表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

212年、建業建設、荀彧服毒、劉備逆ギレ

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

212年春、曹丕の留守番を、常林と国淵が助ける

春,正月,曹操還鄴。詔操贊拜不名,入朝不趨,劍履上殿,如蕭何故事。

212年春正月、曹操は鄴にかえった。曹操は、蕭何とおなじく、贊拜不名・入朝不趨・劍履上殿の特典が与えられた。

このタイミングで、なにかを言えるに違いない。馬超を討って帰ってきて、贊拜不名・入朝不趨・劍履上殿。なぜなんだ。要考察。


操之西征也,河間民田銀、蘇伯反,扇動幽、冀。五官將丕欲自討之,功曹常林曰: 「北方吏民,樂安厭亂,服化已久,守善者多;銀、伯犬羊相聚,不能為害。方今大軍 在遠,外有強敵,將軍為天下之鎮,輕運遠舉,雖克不武。」乃遣將軍賈信討之,應時 克滅。餘賊千餘人請降,議者皆曰:「公有舊法,圍而後降者不赦。」程昱曰:「此乃 擾攘之際,權時之宜。今天下略定,不可誅之;縱誅之,宜先啟聞。」議者皆曰:「軍 事有專無請。」昱曰:「凡專命者,謂有臨時之急耳。今此賊制在賈信之手,故老臣不 願將軍行之也。」丕曰:「善。」即白操,操果不誅。既而聞昱之謀,甚悅,曰:「君 非徒明於軍計,又善處人父子之間。」

曹操が征西しているあいだ。河間の民・田銀と蘇伯が、曹操にそむいた。幽州と冀州を扇動した。曹丕は、みずから討伐したい。功曹の常林は、曹丕をいさめた。
「もし曹丕さんが武力で勝利しても、なんの手柄でもありません」
曹丕は、将軍の賈信に、河間を討伐させた。田銀と蘇伯を斬った。ほかの河間の賊は、千余人がくだった。みな、議した。
「包囲されたあと降っても、赦さないものだ」
程昱が、反論した。
「包囲されたあと降っても、赦さないのは、天下が乱れている時代の方法だ。いま天下は、ほぼ定まった。河間の賊を、赦してやるべきだ」

程昱の発言&活躍が、こんなところにも、あったとは。

曹丕も曹操も、程昱の意見を採用した。曹操は、程昱をほめた。
「きみは、軍計に明るいだけでない。私(曹操)と、わが子・曹丕との関係性まで、良好に保たせてくれた」

故事:破賊文書,以一為十。國淵上首級,皆如 其實數,操問其故,淵曰:「夫征討外寇,多其斬獲之數者,欲以大武功,聳民聽也。 河間在封域之內,銀等叛逆,雖克捷有功,淵竊恥之。」操大悅。

古くからの慣習がある。賊を破った報告書には、賊の人数を10倍に水増しする。だが、国淵が首級を報告するときは、10倍しなかった。その理由を、曹操は聞いた。国淵は答えた。
「水増しするのは、武功を大きくしたい人がやることです。いま討伐した河間は、曹操さまの領土内です。戦いに勝ったとはいえ、わが領民と戦ったことを、ひそかに恥じているのです」
曹操は、国淵の答えに喜んだ。

坂口和澄氏は、この国淵の発言をとりあげ、「史書のほかの部分は、すべて10分の1にして理解すべきだ」という。どこまで、10倍が一般的なのか。


212年夏、馬騰の三族をみな殺す

夏,五月,癸未,誅衛尉馬騰,夷三族。 六月,庚寅晦,日有食之。

212年夏5月癸未、衛尉の馬騰を誅し、三族みなごろし。
212年6月庚寅みそか、日食した。

212年秋、鄭渾が梁興をやぶる

秋,七月,螟。
馬超等餘眾頓藍田,夏侯淵擊平之。
鄜賊梁興寇略馮翊,諸縣恐懼,皆寄治郡下,議者以為當移就險阻。左馮翊鄭渾曰: 「興等破散,藏竄山谷,雖有隨者,率脅從耳。今當廣開降路,宣喻威信。而保險自守, 此示弱也。」乃聚吏民,治城郭,為守備,募民逐賊,得其財物婦女,十以七賞。民大 悅,皆願捕賊;賊之失妻子者皆還,求降,渾責其得他婦女,然後還之。於是轉相寇盜, 黨與離散。又遣吏民有恩信者分佈山谷告諭之,出者相繼。乃使諸縣長吏各還本治,以 安集之。興等懼,將餘從聚鄜城。操使夏侯淵助渾討之,遂斬興,餘黨悉平。渾,泰之 弟也。

