表紙 > 読書録 > 于濤『三国前伝』を訳した、『実録三国志』から抜粋

後漢後半~官渡の戦いまで

于濤『三国前伝』を鈴木博氏が訳した、『実録三国志』を抜粋。
ぼくが史料を読み忘れるのを防ぐための作業。自分で言うのもナンですが、いつも以上に、まるで文章になってません。内容については、『実録三国志』を、ご覧下さい。本文中に史料の出典があれば、カッコ内に記します。あまり書いてなかったが。

だれが天子になるのか

蹇碩が霊帝の遺詔をもらう。董皇后が内容を知る。何皇后が焦る(?)。皇太后や外戚は、賢明な臣下を弾圧した(『後漢書』皇后紀・序)

史実というより、范曄の歴史観ですが。宦者列伝も、都合により引用すべし。

官位の売買。富める人は先に金を払い、貧しき人はあとで金を払う(崔イン伝)。仲長統『昌言』はいう。外戚が近臣を抜擢し、庶民も異民族も怒る(?)。 「桓帝と比べると、私はどうか」と聞く霊帝の自己認識(楊震伝)。曹丕『典論』と、諸葛亮『出師の表』がうたう、後漢末の腐敗。
董皇后は、蹇碩とつうじ、おいの董重が車騎将軍。董皇后は何皇后にいう。
「車騎将軍の董重は、何進を殺せる」と。董氏は、何氏を甘くみる。

董皇后(霊帝の母)は、どこでしゃべった?何氏に殺された敗者、というイメージしかなかったが。けっこう、やる気たっぷりに、発言してたのね。蹇碩と董重が、自信の根拠だと、于濤氏はいう。


名士の仕官

中平元年三月壬子、党錮を解除し、徴辟。霊帝が政治の誤りを反省。
結果、党人が自由を得た。何進は、袁紹、伍孚、荀爽、荀攸、陳寔、王允、鄭泰、華歆、孔融、申屠蟠、王謙、劉表、王匡、鮑信、蒯越、陳琳、鄭玄、何顒、逢紀、辺譲、董扶、張紘ら、20余人を招聘した。党錮列伝など。

霊帝が党錮を解除し、何進が招聘する。招聘された人は、ここに、よくまとまってる。

霊帝は党人を、お飾りとした。鄭玄伝、申屠蟠伝で、隠者となる。
何進は、宦官にワイロした。張譲は、霊帝と不仲の何氏を皇后とした(何進伝)
何進は、党人でない袁紹を招いた。逢紀、何顒、荀攸らと、何進のブレンに。

大将軍の苦悩・宦官を殺すべきなのか

蹇碩は董皇后をはっきり支持。兵権があると油断。何進を殺す。
多くの宦官が、何進や何太后との協調を黙契し、黄門令が蹇碩を斬った
董重は自殺。董皇后が死ぬ。霊帝の死から3日、劉弁が即位。

霊帝が死んでから2日ほど、董皇后と蹇碩の時代があったとは、知らなかった。

何進は、非士人の外戚として、長史の王謙に求婚。王謙の祖父は王龔で、順帝の太尉。父の王暢は、八俊の1人。霊帝の司空。王謙その人の事績は伝わらないが、子孫は王粲と王弼。

ぼくは思う。おそらく袁紹のお友達、王謙。着目したい!

王謙は、何進を拒否。何進はガッカリ。だが、宦官より士人を選ぶ。妹とちがう。
袁紹の建議で、大将軍・何進、車騎将軍・何苗が、宦官を殺す。
主簿の陳琳が、軍隊召集に反対。
鄭泰は荀爽に「何進を補佐する必要はない」という。辞職し帰郷。

董卓、鄭玄、橋瑁、王匡、張楊、張遼、鮑信、毋丘毅をよぶ。
种邵は詔をもち、董卓を制止。袁紹は司隷校尉。袁紹の意図で、丁原を執金吾とする。何進が董卓を制止したのは、自らの政策の否定。何進は、宦官と士人の間でゆれ動いた。

けっきょく、話がよく分からない。「何進は、一貫しない」と書いてあるのだ。史料がわかりにくいから、これをまとめても、わかりにくくなるのだろう。全部、書き込もうとしてはいかん。


