表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

223年、諸葛亮が執政し、魏呉が絶交する

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

223年2月、曹仁と夏侯尚の撤退

春,正月,曹真使張郃擊破吳兵,遂奪據江陵中洲。 二月,諸葛亮至永安。 曹仁以步騎數萬向濡須,先揚聲欲東攻羨溪,硃桓分兵赴之。既行,仁以大軍徑進。 桓聞之,追還羨溪兵,兵未到而仁奄至。時桓手下及所部兵在者才五千人,諸將業業各 有懼心,桓喻之曰:「凡兩軍交對,勝負在將,不在眾寡。諸君聞曹仁用兵行師,孰與 桓邪?兵法所以稱『客倍而主人半』者,謂俱在平原無城隍之守,又謂士卒勇怯齊等故 耳。今仁既非智勇,加其士卒甚怯,又千里步涉,人馬罷困。桓與諸君共據高城,南臨 大江,北背山陵,以逸待勞,為主制客,此百戰百勝之勢,雖曹丕自來,尚不足憂,況 仁等邪!」桓乃偃旗鼓,外示虛弱以誘致仁。仁遣其子泰攻濡須城,分遣將軍常雕、王 雙等乘油船別襲中洲。中洲者,桓部曲妻子所在也。蔣濟曰:「賊據西岸,列船上流, 而兵入洲中,是為自內地獄,危亡之道也。」仁不從,自將萬人留橐皋,為泰等後援。 桓遣別將擊雕等而身自拒泰,泰燒營退。桓遂斬常雕,生虜王雙,臨陳殺溺死者千餘人。

223年春正月、曹真は張郃に、呉兵を撃たせた。張郃は、江陵の中洲をうばった。
223年2月、諸葛亮は永安にきた。
曹仁の歩騎数万は、濡須に向かった。曹仁は「東で、羨溪を撃つぞ」と声をあげた。呉の朱桓は、兵を分けて羨溪にいった。曹仁の大軍は、朱桓を肩透かしにし、引きずり回した。

濡須の戦いの経緯は、後日、しぼりこんでやりたい。ぼくは、なにも知らない。

曹仁は、子の曹泰に、濡須を攻めさせた。曹仁は、將軍の常雕、王雙らに、船に油をのせ、中洲を襲わせた。中洲には、朱桓の部曲と妻子がいた。蒋済は曹仁に提案した。「朱桓は西岸にいます。中洲に、わが兵を入れるのは危険です」と。曹仁は蒋済に従わず。曹仁は橐皋にいて、曹泰を後援した。朱桓は曹仁軍をふせいだ。曹泰は、軍営を焼いて退いた。朱桓は、常雕を斬り、王雙を生けどった。殺され溺死した曹仁軍は、千余人だ。

初,呂蒙病篤,吳王問曰:「卿如不起,誰可代者?」蒙對曰:「硃然膽守有餘, 愚以為可任。」硃然者,九真太守硃治姊子也;本姓施氏,治養以為子,時為昭武將軍。 蒙卒,吳王假然節,鎮江陵。
及曹真等圍江陵,破孫盛,吳王遣諸葛瑾等將兵往解圍, 夏侯尚擊卻之。江陵中外斷絕,城中兵多腫病,堪戰者裁五千人。真等起土山,鑿地道, 立樓櫓臨城,弓矢雨注,將士皆失色;然晏如無恐意,方厲吏士,伺間隙,攻破魏兩屯。 魏兵圍然凡六月,江陵令姚泰領兵備城北門,見外兵盛,城中人少,谷食且盡,懼不濟, 謀為內應,然覺而殺之。

はじめ呂蒙が病気になり、孫権は聞いた。「呂蒙の代わりは、誰か」と。呂蒙は「朱然です」と答えた。朱然は、九真太守・硃治の姉の子だ。本姓は施氏だが、朱治が養子になった。ときに朱治は、昭武將軍だ。呂蒙が死ぬと、朱然は假然節され、江陵に鎮した。
曹真らが江陵を囲み、孫盛を破った。孫権は、諸葛瑾を送った。夏侯尚は、諸葛瑾を撃った。江陵は、内外と断絶した。江陵の城内は病気がおおく、戦えるのは5千にだけだ。曹真の城攻をうけ、士気を失った。朱然が、魏軍に反撃した。魏軍は、江陵を6ヶ月かこんだ。
江陵令の姚泰は、江陵の北門をまもる。魏軍がつよく、呉軍は人数も食糧もない。姚泰は、助かりたくて、魏に内応した。朱然は、姚泰を斬った。

