。臣前驛馬上便宜,急絕諸郡賦調,冀尚可安¨事付主者,留連至今,莫肯求間。今三郡之民皆以奔亡,南出武關,北徙壺谷,冰解風散,唯恐在後。今共存者尚十三四,軍吏士民悲愁相守,民有百走退死之心,而無一前鬥生之計。西寇浸前,去營咫尺,胡騎分佈,已至諸陵。將軍張溫,天性精勇,而主者旦夕迫促,軍無後殿,假令失利,其敗不救。臣自知言數見厭,而言不自裁者,以為國安則臣蒙其慶,國危則臣亦先亡也。謹複陳當今要急入事,乞須臾之間,深垂納省。
其八事,大較言天下大亂,皆由宦官。宦官事急,共讒陶曰:「前張解事發,詔書示以威恩,自此以來,各各改悔。今者四方安靜,而陶疾害聖政,專言妖孽。州郡不上,陶何緣知?疑陶與賊通情。」於是收陶,下黃門北寺獄,掠按日急。陶自知必死,對使者曰:「朝廷前封臣雲何?今反受邪譖,恨不與伊、呂同疇,而以三仁為輩。」遂閉氣而死,天下莫不痛之。
陶著書數十萬言,又作《七曜論》、《匡老子》、《反韓非》、《複孟軻》,及上書言當世便事、條教、賦、奏、書、記、辯疑,凡百餘篇。

「張角のつぎは、辺章が叛く。西羌の逆賊は、将軍をみずから称す。もとは段熲の吏だから、地理と戦闘に詳しい。もし逆賊が、河東、馮翊に出て、函谷と通じれば、洛陽が危ない。将軍の張温には、後軍がいない。張温が敗れたら、救えない」と。
劉陶は、洛陽の危機を、宦官が原因だとした。宦官は、「劉陶は、黄巾と通じた」と言った。劉陶を黄門北寺獄にくだす。劉陶は死んだ。劉陶の著書はおおい。

   時,司徒東海陳耽,亦以非罪與陶俱死,耽以忠正稱,曆位三司。光和五年,詔公卿以謠言舉刺史、二千石為民蠹害者。時太尉許戫、司空張濟承望內官,受取貨賂,其宦者子弟賓客,雖貪污穢濁,皆不敢問,而虛糾邊遠小郡清修有惠化者二十六人。吏人詣闕陳訴,耽與議郎曹操上言:「公卿所舉,率黨其私,所謂放鴟梟而囚鸞鳳。」其言忠切,帝以讓戫、濟,由是諸坐謠言征者悉拜議郎。宦官怨之,遂誣陷耽死獄中。

ときに司徒する東海の陳耽も、罪がないのに、劉陶とともに宦官に殺された。
陳耽は忠正だから、三公を歴任した。光和五年(182)、公卿に詔し、刺史と太守で、民をくるしめる者をあげた。太尉の許戫、司空の張濟は、宦官に迎合し、賄賂をもらう。宦官の子弟や賓客は、貪汚で穢濁だが、張濟と張済はあげず。邊遠の小郡で、清修する太守26人をあげた。陳耽は、議郎の曹操とともに上言した「公卿があげた人物は、かたよっている」と。陳耽は忠切に言った。霊帝は、許戫と張濟を三公からはずす。太守26人は、議郎となる。宦官は陳耽をうらみ、獄死させたのだ。

黄徳の陳、項、虞、田、許氏を遠ざく、李雲

李雲字行祖,甘陵人也。性好學,善陰陽。初舉孝廉,再遷白馬令。
桓帝延熹二年,誅大將軍梁冀,而中常侍單超等五人皆以誅冀功並封列侯,專權選舉。又立掖庭民女D9F1氏為皇后,數月間,後家封者四人,賞賜巨萬。是時,地數震裂,眾災頻降。雲素剛,憂國將危,心不能忍,乃露布上書,移副三府,曰:

李雲は、あざなを行祖。甘陵の人だ。陰陽にくわしい。孝廉にあがり、白馬令。
桓帝の延熹二年(159)、大将軍の梁冀が誅され、中常侍の単超らが五侯となる。選舉を專權した。掖庭に、ハク氏をたてて皇后としたい。皇后は4人。地震あり。劉陶は憂國し、露布にて上書した。複写を、三公府にうつす。

臣聞皇后天下母,德配坤靈,得其人則五氏來備,不得其人則地動搖宮。比年災異,可謂多矣,皇天之戒,可謂至矣。高祖受命,至今三百六十四歲,君期一周,當有黃精代見,姓陳、項、虞、田、許氏,不可令此人居太尉、太傅典兵之官。舉厝至重,不可不慎。班功行賞,宜應其實。梁冀雖持權專擅,糯流天下,今以罪行誅,猶召家臣榏殺之耳。而猥封謀臣萬戶以上,高祖聞之,得無見非?西鋇列將,得無解體?孔子曰:「帝者,諦也。」今官位錯亂,小人諂進,財貨公行,政化日損,尺一拜用不經禦省。是帝欲不諦乎?