苦境を脱す、道はいずこ

後漢の二大毒素・外戚と宦官は、中平六年八月戊辰から辛未の4日間で消えた。
何進と何苗が死に、何太后は外戚政治ができない。
士大夫が主導権をもつ。袁術が先鋒、袁隗と袁紹が偽詔をつくる。
河南尹の王允が、中部掾の閔貢に宦官を自殺させた。

尚書侍郎の張温は、天子を無視する民と会話した。(逸民伝)
李固に推薦された黄瓊は、桓帝のとき太尉になるが、無気力に。(黄瓊伝)
橋玄は、みずから災異を起こしたと辞職(橋玄伝)。胡広は30余年、何もせず。

ぼくは思う。『後漢書』の歴史観を、そのまま引きついでいる。「外戚と宦官が、後漢をかたむけた」と。理解が深まらない。

外戚の竇武は、士人でもあるから、陳蕃と協力した。竇武の娘を選んだのは、陳蕃。尹勲を尚書令、劉瑜を侍中、馮述を屯騎校尉とした。太后の支持を仰いだので、失敗した。北軍の周靖と張奐をにぎられ、失敗した。

中平二年(185)、張温が辺章の討伐にむかうと、名士の張玄は説得。
「辺章でなく、洛陽を攻めよ」と。(張玄伝)

皇甫嵩といい、張温といい。高位の人が軍勢をもつと、こういうことを言われる。

王匡、鮑信は、軍事力をもった。いま72ページ。章がかわる。

武人の士人化、忠君・皇甫嵩のもくろみ

涼州の三明。張奐は、硃寵に師事。皇甫規は「梁冀はムダ飯食い」という。
三明は、文武を兼ねて、独立した政治勢力になるのは、不可能。

武力をもち、政治力をもつ。これを、後漢から独立するための準備だとする。涼州の三明から、皇甫嵩や董卓につなげる。やがて曹操につなげたいのだろう。

皇甫嵩の甥・皇甫酈は「天下をただすのは、皇甫嵩か董卓だ」という。!!
閻忠が皇甫嵩に、独立を提案(皇甫嵩伝)。
董卓は、段熲の推薦で、司徒の种暠に召される。西方で名声。
霊帝は董卓を、少府(九卿)に召す。衛兵をつれて并州へ。皇帝と取引。

袁紹は、陳蕃の失敗を参考にする。張奐と同位置の董卓を、味方にした。
何進は竇武とちがい、下賎。何進が方針変更し、宦官につくのを牽制。
公孫瓚によれば、丁原と董卓は、袁紹が指揮した。張楊と張遼は、丁原の部下。
橋瑁、王匡、鮑信、張楊ら、地方の軍は、完全に袁紹が指揮した。
袁術、曹操ら、中央の軍も、袁紹が動かすことができた。

何進は种邵に命じ、董卓を制止。种邵は、董卓の挙主・种暠の孫。
董卓の上書は3つある。『三国志』董卓伝。『後漢紀』中平六年7月。『後漢書』董卓伝。メン池、新安で上書したか。袁紹が引き入れたか。『典略』は、新安からの上書を載せる。「士大夫の望みにこたえて、宦官を滅ぼすのだ」と。異民族化した董卓だから、伝統にしばられず行動できた。

3つの上書は、併記するのが精一杯。ムリにツジツマをあわせては、推測が多くなるなあ。


非常の行動・少帝を廃す

董卓の出現は、史料がバラバラ。『三国志』董卓伝。少帝を北芒に迎える。『三国志』董卓伝にひく張璠『漢紀』、『献帝春秋』、『典略』。『後漢紀』。『後漢書』董卓伝。1つに決まらない。奉車都尉の董旻が、董卓を洛陽に手引したか。
『後漢書』董卓伝はいう。董太后と同族だと考え、朝廷を正した。いま105ページ。