時江水淺狹,夏侯尚欲乘船將步騎入渚中安屯,作浮橋,南北 往來,議者多以為城必可拔。董昭上疏曰:「武皇帝智勇過人,而用兵畏敵,不敢輕之 若此也。夫兵好進惡退,常然之數。平地無險,猶尚艱難,就當深入,還道宜利,兵有 進退,不可如意。今屯渚中,至深也;浮橋而濟,至危也;一道而行,至狹也。三者, 兵家所忌,而今行之,賊頻攻橋,誤有漏失,渚中精銳非魏之有,將轉化為吳矣。臣私 戚之,忘寢與食,而議者怡然不以為憂,豈不惑哉!加江水向長,一旦暴增,何以防御! 就不破賊,尚當自完,奈何乘危,不以為懼!惟陛下察之。」帝即詔尚等促出,吳人兩 頭並前,魏兵一道引去,不時得洩,僅而獲濟。吳將潘璋已作荻筏,欲以燒浮橋,會尚 退而止。後旬日,江水大漲,帝謂董昭曰:「君論此事,何其審也!」會天大疫,帝悉 召諸軍還。

ときに長江は水量がすくない。夏侯尚は、浮橋をつくり、長江を往来した。おおくの人は、江陵をぬけると考えた。董昭は、江陵を抜けないと考えた。「曹操さまですら、慎重に戦いました。もし長江の水量が増えたら、夏侯尚の浮橋は、流されます」
曹丕は、董昭をみとめ、夏侯尚を引かせた。呉将の潘璋は、夏侯尚の浮橋を焼こうとした。夏侯尚が撤退したので、焼くのをやめた。のち10日、長江は増水した。曹丕は、董昭をほめた。魏軍に病気がはやり、曹丕はすべて撤退させた。

223年3月、曹仁の死、劉備の死

三月,丙申,車駕還洛陽。初,帝問賈詡曰:「吾欲伐不從命,以一天下,吳、蜀 何先?」對曰:「攻取者先兵權,建本者尚德化。陛下應期受禪,撫臨率土,若綏之以 文德而俟其變,則平之不難矣。吳、蜀雖蕞爾小國,依山阻水。劉備有雄才,諸葛亮善 治國;孫權識虛實,陸遜見兵勢。據險守要,泛舟江湖,皆難卒謀也。用兵之道,先勝 後戰,量敵論將;故舉無遺策。臣竊料群臣無備、權對,雖以天威臨之,未見萬全之勢 也。昔舜舞干戚而有苗服,臣以為當今宜先文後武。」帝不納,軍竟無功。
丁未,陳忠侯曹仁卒。

223年3月丙申、曹丕は洛陽にかえった。はじめ曹丕は、賈詡に聞いた。「呉と蜀、どちらを先に討つべきか」と。賈詡は答えた。「文を先にし、武を後にしなさい。呉と蜀の優先順位を考える、問題の立て方がそもそも誤りである」と。曹丕は賈詡を納れず、結果の出ない軍事行動をした。
3月丁未、陳忠侯の曹仁が死んだ。

曹丕が、ろくでもない孫権攻めをするから、曹仁が死んじゃったじゃないか。司馬光は、そう曹丕を責めたいようだ。


初,黃元為諸葛亮所不善,聞漢主疾病,懼有後患,故舉郡反,燒臨邛城。時亮東 行省疾,成都單虛,元益無所憚。益州治中從事楊洪,啟太子遣將軍陳曶、鄭綽討元。 眾議以為元若不能圍成都,當由越巂據南中。洪曰:「元素性兇暴,無他恩信,何能辦 此!不過乘水東下,冀主上平安,面縛歸死;如其有異,奔吳求活耳。但敕曶、綽於南 安峽口邀遮,即便得矣。」元軍敗,果順江東下,曶、綽生獲,斬之。
漢主病篤,命丞 相亮輔太子,以尚書令李嚴為副。漢主謂亮曰:「君才十倍曹丕,必能安國,終定大事。 若嗣子可輔,輔之;如其不才,君可自取。」亮涕泣曰:「臣敢不竭股肱之力,效忠貞 之節,繼之以死!」漢主又為詔敕太子曰:「人五十不稱夭,吾年已六十有餘,何所復 恨,但以卿兄弟為念耳。勉之,勉之!勿以惡小而為之,勿以善小而不為!惟賢惟德, 可以服人。汝父德薄,不足效也。汝與丞相從事,事之如父。」

はじめ黄元と諸葛亮は、仲がわるい。劉備が病気になったから、黄元は反した。諸葛亮は永安にいるから、成都のルスを心配した。益州治中從事の楊洪は、劉禅に「將軍の陳曶と鄭綽に、黄元を討たせましょう」と提案した。黄元を生け捕ることができた。
劉備は危篤した。丞相の諸葛亮と、尚書令の李厳に、劉禅をたくした。劉備は諸葛亮に言った。「きみの才能は、曹丕に十倍する。劉禅がふさわしくなければ、きみが国をとれ」と。諸葛亮は、涕泣してことわった。
劉備は劉禅に「勉めよ。諸葛亮を父とせよ」と遺言した。