212年秋7月、ずいむし。
馬超らの残党が、藍田にいた。夏侯淵が平らげた。
鄜の賊・梁興が、馮翊をおかした。みな梁興をおそれ、奥地に避難したいと云った。左馮翊の鄭渾は云った。
「梁興は、すでに潼関で敗れた。梁興に従っている人は、脅されているだけだ。もし私たちが避難したら、こちらが弱いことを梁興に示すだけだ」
鄭渾は、梁興を防いだ。梁興から財物を奪えば、7割を自分のものにして良いことにした。鄭渾の民が押しかえし、梁興は散りぢりになった。曹操は夏侯淵を馮翊におくり、梁興を斬らせた。
この鄭渾とは、鄭泰の弟である。

九月,庚戌,立皇子熙為濟陰王,懿為山陽王。邈為濟北王,敦為東海王。

212年9月庚戌。曹操は、献帝の皇子・劉熙を、濟陰王とした。劉懿を、山陽王とした。劉邈を、濟北王とした。劉敦を、東海王とした。

のちに献帝は、山陽公となる。劉懿は、どうなったのか?


曹操が関中のあいだ、孫呉の建設ラッシュ

初,張紘以秣陵山川形勝,勸孫權以為治所;及劉備東過秣陵,亦勸權居之。權於 是作石頭城,徙治秣陵,改末陵為建業。
呂蒙聞曹操欲東兵,說孫權夾濡須水口立塢。諸將皆曰:「上岸擊賊,洗足入船, 何用塢為!」蒙曰:「兵有利鈍,戰無百勝,如有邂逅,敵步騎蹙人,不暇及水,其得 入船乎?」權曰:「善!」遂作濡須塢。

はじめ張紘は孫権に、山川の地形がよいから、秣陵を治所にするよう勧めた。劉備が東にきて、秣陵にきた。劉備も孫権に、秣陵を勧めた。212年になり孫権は、石頭城をつくり、秣陵にうつった。秣陵を、建業と改めた。

秣陵の遷都は、曹操が関中に手を焼いているときだ。これが分かるのが、『資治通鑑』のメリットだ。
まえ張紘伝を読んだとき、秣陵を勧める理由が、裴注のなかで矛盾しまくっていた。張紘と劉備。必ずしも、孫権にベッタリ従っていない人が、どちらも秣陵を勧めた理由が気になる。

呂蒙は曹操が東に兵を出すと聞き、濡須水の河口に、塢を築くことを勧めた。みな諸将が反対したが、孫権は呂蒙を採用した。

建業と濡須口。孫権が、曹操に備えるために、建設しまくっている。赤壁のあと、孫権が自立への方針を固めた時期が、このころか。曹操が、馬超と戦っているから、外圧が減ったのだ。
『資治通鑑』の並べ方を、うがって見れば。張紘や劉備は、孫権を曹操にさらすため、呉郡から秣陵への移動を進めた。呂蒙は、この動きに対策するため、濡須塢を築かせた。そんな感じだ。邪推だな。笑
張紘や劉備は、孫権のプライド&独立心をくすぐった。「秣陵に出て、中原をねらいましょう」みたいに。中原に近づくことは、ハイリスク・ハイリターン。曹操の脅威にさらされるリスクを、孫権がどう評価したのか。