矛先をかわす・不本意な同盟

周毖と伍瓊は、董卓と交渉する士大夫の代表。
司徒の黄琬と、司空の楊彪が、竇武、陳蕃の名誉を回復させる。
董卓は、鄭玄、荀爽、申屠蟠、蔡邕、陳紀、韓融、鄭泰、何顒を招聘する。何進の焼き直しだ。韓馥、劉岱、張邈、孔伷、張咨、許靖を地方官とする。
伊ケツ都尉の張承は、袁紹とおなじく董卓を除きたい。弟の張昭がとめる。河東の白波は、洛陽西部を遮断する可能性。董卓は白波を、牛輔に牽制させる。皇甫嵩が西方にいて、扶風にいる。蓋勲は、皇甫嵩に「東へ董卓を攻めよ」と言った。董卓は、東西からはさまれた。

挙兵して国難に赴き、有利に撤退

袁紹が三公の文書を偽造した。袁隗が、詔を偽って宦官を殺したときとおなじ。袁紹は、「少帝が董卓に追いつめられた」から、挙兵した。冀州の袁紹、韓馥。兗州の劉岱、張邈、袁遺、橋瑁、鮑信、曹操豫州刺史の孔伷、潁川太守の李旻、陳国相の許ヨウ。青州刺史の焦和。徐州の広陵太守の張超。荊州の後将軍の袁術、荊州刺史の王叡、南陽太守の張咨、長沙太守の孫堅。并州の西河太守の崔鈞。司隷の河内太守の王匡。

兗州と豫州、徐州あたりを暗記してなかった。意外に知らない。


毋丘毅と募兵した劉備。虎牙都尉の劉勲。白波と戦って袁紹に合流した張楊。於夫羅は張楊、袁紹に帰順。
布陣は4大集団。西北集団は、河内にいた袁紹と王匡、韓馥が後方支援、張楊と於夫羅がショウ水。王匡が主力で、河陽津にいる。中部集団は、酸棗にいる劉岱、張邈、張超、橋瑁、袁遺、鮑信、曹操。西南集団は、潁川にいる孔伷と李旻。南部集団に吸収された。南部集団は、魯陽にいる袁術と孫堅。
董卓は、扶風に漢安都護をおき、皇甫嵩の軍権を剥奪したい。皇甫嵩は、上京してしまった。董卓は、劉弁を殺した。関東は、道が2つ。献帝を承認するか、別の皇統を立てるか。袁紹が偽造した「三公の文書」は、劉弁を復位させることを目標とする。関東は、目的を失う。
広陵の郡曹・臧洪の宣言を、だれも聞かない。兗州刺史の劉岱は、東郡太守の橋瑁を殺した。劉岱は、冀州の劉子恵に手紙し、「董卓を殺し、韓馥を殺せ」と言う。鮑信は、袁紹が第二の董卓になると思い、河南で曹操を助けた。

遷都と帰順

董卓の遷都に反対したのは、司徒の楊彪、太尉の黄琬。河南尹の朱儁。陳紀。司空の荀爽は、董卓に賛成。董卓は、太傅の袁隗を殺す。董卓は、使者を出す。大鴻臚の韓融、少府の陰循、執金吾の胡母斑、将作大匠の呉循、越騎校尉の王環。韓融のほかは、関東に殺された。いま140ページ。

清流から、地方の実力者へ

韓馥は1年、鄴城で耐えた。袁紹と王匡に糧秣をおくり、董卓との衝突をさけた。韓馥は、劉虞を擁立することに積極的で、袁紹は及び腰になった(?)。

韓馥は、ぼくが読んだことがある史料に、推測が重ねられているだけ。はぶく。


董卓の暗殺、王允の一手

荀攸、鄭泰、何顒、种シュウ、伍孚が董卓を殺したい。种シュウは、种暠や种邵の同族か。ほかは何進が取り込んだ策士。司空の荀爽、司徒の王允、司隷校尉の黄琬も、董卓殺しに同調(荀攸伝)。

黄瓊伝は、読んでおきたい。

董卓は皇帝になろうとしない。蔡邕との会話からわかる。董卓が呂布を手元においたのは、并州軍を吸収するまえに、呂布を支配するための措置。涼州と并州は、解けず。董卓は、長安の東・陜県に、涼州軍を置き、関東を阻止。
181ページ、涼州軍の構成。185ページ、并州軍の構成。

