表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

213年、揚州を失い、涼州を得る

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

213年、孫権が曹操に、独立宣言

春,正月,曹操進軍濡須口,號步騎四十萬,攻破孫權江西營,獲其都督公孫陽。 權率眾七萬御之,相守月餘。操見其舟船器仗軍伍整肅,歎曰:「生子當如孫仲謀;如 劉景升兒子,豚犬耳!」權為箋與操,說:「春水方生,公宜速去。」別紙言:「足下 不死,孤不得安。」操語諸將曰:「孫權不欺孤。」乃徹軍還。
庚寅,詔並十四州,復為九州。

213年春正月、曹操は濡須口に進んだ。曹操は40万と号して、孫権の江西営を破った。曹操は、江西営の都督・公孫陽をとらえた。
孫権は7万で、曹操をふせいだ。1ヶ月余、対峙した。曹操は、孫権の水軍を見て、嘆じた。
「子をつくるなら、孫仲謀だ。劉表の子は、豚犬だ」
孫権は、曹操に手紙をおくった。
「春には大水が出ます。速やかに去られますよう」

これ、孫権の独立宣言です。赤壁のときは、ウヤムヤになったから。

曹操は「孫権は、私をあざむかない」と云って、撤退した。
庚寅、曹操は14州をあわせ、9州にもどした。

213年4月、合肥より南が、孫権に帰属

夏,四月,曹操至鄴。
初,曹操在譙,恐濱江郡縣為孫權所略,欲徙令近內,以問揚州別駕蔣濟,曰: 「昔孤與袁本初對軍官渡,徙燕、白馬民,民不得走,賊亦不敢鈔。今欲徙淮南民,何 如?」對曰:「是時兵弱賊強,不徙必失之。自破袁紹以來,明公威震天下,民無他志, 人情懷土,實不樂徙,懼必不安。」

213年夏4月、曹操は鄴にもどった。
はじめ曹操は譙にいて、長江に接した郡県の住民が、孫権に奪われることを恐れた。
「むかし袁紹と官渡で戦ったとき。私は、燕や白馬の民を移住させ、袁紹から遠ざけた。淮南の民も、孫権に奪われる前に、内地に移したい。どうだろうか」
揚州別駕の蒋済は、曹操に反対した。
「かつて袁紹は強く、曹操さまは弱かった。だから移住が必要でした。でもいま曹操さまは、最強です。移住させる必要は、ありません」

操不從。既而民轉相驚,自廬江、九江、蘄春、廣 陵,戶十餘萬皆東流江,江西遂虛,合淝以南,惟有皖城。濟後奉使詣鄴,操迎見,大 笑曰:「本但欲使避賊,乃更驅盡之!」拜濟丹楊太守。

曹操は蒋済を却下し、移住させた。住民は驚いて、長江の南に逃げた。廬江、九江、蘄春、広陵の民は、10余万戸が逃げた。合肥より南は、ただ皖城があるだけとなった。
蒋済の云うとおりになった。曹操は、おおいに笑った。
「住民を孫権から防ごうとして、ぎゃくに孫権に全て与えてしまった」
蒋済は、丹楊太守になった。

丹楊郡は、ほぼ孫権の領土だ。蒋済に実入りは少ない。蒋済の判断が、曹操に勝ったことは、ただしく評価されたのだろうか。ちょっと心配である。笑
住民がいない、緩衝地帯を作ってしまった。曹操が孫権を征服しそこねるのは、この失政のせいかも知れない。


213年5月、曹操は魏公に、劉備は成都へ

五月,丙申,以冀州十郡封曹操為魏公,以丞相領冀州牧如故。又加九錫:大輅、 戎輅各一,玄牡二駟;兗冕之服,赤舄副焉;軒縣之樂,八佾之舞;硃戶以居;納陛以 登;虎賁之士三百人;鈇、鉞各一;彤弓一,彤矢百,A110弓十,A110矢千;秬鬯一卣, 珪、瓚副焉。大雨水。

213年5月丙申。冀州の10郡を割いて、曹操を魏公に封じた。丞相&冀州牧は、もとのまま。曹操に九錫を加えた。洪水した。

司馬光は、わざわざ洪水を書いて、曹操を筆誅してる。笑


益州從事廣漢鄭度聞劉備舉兵,謂劉璋曰:「左將軍懸軍襲我,兵不滿萬,士眾未 附,軍無輜重,野谷是資。其計莫若盡驅巴西、梓潼民內、涪水以西,其倉廩野谷,一 皆燒除,高壘深溝,靜以待之。彼至,請戰勿許。久無所資,不過百日,必將自走,走 而擊之,此必禽耳。」劉備聞而惡之,以問法正。正曰:「璋終不能用,無憂也。」璋 果謂其群下曰:「吾聞拒敵以安民,未聞動民以避敵也。」不用度計。璋遣其將劉鐀、 冷苞、張任、鄧賢、吳懿等拒備,皆敗,退保綿竹;懿詣軍降。璋復遣護軍南陽李嚴、 江夏費觀督綿竹諸軍,嚴、觀亦率其眾降於備。備軍益強,分遣諸將平下屬縣。劉鐀、 張任與璋子循退守雒城,備進軍圍之。任勒兵出戰於雁橋,軍敗,任死。