「皇后は、天下の母だ。皇后が不適なら、天地がみだれる。高帝が受命してから、364年だ。王統の周期は、1まわりした。黄精に代わられる。姓が、陳、項、虞、田、許氏は、黄徳だから、太尉や太傅にするな。兵を持たせるな。西北の列将(皇甫規、段熲)が離反したら、後漢はダメだ」と。小人たる宦官が、高位にあり賄賂する。桓帝は、皇帝の地位を「諦」するつもりか」

赤徳に黄徳がかわる。いい話!いろいろ引用したくなる。


帝得奏震怒,下有司逮雲,詔尚書都護劍戟送黃門北寺獄,使中常侍管霸與禦史廷尉雜考之。時,弘農五官掾杜眾傷雲以忠諫獲罪,上書願與雲同日死。帝愈怒,遂並下廷尉。

桓帝はいかり、李雲を司隷にくだす。尚書、都護に詔して、黃門北寺獄にくだす。中常侍の管霸は、禦史、廷尉とともに、李雲を取り調べた。弘農五官掾(弘農の属官、総務)の杜眾は、「李雲と同日に死にたい」と言った。桓帝は、いよいよ怒る。杜衆も下獄した。廷尉にいたす。

大鴻臚陳蕃上疏救雲曰:「李雲所言,雖不識禁忌,幹上逆旨,其意歸於忠國而已。昔高祖忍周昌不諱之諫,成帝赦朱雲腰領之誅。今日殺雲,臣恐剖心之譏即議於世矣。故敢觸龍鱗,冒昧以請。」太常楊秉、洛陽市長沐茂、郎中上官資並上疏請雲。帝恚甚,有司奏以為大不敬。詔切責蕃、秉,免歸田裏;茂、資貶秩二等。時,帝在濯龍池,管霸奏雲等事。霸詭言曰:「李雲野澤愚儒,杜眾郡中小吏,出於狂戇,不足加罪。」帝謂霸曰:「帝欲不諦,是何等語,而常侍欲原之邪?」顧使小黃門可其奏,雲、眾皆死獄中。後冀州刺史賈琮使行部,過祠雲墓,刻石表之。

大鴻臚の陳蕃は、上疏して李雲を弁護した。太常の楊秉、洛陽市長の沐茂、郎中の上官資も、李雲を助けたい。桓帝はい、いよいよ怒った。陳蕃らを罷免した。
ときに桓帝は、濯龍池にきた。桓帝は、李雲と杜衆を獄死させた。冀州刺史の賈琮(列伝21)は、李雲の功績を、石に刻む。

竇武とともに宦官に敗北、前漢の皇族・劉瑜

劉瑜字季節,廣陵人也。高祖父廣陵靖王。父辯,清河太守。瑜少好經學,尤善圖讖、天文、曆算之術。州郡禮請不就。延熹八年,太尉楊秉舉賢良方正,及到京師,上書陳事曰:

劉瑜は、あざなを季節。廣陵の人だ。高祖父は、廣陵靖王の劉守(武帝の曾孫)だ。父の劉辯は、清河太守。劉瑜は、図讖、天文、曆算がうまい。州郡が禮請したが、就かず。延熹八年(165)、太尉の楊秉が、劉瑜を賢良方正にあげる。京師にゆく。上書した。

ありふれた桓帝への批判。はぶく。


於是特詔召瑜問災咎之征,指事案經讖以對。勢政者欲令瑜依違其辭,而更策以它事。瑜複悉心以對,八千餘言,有切於前,帝竟不能用。拜為議郎。 及帝崩,大將軍竇武欲大誅宦官,乃引瑜為侍中,又以侍中尹勳為尚書令,共同謀畫。及武敗,瑜、勳並被誅。事在《武傳》。

災異による天のとがめを、劉瑜にきく。宦官は、答えをあいまいにしたい。8千余言で、さらにきびしく言う。桓帝は、もちいず。議郎となる。
桓帝が崩じた。大将軍の竇武は、宦官を殺すため、劉瑜を侍中とした。侍中の尹勲を、尚書令とした。竇武が敗れると、劉瑜と尹勲も殺された。竇武伝にある。

『後漢書』竇武伝を抄訳し、桓帝と霊帝初を整理
竇武の作戦に、前漢の皇族がまじっていた。それを確認できれば、満足。


勳字伯元,河南人。從祖睦為太尉,睦孫頌為司徒。勳為人剛毅直方。少時每讀書,得忠臣義士之事,未嘗不投書而仰歎。自以行不合於當時,不應州郡公府禮命。桓帝時,以有道征,四遷尚書令。延熹中,誅大將軍梁冀,帝召勳部分眾職,甚有方略,封宜陽鄉侯。僕射霍諝,尚書張敬、歐陽參、李偉、虞放、周永,並封亭侯。勳後再遷至九卿,以病免,拜為侍中。八年,中常侍具瑗、左忄官等有罪免,奪封邑,因黜勳等爵。