献帝の皇統に対する再認識

張済が弘農で長安を守る。馬日磾と趙岐は、華歆伝も記す。馬日磾は、涼州と袁術の同盟を実現する使者。これは袁紹の排斥を意味する。だれの意図か。賈詡か。ちがう。
長安は、馬日磾、皇甫嵩、趙謙、淳于嘉、楊彪、周忠がいる。 袁術とむすんだのは、楊彪の策略か。侍中の馬宇、諌議大夫の种邵、左中郎将の劉範は、韓遂と馬騰に助けられた。侍中の楊奇、黄門侍郎の丁沖、鍾繇、尚書左丞の魯充、尚書郎の韓ヒンは、楊奉と楊帛を李傕から寝返らせる。

こうやってリストアップしてくれるのは、たすかる。


献帝否定派は、劉岱、孔伷、張邈、橋瑁、張超らだ。酸棗の盟約(臧洪伝)で、少帝を皇帝と見なす。韓馥は、献帝は霊帝の子でないと言い(公孫瓚伝にひく『呉書』)、袁紹も血統を否定。献帝尊崇派は、劉虞、袁術、曹操。董卓と献帝を分離し、董卓のみ討とうとする。皇甫嵩、朱儁は、1枚の命令書で軍権を放棄した。
趙岐は、病気で陳留に2年とどまる(?)。

どこに書いてあった?陳留は、曹操、張邈、袁術の重要な拠点!もともと曹操が挙兵したのは、陳留だった。張邈にたすけられて。

曹操は、王必を長安にやる。河内に、董卓が置いた張楊がいる。長安は、張楊の推薦、董昭のワイロを受けたが、王必を興隆した。鍾繇がのがした。潁川の四族・荀、陳、韓、鍾のならび。曹操は、初平三年の長安の情勢を理解して、王必を送った。曹操は、辺譲を殺し、張邈に警戒された。曹操は陳国を突破口に、補給を得た(劉寵伝)。豫州にすすむ。

劉寵が袁術に殺されたタイミングが、よくわからないんだよね。


董承は、董皇后のおい。裴松之、『後漢書』で境遇がちがう。董昭は洛陽から去らせる。董昭は、魯陽を陽動し、梁県の楊奉をだました。許県は、袁紹曰く「低湿地」で(?)、四戦の地。冀州の武力を避けるため、許県を選んだか。袁術は、許県にきたことを天意とし、慌てて皇帝を称した(?)。

本が、うまく訳せてないのか?それとも原文が意味不明?袁術のせい?


恩賜の御衣の密勅

曹魏建国の制度史の話は飛ばし、275ページにとぶ。
洛陽で張楊は「天子はみんなのもの」と言った。袁紹は天子を擁さず。献帝は賢い。曹操は背中に汗。194年、粥を実証。河東で献帝は、呂布を召し寄せた(呂布伝にひく『英雄記』)。献帝が頼れるのは、関東の士人でなく、呂布だった。呂布は兵糧と兵力が少なく、呼応せず。献帝は、董承に密勅した。献帝紀、先主伝。
献帝は、祖母が董皇后で、妻は董承の娘。董承は牛輔の部隊にはいり、楊奉と李傕を反目させ、献帝を護衛した。曹洪を拒んだ。韓暹に破れ、曹操に投じた。董承は、曹操による献帝奉戴に反発した。199年3月から6月のあいだ、衛将軍から車騎将軍にすすむ。行車騎将軍の曹操から、剥奪した。曹操が袁紹に忙殺される隙、董承は、許都の朝廷で、最高の軍事長官になった
董承の同志・种シュウは、先主伝で長水校尉、献帝紀で越騎校尉。どちらも後漢の中央軍。だが曹操が、王必に許都を防衛させ、校尉が兵を持たないかも。

袁術を迎撃する劉備には、朱霊がつく。朱霊は袁紹の旧部隊。曹操は、朱霊の忠誠を試した。曹操は内外の兵を再編し、中軍をもつ。199年、尚書左僕射と右僕射をもうけ、荀彧と鍾繇に固めさせた。

以下、時代がくだるので、また今度。官渡の戦い前に、曹操が着手した制度改革は、まったくぼくの盲点でした。いろいろ、読んでみたい。110413

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