表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

225年、諸葛亮の南征、曹丕の凍結

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

225年春、陳羣と司馬懿に任せ、孫呉を征つ

春,二月,詔以陳群為鎮軍大將軍,隨車駕董督眾軍,錄行尚書事;司馬懿為撫軍 大將軍,留許昌,督後台文書。三月,帝行如召陵,通討虜渠;乙巳,還許昌。 并州刺史梁習討軻比能,大破之。

225年春2月、陳羣を鎮軍大將軍とした。陳羣は、曹丕の車駕にしたがい、軍勢を董督した。陳羣は、録尚書事を代行した。司馬懿は、撫軍 大將軍となり、許昌に留まった。司馬懿は、後台の文書を督した。
225年3月、曹丕は召陵にきた。通討虜渠。

通討虜渠、ってなんだっけ?

3月乙巳、曹丕は許昌に還った。
并州刺史の梁習は、軻比能をおおいに破った。

漢諸葛亮率眾討雍闓等,參軍馬謖送之數十裡。亮曰:「雖共謀之歷年,今可更惠 良規。」謖曰:「南中恃其險遠,不服久矣。雖今日破之,明日復反耳。今公方傾國北 伐以事強賊,彼知官勢內虛,其叛亦速。若殄盡遺類以除後患,既非仁者之情,且又不 可倉卒也。夫用兵之道,攻心為上,攻城為下,心戰為上,兵戰為下,願公服其心而 已。」亮納其言。謖,良之弟也。

諸葛亮は、雍闓らを討った。参軍の馬謖は、諸葛亮を見送った。馬謖は諸葛亮に言った。「南蛮の心を攻めなさい」と。諸葛亮は、馬謖の言葉をみとめた。馬謖は、馬良の弟だ。

曹丕が、孫権を撃つ準備をしているとき、諸葛亮は南征した。


辛未,帝以舟師復征吳,群臣大議,宮正鮑勳諫曰:「王師屢征而未有所克者,蓋 以吳、蜀脣齒相依,憑阻山水,有難拔之勢故也。往年龍舟飄蕩,隔在南岸,聖躬蹈危, 臣下破膽,此時宗廟幾至傾覆,為百世之戒。今又勞兵襲遠,日費千金,中國虛耗,令 黠虜玩威,臣竊以為不可。」帝怒,左遷勳為治書執法。勳,信之子也。

3月辛未、ふたたぶ曹丕は、孫呉を征つ。
宮正の鮑勛は、曹丕をいさめた。 曹丕は怒って、鮑勛を左遷した。鮑勛を治書とし、法を執らせた。鮑勛は、鮑信の子である。

やっと『資治通鑑』が、今月の頭に読んだ、宮城谷『三国志』九巻の世界へ。


225年夏、孫呉の2代丞相・顧雍

夏,五月,戊 申,帝如譙。
吳丞相北海孫劭卒。初,吳當置丞相,眾議歸張昭,吳王曰:「方今多事,職大事 責重,非所以優之也。」及劭卒,百僚復舉昭,吳王曰:「孤豈為子布有愛乎!領丞相 事煩,而此公性剛,所言不從,怨咎將興,非所以益之也。」

225年夏5月戊 申、曹丕は譙郡にきた。
呉の丞相をつとめる北海の孫邵が死んだ。はじめ孫呉に丞相を置くとき、みな張昭を推した。張昭はウザいから、孫権がやめた。

六月,以太常顧雍為丞相、 平尚書事。雍為人寡言,舉動時當,吳王嘗歎曰:「顧君不言,言必有中。」至飲宴歡 樂之際,左右恐有酒失,而雍必見之,是以不敢肆情。吳王亦曰:「顧公在座,使人不 樂。」其見憚如此。初領尚書令,封陽遂鄉侯;拜侯還寺,而家人不知,後聞,乃驚。 及為相,其所選用文武將吏,各隨能所任,心無適莫。
時訪逮民間及政職所宜,輒密以 聞。若見納用,則歸之於上;不用,終不宣洩。吳王以此重之。然於公朝有所陳及,辭 色雖順而所執者正;軍國得失,自非面見,口未嘗言。
王常令中書郎詣雍有所咨訪,若 合雍意,事可施行,即相與反覆究而論之,為設酒食;如不合意,雍即正色改容,默默 不言,無所施設。郎退告王,王曰:「顧公歡悅,是事合宜也;其不言者,是事未平也。 孤當重思之。」

225年6月、太常の顧雍を、丞相、平尚書事とした。孫権は言った。「顧雍は酒を飲まない。顧雍がいると、宴会がつまらなくなる」と。顧雍は、官位をもらっても、家人に話さなかった。
顧雍が、丞相になってから。顧雍の政策が採用されても、自分のアイディアだと言い触らさなかった。顧雍は、孫権の意見に反対するとき、黙ったままだ。孫権は、顧雍が反対した政策を、実行しなかった。

このあたり、顧雍伝にあります。そのうち、やりましょう。ウザさでいくと、張昭とは質がちがうようです。


江邊諸將,各欲立功自效,多陳便宜,有所掩襲。王以訪雍。雍曰: 「臣聞兵法戒於小利,此等所陳,欲邀功名而為其身,非為國也。陛下宜禁制,苟不足 以曜威損敵,所不宜聽也。」王從之。