曹仁と劉備が、ほぼ同月に死んだ。意識したことが、なかった。しかも曹仁も劉備も、孫権に敗北したせいで、失意して死んだ。


223年夏、諸葛亮が執政する

夏,四月,癸巳,漢主 殂於永安,謚曰昭烈。丞相亮奉喪還成都,以李嚴為中都護,留鎮永安。

223年4月癸巳、劉備は永安で死んだ。昭烈と贈られた。諸葛亮は、劉備の死体を、成都にもどした。李厳は中護軍となり、永安にいた。

五月,太子禪即位,時年十七。尊皇後曰皇太后,大赦,改元建興。封丞相亮為武 鄉侯,領益州牧,政事無鉅細,鹹決於亮。亮乃約官職,修法制,發教與群下曰:「夫 參署者,集眾思,廣忠益也。若遠小嫌,難相違覆,曠闕損矣。違覆而得中,猶棄敝趫 而獲珠玉。然人心苦不能盡,惟徐元直處茲不惑。又,董幼宰參署七年,事有不至,至 於十反,來相啟告。苟能慕元直之十一,幼宰之勤渠,有忠於國,則亮可以少過矣。」 又曰:「昔初交州平,屢聞得失;後交元直,勤見啟誨;前參事於幼宰,每言則盡;後 從事於偉度,數有諫止。雖資性鄙暗,不能悉納,然與此四子終始好合,亦足以明其不 疑於直言也。」偉度者,亮主簿義陽胡濟也。

223年5月、劉禅は17歳で即位した。建興と改元した。丞相の諸葛亮は、益州牧となった。諸葛亮が、蜀漢の政治をした。諸葛亮は、郡臣に方針を示した。
「人はくじけて、正しいことを辞めやすい。ただ徐庶は、惑わなかった。董和は7年勤め、ミスをすべて報告した。徐庶や董和を手本にして、私(諸葛亮)は国に尽くそう」
また諸葛亮は言った。「むかし崔州平から、得失を聞いた。徐庶と董和からも、教わった。主簿をつとめる義陽の胡濟に、諌められた。私は4人の教えを活かしきれないが、がんばる。欠点の指摘を、よろしく」

亮嘗自校簿書,主簿楊顒直入,諫曰: 「為治有體,上下不可相侵。請為明公以作家譬之。今有人,使奴執耕稼,婢典炊爨, 雞主司晨,犬主吠盜,牛負重載,馬涉遠路。私業無曠,所求皆足,雍容高枕,飲食而 已。忽一旦盡欲以身親其役,不復付任,勞其體力,為此碎務,形疲神困,終無一成。 豈其智之不如奴婢雞狗哉?失為家主之法也。是故古人稱『坐而論道,謂之王公;作而 行之,謂之士大夫。』故丙吉不問橫道死人而憂牛喘,陳平不肯知錢谷之數,雲『自有 主者』,彼誠達於位分之體也。今明公為治,乃躬自校簿書,流汗終日,不亦勞乎!」 亮謝之。及顒卒,亮垂泣三日。

諸葛亮はかつて、みずから文章を作成した。主簿の楊顒は、諸葛亮を諌めた。「人には役割があります。諸葛亮さんは、治世が仕事なのに、下役人のやる作業をしている。いけません」

諸葛亮は、こんな人だったんだろうなあ。ほんとうに。

諸葛亮は、楊顒に謝した。楊顒が死ぬと、諸葛亮は3日泣いた。

223年6月、賀斉が太守を捕え、雍闓がそむく

六月,甲戌,任城威王彰卒。甲申,魏壽肅侯賈詡卒。大水。
吳賀齊襲蘄春,虜太守晉宗以歸。

223年6月甲戌、任城威王の曹彰が死んだ。6月甲申、魏の壽肅侯の賈詡が死んだ。大雨した。
呉の賀斉が、蘄春を襲った。蘄春太守の晉宗を捕え、賀斉は帰った。

孫呉が、外征の成果をあげた!太守を捕えた!めずらしい!


初,益州郡耆帥雍闓殺太守正昂,因士燮以求附於吳,又執太守成都張裔以與吳, 吳以闓為永昌太守。永昌功曹呂凱、府丞王伉率吏士閉境拒守,闓不能進,使郡人孟獲 誘扇諸夷,諸夷皆從之。牂柯太守硃褒、越巂夷王高定皆叛應闓。諸葛亮以新遭大喪, 皆撫而不討,務農殖谷,閉關息民,民安食足而後用之。

はじめ益州郡の耆帥・雍闓は、益州太守の正昂を殺した。士燮をたより、孫呉についた。また益州太守をつとめる成都の張裔を、呉におくった。孫権は、雍闓を永昌太守とした。
永昌功曹の呂凱と、府丞の王伉は、境界をとじて雍闓をこばんだ。雍闓は、永昌郡に入れない。雍闓は、永昌郡の人・孟獲に、諸夷を扇動させた。諸夷は、みな孟獲に従った。