尹勲は、あざなを伯元。河南の人。從祖父の尹睦は、太尉となる。尹睦の孫・尹頌は、司徒となる。忠臣や義士の本を読み、いつも本を投げて、嘆いた。州郡や公府の禮命に応じず。桓帝のとき、有道の科目でめされた。4たび遷り、尚書令となる。延熹中(158-167)、大将軍の梁冀を誅してから、桓帝は尹勲におおくを任せる。尹勲は、方略(アイディア)がおおい。宜陽郷侯に封ぜらる。
僕射の霍諝,尚書の張敬、歐陽參、李偉、虞放、周永らは、亭侯となる。病気で免ず。侍中となる。延熹八年(165)、中常侍の具瑗、左ワンらは、罪があり封邑を奪われた。尹勲も、爵位をやめる。

なぜ尹勲は、中常侍と連動するか。梁冀を誅したのち、頼られたことといい。尹勲は、桓帝の宦官と、仲がいいのかも知れない。


瑜誅後,宦官悉焚其上書,以為訛言。子琬,傳瑜學,明占候,能著災異。舉方正,不行。

劉瑜の死後、宦官はすべて劉瑜の上書を焼く。ウソで上塗る。子の劉琬は、劉瑜の学問をつたえる。災異をよみとく。方正にあがるが、ゆかず。

霊帝の青蛇をうらなった、謝弼

謝弼字輔宣,東郡武陽人也。中直方正,為鄉邑所宗師。建寧二年,詔舉有道之士,弼與東海陳敦、玄菟公孫度俱對策,皆除郎中。 時,青蛇見前殿,大風拔木,詔公卿以下陳得失。弼上封事曰:

謝弼は、あざなを輔宣。東郡の武陽の人だ。建寧二年(169)、有道之士をあげる。謝弼、東海の陳敦、玄菟の公孫度が試験に応じ、みな郎中となる。169年4月、前殿に青蛇がでる。謝弼は、上封した。

臣聞和氣應於有德,妖異生乎失政。上天告譴,則王者思其愆;政道或虧,則奸臣當其罰。夫蛇者,陰氣所生;鱗者,甲兵之符也。《鴻範傳》曰:「厥極弱,時則有蛇龍之孽。」又熒惑守亢,裴回不去,法有近臣謀亂,發於左右。不知陛下所與從容帷幄之內,親信者為誰?宜急斥黜,以消天戒。臣又聞「惟虺惟蛇,女子之祥」。伏惟皇太后定策官闥,授立聖明,《書》雲:「父子兄弟,罪不相及。」竇氏之誅,豈宜咎延太后?幽隔空宮,愁感天心,有如霧露之疾,陛下當何面目以見天下?昔周襄王不能敬事其母,戎狄遂至交侵。孝和皇帝不絕竇後之恩,前世以為美談。禮為人後者為之子,今以桓帝為父,豈得不以太后為母哉?《援神契》曰:「天子行孝,四夷和平。」方今邊境日蹙,兵革蜂起,自非孝道,何以濟之!願陛下仰慕有虞蒸蒸之化,俯思《凱風》慰母之念。

謝弼は言った。「蛇は陰気、鱗は甲兵のしるし。竇武の失敗に連座し、竇太后を罰したのが、よくない」と。

臣又聞爵賞之設,必酬庸勳;開國承家,小人勿用。今功臣久外,未蒙爵秩,阿母寵私,乃享大封,大風雨雹,亦由於茲。又故太傅陳蕃,輔相陛下,勤身王室,夙夜匪懈,而見陷群邪,一旦誅滅。其為酷濫,駭動天下,而門生故吏,並離徙錮。蕃身已往,人百何贖!宜還其家屬,解除禁網。夫台宰重器,國命所繼。今之四公,唯司空劉寵斷斷守善,餘皆素餐致寇之人,必有折足覆餗之凶。可因災異,並加罷黜。征故司空王暢,長樂少府李膺,並居政事,庶災變可消,國祚惟永。臣山藪頑暗,未達國典。策曰「無有所隱」,敢不盡愚,用忘諱忌。伏惟陛下裁其誅罰。

「宦官が、よくない。もと太傅の陳蕃は宦官に殺された。陳蕃の門生故吏は、党錮された。いま四公のうち、司空の劉寵のみ、断固として善をまもる。もと司空の王暢、長楽太守の李膺をめせ」と。

左右惡其言,出為廣陵府丞。去官歸家。中常侍曹節從子紹為東郡太守,忿疾於弼,遂以它罪收考掠按,死獄中,時人悼傷焉。初平二年,司隸校尉趙廉訟弼忠節,求報其怨魂,乃收紹斬之。

宦官は、謝弼をにくむ。廣陵府丞とする。去官し、歸家する。
中常侍の曹節は、從子の曹紹が東郡太守となる。曹紹は、謝弼を獄死させた。初平二年(191)司隸校尉の趙廉は、謝弼の忠節にむくいるため、曹紹を斬った。

以上、『後漢書』列伝47、諌める人たちの列伝でした。110426

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