表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

218年、劉備が漢中を攻め、曹彰が烏丸平定

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

218年春、曹休が呉蘭を斬り、張飛がにげる

春,正月,吉邈等率其黨千餘人,夜攻王必,燒其門,射必中肩,帳下督扶必奔南 城。會天明,邈等眾潰,必與穎川典農中郎將嚴匡共討斬之。

218年春正月、吉邈らは1000余人をひきい、夜に王必を攻めた。王必の門を焼き、肩を射た。王必の部下は、王必を南城に逃がした。夜明け、吉邈が敗れた。王必は、穎川の典農中郎將・嚴匡とともに、吉邈を斬った。

伊藤晋太郎先生は、吉邈の反乱が、関羽の北伐に関係があるとする。


三月,有星孛於東方。
曹洪將擊吳蘭,張飛屯固山,聲言欲斷軍後,眾議狐疑。騎都尉曹休曰:「賊實斷 道者,當伏兵潛行;今乃先張聲勢,此其不能,明矣。宜及其未集,促擊蘭。蘭破,飛 自走矣。」洪從之,進,擊破蘭,斬之。三月,張飛、馬超走。休,魏王族子也。

218年3月、東で彗星。
曹洪は、呉蘭と張飛を撃つため、固山にいた。曹洪が、後ろの軍から、孤立したという情報が入った。動揺した。騎都尉の曹休が云った。
「もし劉備軍が、本気で道を塞ぐなら、コッソリやるはずだ。いま劉備軍は、道を塞いだと騒いでいる。つまり、まだ道を塞げていないのだ。さっさと呉蘭を破れば、張飛も、にげるだろう」

漢中で恐いものは、敵の攻撃ではなく、道を失うこと。曹洪軍の恐慌は、これを表していると思う。張飛たちも、まだ漢中がホームではない。道に迷って、作戦にミスったのではないか。

曹洪は曹休に従った。曹洪は、呉蘭を斬った。
218年3月、張飛と馬超は、にげた。曹休は、曹操の族子だ。

218年夏、劉備が張郃に敗れ、諸葛亮に泣きつく

夏,四月,代郡、上谷烏桓無臣氐等反。先是,魏王操召代郡太守裴潛為丞相理曹 掾,操美潛治代之功,潛曰:「潛於百姓雖寬,於諸胡為峻。今繼者必以潛為治過嚴而 事加寬惠。彼素驕恣,過寬必弛;既弛,又將攝之以法,此怨叛所由生也。以勢料之, 代必復叛。」於是操深悔還潛之速。後數十日,三單于反問果至。操以其子鄢陵侯彰行 驍騎將軍,使討之。彰少善射御,膂力過人。操戒彰曰:「居家為父子,受事為君臣, 動以王法從事,爾其戒之!」

218年夏4月、代郡と上谷で、烏丸が反した。
これより先、曹操は、代郡太守の裴潛を中央に召して、丞相理曹 掾にした。曹操は、裴潛が代郡を治めた功績をほめた。裴潛は云った。
「私の後任たる代郡太守では、烏丸を治められません」
曹操は、裴潛を代郡から戻した時期が早すぎたことを、後悔した。

異民族の統治は、太守その人が、ゆるやかな政治を行うことで、安定する。異民族がしたがう対象は、あくまで太守個人であり、太守がとった現在の政策だ。民族単位で、王朝そのものに、ゴッソリ帰順するのではない。
遠方から朝貢にくるときだって、おなじ。皇帝個人の、現在の施策を支持するから、使者をよこすのだ。王朝の全体に、従うのではない。

曹操は、鄢陵侯の曹彰を、行驍騎將軍とした。曹彰は、烏丸を撃った。曹操は、曹彰に云った。
「家では、キミと私は父子だ。だが命令を出せば、君臣だ。忘れるな」

曹彰が、魏王・曹操に、甘ったれていたことが分かる。もし曹彰が、父子と君臣の区別がつく人なら、こんな注意は必要ない。曹彰は、へんに学問にカブれない。自然の情として、血縁に甘えてしまうのは、いつの時代も同じだなあ。
血縁と朝廷での立場。どこまで区別が徹底されたか。どこまで徹底するのが、正しいとされたか。貴族制の成立と絡む問題かも。いや、貴族制は、飛躍させすぎか。笑


劉備屯陽平關,夏侯淵、張郃、徐晃等與之相拒。備遣其將陳式等絕馬鳴閣道,徐 晃擊破之。張郃屯廣石,備攻之不能克,急書發益州兵。諸葛亮以問從事犍為楊洪,洪 曰:「漢中,益州咽喉,存亡之機會,若無漢中,則無蜀矣。此家門之禍也,發兵何 疑!」時法正從備北行,亮於是表洪領蜀郡太守;眾事皆辦,遂使即真。

劉備は、陽平関に屯した。夏侯淵、張郃、徐晃らは、劉備をふせいだ。
劉備は、部将の陳式らに、馬鳴閣道を、断たせた。徐晃は、陳式を破った。
張郃は、広石に屯した。劉備は、張郃に克てない。いそいで劉備は、益州に兵の追加をもとめた。諸葛亮は、從事をつとめる犍為の楊洪に、聞いた。楊洪は答えた。
「漢中は、益州のノドです。どうして、兵の追加を悩むのですか」