212年10月、曹操が濡須を攻め、荀彧が死ぬ

冬,十月,曹操東擊孫權。董昭言於曹操曰:「自古以來,人臣匡世,未有今日之 功;有今日之功,未有久處人臣之勢者也。今明公恥有慚德,樂保名節。然處大臣之勢, 使人以大事疑己,誠不可不重慮也。」乃與列侯諸將議,以丞相宜進爵國公,九錫備物, 以彰殊勳。荀彧以為:「曹公本興義兵以匡朝寧國,秉忠貞之誠,守退讓之實。君子愛 人以德,不宜如此。」操由是不悅。及擊孫權,表請彧勞軍於譙,因輒留彧,以侍中、 光祿大夫、持節、參丞相軍事。操軍向濡須,彧以疾留壽春,飲藥而卒。彧行義修整而 有智謀,好推賢進士,故時人皆惜之。

212年冬10月、曹操は東にゆき、孫権を撃った。
董昭は、曹操に魏公&九錫を勧めた。
荀彧が、魏公&九錫に反対した。曹操は荀彧を譙においた。荀彧は、侍中、光禄大夫、持節、参丞相軍事だ。曹操の軍は、濡須に向かった。荀彧は病気なので、寿春にとどまった。

この孫権攻めは曹操にとって、赤壁&合肥につづき、まだ2度目。のちに、曹操と孫権の戦いは泥沼になるが、まだ2度目。曹操側は、決着がつく可能性を想定していたのでは?
曹操の馬超攻めは、すべての作戦が、曹操の思惑どおりに運んだと強調される。曹操が反省して、きちんと赤壁を挽回した(or史家が曹操に手柄を与えた)。つづく212年の濡須攻めも、成功しそうな気運があっただろう。董昭が魏公を勧めたのは、孫権を降伏させる(or南方に逃走させる)前提があったのだと思う。

荀彧は、薬を飲んで、死んだ。みな荀彧を惜しんだ。

荀彧の死について、司馬光の意見がある。以前このホームページに、現代語訳を載せましたので、くり返しません。
『資治通鑑』論賛を読む 2)孫策から曹丕まで


212年12月、劉備が劉璋にキバをむく

十二月,有星孛於五諸侯。
劉備在葭萌,龐統言於備曰:「今陰選精兵,晝夜兼道,逕襲成都,劉璋既不武, 又素無豫備,大軍卒至,一舉便定,此上計也。楊懷、高沛,璋之名將,各杖強兵,據 守關頭,聞數有箋諫璋,使發遣將軍還荊州。將軍遣與相聞,說荊州有急,欲還救之, 並使裝束,外作歸形,此二子既服將軍英名,又喜將軍之去,計必乘輕騎來見將軍,因 此執之,進取其兵,乃向成都,此中計也。退還白帝,連引荊州,徐還圖之,此下計也。 若沉吟下去,將致大困,不可久矣。」備然其中計。

212年12月、龐統が劉備に、劉璋を攻める3つの作戦を提案した。劉備は、まんなかの作戦を採用した。

有名な話です。中身は書きません。


及曹操攻孫權,權呼備自救。備貽 璋書曰:「孫氏與孤本為脣齒,而關羽兵弱,今不往救,則曹操必取荊州,轉侵州界, 其憂甚於張魯。魯自守之賊,不足慮也。」因求益萬兵及資糧,璋但許兵四千,其餘皆 給半。備因激怒其眾曰:「吾為益州征強敵,師徒勤瘁,而積財吝賞,何以使士大夫死 戰乎!」張松書與備及法正曰:「今大事垂立,如何釋此去乎!」松兄廣漢太宗肅,恐 禍及己,因發其謀。於是璋收斬松,敕關戍諸將文書皆勿復得與備關通。備大怒,召璋 白水軍督楊懷、高沛,責以無禮,斬之;勒兵徑至關頭,並其兵,進據涪城。

曹操が孫権を攻めた。孫権は劉備に、救いをもとめた。劉備は、劉璋に手紙を書いた。
「孫権が曹操に敗れたら、私の荊州も、曹操に取られます。関羽は弱いので、私が孫権を救いに行かねばなりません。兵1万と物資をください」

荀彧が死ぬ戦いと、劉備が劉璋にキバをむく戦いが、おなじだ。知らなかった。高校世界史でもないのに、ヨコのつながりは、気づくと驚きがある。

劉璋は、4千だけを劉備に与えた。裏切りがバレた張松が、劉璋に殺された。劉備は、楊懐と高沛を殺した。劉備は、涪城に進んだ。101104

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