益州従事をつとめる広漢の鄭度は、劉備が挙兵したと聞き、劉璋に云った。
「劉備は兵数も物資も少ない。益州の住民と穀物をカラにして、劉備が自滅するのを待ちましょう。100日もかからず、劉備を捕えられます」
劉備は鄭度の作戦を聞き、にくんだ。だが法正は、劉備をなだめた。
「劉璋は、鄭度を用いることができないでしょう」
劉璋は、鄭度を用いなかった。劉璋は、劉鐀、冷苞、張任、鄧賢、吳懿らに、劉備を防がせた。また護軍をつとめる南陽の李厳、江夏の費観を綿竹においた。劉循が雒城を守った。張任が、雁橋で死んだ。

213年秋、馬超が冀城を奪い、張魯に逃げる

秋,七月,魏始建社稷、宗廟。
魏公操納三女為貴人。

213年秋7月、魏は社稷と宗廟を建て始めた。
魏公の曹操は、3人の娘を、献帝の貴人とした。

初,魏公操追馬超至安定,聞田銀、蘇伯反,引軍還。參涼州軍事楊阜言於操曰: 「超有信、布之勇,甚得羌、胡心;若大軍還,不設備,隴上諸郡非國家之有也。」操 還,超果率羌、胡擊隴上諸郡縣,郡縣皆應之,惟冀城奉州郡以固守。超盡兼隴右之眾, 張魯復遣大將楊昂助之,凡萬餘人,攻冀城,自正月至八月,救兵不至。

かつて曹操が馬超を安定郡に追ったとき、田銀と蘇伯が反したと聞いた。曹操は軍を引いて、還った。參涼州軍事の楊阜は、曹操にいった。
「馬超はつよく、羌胡の心を得ています。もし大軍を関東にもどせば、隴上の諸県は、曹操さまの領土でなくなります」
果たして冀城だけを残して、すべて隴上は、馬超に呼応した。張魯は、大将の楊昂と1万余人をおくり、馬超を助けた。冀城には、正月から8月まで、曹操軍の救いがなかった。

刺史韋康遣別 駕閻溫出,告急於夏侯淵,外圍數重,溫夜從水中潛出。明日,超兵見其跡,遣追獲之。 超載溫詣城下,使告城中雲:「東方無救。」溫向城大呼曰:「大軍不過三日至,勉 之!」城中皆泣,稱萬歲。超雖怒,猶以攻城久不下,徐徐更誘溫,冀其改意。溫曰: 「事君有死無二,而卿乃欲令長者出不義之言乎!」超遂殺之。已而外救不至,韋康太 守欲降。楊阜號哭諫曰:「阜等率父兄子弟以義相勵,有死無二,以為使君守此城。今 奈何棄垂成之功,陷不義之名乎!」刺史、太守不聽,開城門迎超。超入,遂殺刺史、 太守,自稱征西將軍、領并州牧、督涼州軍事。

涼州刺史の韋康は、別駕の閻溫を冀城の包囲を突破させ、夏侯淵に救いを求めた。閻溫は、夏侯淵の救いが来ることを、命がけで冀城に伝えた。馬超は、閻溫を殺した。
刺史の韋康や太守は、馬超に降ろうとした。楊阜は、ないて諌めた。だが韋康らは、馬超に降伏した。馬超は、韋康も太守も殺した。
馬超は、征西将軍、領并州牧、督涼州軍事を自称した。

涼州は、けっきょく治まっていない。曹操が軍をひけば、反乱した。涼州刺史が、降伏して殺害されたのだ。よっぽどだ。
っていうか、潼関の快勝は、史家の脚色だろうか。
もし赤壁で曹操が、局地戦で勝ったとしても。曹操が撤退すれば、どうせ荊州刺史や揚州刺史が殺され、ふたたび孫権や劉備のトモガラが、自立しただろう。賊を殺さなきゃ、平定できない。だが土地が広大だから、逃げ切られてしまう。


魏公操便夏侯淵救冀,未到而冀敗。淵去冀二百餘里,超來逆戰,淵軍不利。氐王 千萬反應超,屯興國,淵引軍還。會楊阜喪妻,就超求假以葬之。阜外兄天水姜敘為撫 夷將軍,擁兵屯歷城。阜見敘及其母,歔欷悲甚。敘曰:「何為乃爾?」阜曰:「守城 不能完,君亡不能死,亦何面目以視息於天下!馬超背父叛君,虐殺州將,豈獨阜之憂 責,一州士大夫皆蒙其恥。君擁兵專制而無討賊心,此趙盾所以書弒君也。超強而無義, 多釁,易圖耳。」敘母慨然曰:「咄!伯奕,韋伯君遇難,亦汝之負,豈獨義山哉!人 誰不死,死於忠義,得其所也。但當速發,勿復顧我;我自為汝當之,不以餘年累汝 也。」敘乃與同郡趙昂、尹奉、武都李俊等合謀討超,又使人至冀,結安定梁寬、南安 趙衢使為內應。超取趙昂子月為質,昂謂妻異曰:「吾謀如是,事必萬全,當奈月何?」 異厲聲應曰:「雪君父之大恥,喪元不足為重,況一子哉!」