「蜀志」を読まねばならんが。諸葛亮が、楊洪に「漢中に援軍すべきかな」と聞いたのは、言葉どおりでは、なさそう。楊洪の協力を引き出すための、段取りかな。

ときに法正は、劉備に従い、漢中にいた。諸葛亮は、楊洪を蜀郡太守とした。楊洪に、蜀郡のことを一任した。

初,犍為太守 李嚴辟洪為功曹,嚴未去犍為而洪已為蜀郡;洪舉門下書佐何祗有才策,洪尚在蜀郡, 而祗已為廣漢太守。是以西土鹹服諸葛亮能盡時人之器用也。

はじめ、犍為太守の李厳は、楊洪をめして功曹とした。李厳はまだ犍為太守なのに、楊洪は(李厳をぬいて)蜀郡太守となった。楊洪は、門下書佐の何祗に才能があるから、何祗をあげた。まだ楊洪が蜀郡太守のうちに、何祗は廣漢太守となった。益州の人は、諸葛亮が人材を活用しつくしたことに、感心した。

郡の数のわりに、人材の絶対数が少ないのだ。抜擢でもしないと、間に合わない。諸葛亮がすごいのか、ただ苦しいだけなのか。


218年秋、烏丸平定、曹操が長安にゆく

秋,七月,魏王操自將擊劉備;九月,至長安。
曹彰擊代郡烏桓,身自搏戰,鎧中數箭,意氣益厲;乘勝逐北,至桑干之北,大破 之,斬首、獲生以千數。時鮮卑大人軻比能將數萬騎觀望強弱,見彰力戰,所向皆破, 乃請服,北方悉平。

218年秋7月、曹操はみずから劉備を撃つ。9月、曹操は長安に到った。
曹彰は、代郡の烏丸を撃った。斬首や生捕は、千を数えた。鮮卑の軻比能は、曹彰に敵わないので、曹彰に服した。北方は、すべて平定された。

曹操は、劉備、孫権、烏丸、と3つの戦線を、218年に戦っている。軽くキツい。
軻比能は、曹彰その人がもつ、腕力に服した。決して魏国に服したのではない。すぐに人は老いるし、死ぬ。国や民族の関係は、安定しないなあ。
話を飛ばします。
西晋の永嘉の乱は、恵帝個人への攻撃と捉えるべきか。異民族の行動原理としては、そうである。ご存知のとおり、永嘉の乱は西晋を滅ぼした。それに留まらず、中原から漢民族の王朝を駆逐して、300年の南北朝時代の幕開けになってしまったが。恵帝は、中国史にとって、大迷惑な人である。


218年冬、侯音が宛城で、南陽太守を捕える

南陽吏民苦繇役,冬,十月,宛守將侯音反。南陽太守東裡袞與功曹應余迸竄得出; 音遣騎追之,飛矢交流,余以身蔽袞,被七創而死,音騎執袞以歸。時征南將軍曹仁屯 樊以鎮荊州,魏王操命仁還討音。功曹宗子卿說音曰:「足下順民心,舉大事,遠近莫 不望風;然執郡將,逆而無益,何不遣之!」音從之。子卿因夜逾城從太守收餘民圍音, 會曹仁軍至,共攻之。

南陽の吏民は、労働に苦しんだ。
218年冬10月、宛城をまもる侯音が反した。南陽太守の東裡袞と、功曹の應余は、逃げた。侯音が追って、矢を射た。應余は、東裡袞に覆いかぶさり、7つの傷をつくった。侯音は、東裡袞ととらえ、宛城にもどった。
ときに征南将軍の曹仁は、樊城で荊州をおさめた。曹操は曹仁に、侯音を討たせた。功曹の宗子卿は、侯音に云った。
「侯音さんは、民衆のニーズに応えた。だが南陽太守を、攻撃してしまった。国家に背いても、いいことはありません。東裡袞を、放しなさい」
侯音は、宗子卿に従い、東裡袞を解放した。

侯音の弱さは、国家権力のバックグラウンドがないこと。宗子卿に「郡将をとらえるなんて、バカなことをしたね」と言われたら、優勢なのに、捕虜を解放してしまった。劉備が新たに作った国家権力が、宛城まで及んでいれば、ちがった。関羽の北伐は、この流れから、理解してもいいかも。

宗子卿 は夜に、東裡袞とともに、宛城を抜け出した。宗子卿は、曹仁とともに、侯音を攻めた。

おまけ:年号の話、西暦ボケの確信犯

ぼくが『資治通鑑』を抄訳するとき、分かりやすくするため、西暦をつかっています。しかし、建安二十三年十二月と、218年12月は、ちがう。

『資治通鑑』を抄訳しながら、ずっと気持ち悪かった。

高島俊男『しくじった皇帝たち』ちくま文庫に基づき、このことを注意しておきます。ぼくらが言えるのは、
「建安二十三年という年は、西暦でいえば、だいたい218年に相当する年ですよ」というだけ。年を準えるものの、月まで同じではない。
西暦では、春は4月に始まる。だが中国の暦では、春は1月に始まる。月がズレる。年表を、まるまる横に並べることができない。

現代日本では、平成22年11月11日は、2010年11月11日とイコールである。平成という和暦を使っているように見えるが、ちがう。現代日本には、ただひとつ、西暦があるだけだ。平成は、西暦に平成を西暦に直すような感覚で、建安を西暦に直してはいけない。

高島氏はいう。「関ヶ原の戦いは1600年9月15日」などという、西暦ボケでは、話にならない。関ヶ原の戦いは、慶長五年九月十五日、西暦1600年10月21日なのです。と。
ぼくが『資治通鑑』を抄訳するとき、単純に建安の年数だけ、西暦に直している。西暦ボケである。分かっているが、分かりやすいから、やめられない。

今後も、建安と西暦がちがうことを承知の上、置換します。101112

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