孟獲は、永昌郡の人で、雍闓に動かされている。『三国演義』の影響で、孟獲がトップに思えるが、ちがう。雍闓がトップである。孟獲は、雍闓に動かされ、直接的には永昌功曹の呂凱と、府丞の王伉にそむいている。

牂柯太守の硃褒と、越巂夷王の高定は、みな雍闓に応じた。諸葛亮は、劉備の喪中だから、雍闓を討てない。諸葛亮は、関所をとじて守り、食糧を蓄えた。

223年秋、またも曹丕が「東巡」する

秋,八月,丁卯,以廷尉鐘繇 為太尉,治書執法高柔代為廷尉。是時三公無事,又希與朝政,柔上疏曰:「公輔之臣, 皆國之棟樑,民所具瞻,而置之三事,不使知政,遂各偃息養高,鮮有進納,誠非朝廷 崇用大臣之義,大臣獻可替否之謂也。古者刑政有疑,輒議於槐、棘之下。自今之後, 朝有疑議及刑獄大事,宜數以咨訪三公。三公朝朔、望之日,又可特延入講論得失,博 盡事情,庶有補起天聽,光益大化。」帝嘉納焉。
辛未,帝校獵於滎陽,遂東巡。

223年秋8月丁卯、廷尉の鐘繇を、太尉とした。治書執法の高柔を、鍾繇に代えて廷尉とした。高柔は、上疏した。「いま三公は、政治を見ていません。でも三公は 、政治に関わるべきです」と。曹丕は喜んで、高柔をみとめた。
8月辛未、曹丕は滎陽で、校獵した。東をめぐった。

「東巡」のもつ、政治的な意味が分からない。洛陽から、どこまで東に行っているんだろう。豫州をウロウロするくらい? 孫権への牽制、という意味はないのか。曹丕は、いちども西に行かないのに、東をめぐりまくる。
あつかう時代で『漢書』から『晋書』まで、中央研究院で検索。「東巡」は注釈も含めると68件。うち『三国志』文帝紀は4件。「西巡」は13件。曹丕だけが、東が多いのではなさそう。西はすぐ黄河にぶつかるから、行きにくい?


九月,甲辰,如許昌。
漢尚書義陽鄧芝言於諸葛亮曰:「今主上幼弱,初即尊位,宜遣大使重申吳好。」 亮曰:「吾思之久矣,未得其人耳,今日始得之。」芝問:「其人為誰?」亮曰:「即 使君也。」乃遣芝以中郎將修好於吳。

223年9月甲辰、曹丕は許昌にきた。
蜀漢で尚書をつとめる義陽の鄧芝は、諸葛亮に言った。「劉禅は幼い。孫権と友好を重ねましょう」と。諸葛亮は、鄧芝を中郎将にして、孫呉におくった。

223年10月、鄧芝が、孫呉と曹魏を絶交させる

冬,十月,芝至吳。時吳王猶未與魏絕,狐疑, 不時見芝。芝乃自表請見曰:「臣今來,亦欲為吳,非但為蜀也。」吳王見之,曰: 「孤誠願與蜀和親,然恐蜀主幼弱,國小勢逼,為魏所乘,不自保全耳。」芝對曰: 「吳、蜀二國,四州之地。大王命世之英,諸葛亮亦一時之傑也;蜀有重險之固,吳有 三江之阻。合此二長,共為脣齒,進可並兼天下,退可鼎足而立,此理之自然也。大王 今若委質於魏,魏必上望大王之入朝,下求太子之內侍,若不從命,則奉辭伐叛,蜀亦 順流見可而進。如此,江南之地非復大王之有也。」吳王默然良久曰:「君言是也。」 遂絕魏,專與漢連和。
是歲,漢主立妃張氏為皇後。

223年冬10月、鄧芝は孫呉にきた。孫権は、曹丕と完全に切れていないので、鄧芝を歓迎しない。鄧芝は「蜀漢のためだけでなく、孫呉のためも思い、使者にきました」と言った。鄧芝は、蜀漢の強さと、孫呉にとっての必要性を説明した。「もし蜀漢が攻めたら、江南は、孫権さんの領地でなくなります」と。
孫権は「鄧芝の言うとおりだ」とみとめ、曹魏と絶交した。孫権は、もっぱら蜀漢とだけ連和した。

鄧芝は、夷陵のあとの、国交回復に行ったのではない。すでに国交は、劉備のとき回復していた。さらに進めて、孫呉を曹魏と絶交させるため、使者したのだ。

223年、劉禅は、妃の張氏を皇后とした。101117

inserted by FC2 system