曹操は夏侯淵に冀城を救わせたが、間に合わなかった。馬超は、氐王の千萬を味方にして、興國に屯した。夏侯淵は、軍を引いた。

馬超が、夏侯淵に勝ちました。そ、そんな、、

楊阜は妻が死んだので、馬超にいとまを求めた。楊阜の外兄・天水の姜敘は、 撫夷將軍となり、歷城に屯した。楊阜は、姜敘とその母に会った。

一連のエピソードは、はぶきます。女性の心意気により、馬超が敗退するまでのお話だ。ぼくは、あまり興味を持っていない。笑


九月,阜與敘進兵,入鹵城,昂、奉據祁山,以討超。超聞之,大怒,趙衢因譎說 超,使自出擊之。超出,衢與梁寬閉冀城門,盡殺超妻子。超進退失據,乃襲歷城,得 敘母。敘母罵之曰:「汝背父之逆子,殺君之桀賊,天地豈久容汝!而不早死,敢以面 目視人乎!」超殺之,又殺趙昂之子月。楊阜與超戰,身被五創。超兵敗,遂南奔張魯。

213年9月、楊阜と姜敘は、馬超をしめ出した。姜敘の母は、馬超を罵った。馬超は楊阜と戦い、5つの傷を受けた。馬超は敗れて、張魯をたよった。

魯以超為都講祭酒,欲妻之以女。或謂魯曰:「有人若此,不愛其親,焉能愛人!」魯 乃止。操封討超之功,侯者十一人,賜楊阜爵關內侯。

張魯は馬超を、都講祭酒にした。張魯は、娘を馬超の妻にしようとした。ある人が、張魯に言った。
「馬超は、自分の親すら愛さない。まして妻を愛せるものか」
張魯は、馬超との婚姻をやめた。
曹操は、馬超を討った功績を、評価した。侯になった人は11人だ。楊阜は、関内侯となった。

関内侯の数を、見てみないと、なんとも言えないが。曹操にとって、馬超の平定が、どれだけ重要だったか分かる。「孫権を討ったら、おなじように、侯位をあげるよ」という宣伝の意味もあるか。


213年冬、魏公の朝廷をととのえる

冬,十一月,魏初置尚書、侍中、六卿;以荀攸為尚書令,涼茂為僕射,毛玠、崔 琰、常林、徐奕、何夔為尚書,王粲、杜襲、衛覬、和洽為侍中,鐘繇為大理,王修為 大司農,袁渙為郎中令、行御史大夫事,陳群為御史中丞。

213年冬11月、魏で初めて、尚書、侍中、六卿を置いた。
荀攸が尚書令になった。(中略)袁渙は郎中令となり、御史大夫事をかねた。陳羣は、御史中丞になった。

べつに訳さなくても、原文を見れば、人材の配置がわかるので中略しました。この中から、司馬光は袁渙をピックアップして、つぎに書きます。


袁渙得賞賜,皆散之,家無 所儲,乏則取之於人,不為皦察之行,然時人皆服其清。時有傳劉備死者,群臣皆賀, 唯渙獨否。

袁渙は、ボーナスをもらっても、みな他人に配ってしまった。
ときに「劉備が死んだ」と、伝聞があった。郡臣は。劉備の死を祝った。だが袁渙だけは、祝わなかった。

魏公操欲復肉刑,令曰:「昔陳鴻臚以為死刑有可加於仁恩者,御史中丞能申其父 之論乎?」陳群對曰:「臣父紀以為漢除肉刑而增加於笞,本興仁惻而死者更眾,所謂 名輕而實重者也。名輕則易犯,實重則傷民。且殺人償死,合於古制;至於傷人,或殘 毀其體,而裁翦毛髮,非其理也。若用古刑,使淫者下蠶室,盜者刖其足,則永無淫放 穿窬之奸矣。夫三千之屬,雖末可悉復,若斯數者,時之所患,宜先施用。漢律所殺, 殊死之罪,仁所不及也,其餘逮死者,可易以肉刑。如此,則所刑之與所生足以相貿矣。 今以笞死之法易不殺之刑,是重人支體而輕人軀命也。」當時議者,唯鐘繇與群議同, 餘皆以為未可行。操以軍事未罷,顧眾議而止。

魏公の曹操は、肉刑の復活を議論した。肉刑は、やめた。101104

肉刑の議論は、政治や思想のむずかしいテーマです。いま、生半可に抄訳できません。ただ司馬光が、肉刑の議論をここに置いた、ということを確認しときます。

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