顧雍は、孫権の部将たちが、功名を立てたいことを、にがく思った。顧雍は孫権に言った。「兵法は、目先の利益をとることを、戒めています。部将たちは、国のためでなく、自分のために活躍したいようだ。部将たちを、制止しなさい」
孫権は、顧雍に従った。

利成郡兵蔡方等反,殺太守徐質,推郡人唐咨為主,詔屯騎校尉任福等討平之。咨 自海道亡入吳,吳人以為將軍。

利成郡の兵・蔡方らは、利成太守の徐質を殺した。郡人の唐咨を、トップにたてた。屯騎校尉の任福らが、平定した。唐咨は海に逃げて、孫呉に入った。唐咨は、孫呉で将軍となった。

利成郡を、ぼくは知らない。甘いなあ。そして唐咨は、あの淮南の三叛のとき、登場する唐咨だろうか? イキな伏線です。


225年秋、諸葛亮が孟獲の心を平定する

秋,七月,立皇子鑒為東武陽王。 漢諸葛亮至南中,所在戰捷,亮由越巂入,斬雍闓及高定。使庲降督益州李恢由益 州入,門下督巴西馬忠由牂柯入,擊破諸縣,復與亮合。孟獲收闓餘眾以拒亮。獲素為 夷、漢所服,亮募生致之,既得,使觀於營陳之間,問曰:「此軍何如?」獲曰:「向 者不知虛實,故敗。今蒙賜觀營陳,若只如此,即定易勝耳。」亮笑,縱使更戰。七樅 七禽而亮猶遣獲,獲止不去,曰:「公,天威也,南人不復反矣!」亮遂至滇池。益州、 永昌、牂柯、越巂四郡皆平,亮即其渠率而用之。

225年秋7月、曹丕は、皇子・曹鑒を東武陽王とした。
諸葛亮は、南中にきた。越巂に入り、雍闓と高定を斬った。庲降督をつとめる益州の李恢は、益州に入った。門下督をつとめる巴西の馬忠は、牂柯に入った。李恢と馬忠は、諸葛亮と合わさった。
孟獲は、雍闓の兵をあつめた。孟獲は、諸葛亮に七樅七禽された。諸葛亮は、滇池にきた。益州、 永昌、牂柯、越巂の4郡は、諸葛亮に平定された。

或以諫亮,亮曰:「若留外人,則當 留兵,兵留則無所食,一不易也;加夷新傷破,父兄死喪,留外人而無兵者,必成禍患, 二不易也;又,夷累有廢殺之罪,自嫌釁重,若留外人,終不相信,三不易也。今吾欲 使不留兵,不運糧,而綱紀粗定,夷、漢粗安故耳。」亮於是悉收其俊傑孟獲等以為官 屬,出其金、銀、丹、漆、耕牛、戰馬以給軍國之用。自是終亮之世,夷不復反。

ある人が、諸葛亮をいさめた。「成都の役人を、南中4郡に置いてはいけません」」と。諸葛亮は、孟獲らを官位をつけ、統治を任せた。物資を提出させた。諸葛亮が死ぬまでは、南中は反さなかった。

孟獲と諸葛亮の、七樅七禽の伝説 を載せたり。諸葛亮の生前は、南中は治まったという伝説を載せたり。司馬光、わりに諸葛亮をヒイキしてる?


八月,帝以舟師自譙循渦入淮。尚書蔣濟表言水道難通,帝不從。

225年8月、曹丕は、譙から淮水に入った。尚書の蒋済は、水路を通りにくいから、行くなと上表した。曹丕は、蒋済に従わず。

蒋済の言うとおりになるのだ。曹丕、ダメに描かれるなあ。


225年冬、長江が凍結し、曹丕が大敗する

冬,十月,如廣 陵故城,臨江觀兵,戎卒十餘萬,旌旗數百裡,有渡江之志。吳人嚴兵固守。時大寒, 冰,舟不得入江。帝見波濤洶湧,歎曰:「嗟乎,固天所以限南北也!」遂歸。

225年冬10月、曹丕は、広陵の故城にきた。長江にのぞみ、兵を観た。魏軍は、10余万。魏軍の旌旗は、数百里になびく。長江を渡ろうとした。
寒くて、長江が凍った。曹丕は「天は、南北を区切ろうとするのか」と歎じた。曹丕は、還ることにした。

孫韶遣 將高壽等率敢死之士五百人,於徑路夜要帝,帝大驚。壽等獲副車、羽蓋以還。於是戰 船數千皆滯不得行,議者欲就留兵屯田,蔣濟以為:「東近湖,北臨淮,若水盛時,賊 易為寇,不可安屯。」帝從之,車駕即發。
還,到精湖,水稍盡,盡留船付濟。船連延 在數百裡中,濟更鑿地作四五道,蹴船令聚;豫作土豚遏斷湖水,皆引後船,一時開遏 入淮中,乃得還。
十一月,東武陽王鑒薨。

孫呉の孫韶は500人で、還りつつある曹丕を夜襲した。孫韶は、曹丕の副車や羽蓋をうばった。
数千の魏軍が、船で足止めにあった。「ここで屯田しよう」と議した。蒋済は止めた。「東は湖にちかく、北は淮水にのぞむ。もし増水したら、孫呉が攻めやすい土地だ」と。曹丕は蒋済をみとめ、出発した。
曹丕は、精湖にきた。蒋済が通路を整備したので、曹丕は、還ることができた。
225年11月、東武陽王の曹鑒が死んだ。101117

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