表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

211年、曹操は関中へ、劉備は益州へ

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

211年春、曹操が関中に出陣する

春,正月,以曹操世子丕為五官中郎將,置官屬,為丞相副。
三月,操遣司隸校尉鐘繇討張魯,使征西護軍夏侯淵等將兵出河東,與繇會。倉曹 屬高柔諫曰:「大兵西出,韓遂、馬超疑為襲己,必相扇動。宜先招集三輔,三輔苟平, 漢中可傳檄而定也。」操不從。關中諸將果疑之,馬超、韓遂、侯選、程銀、楊秋、李 堪、張橫、梁興、成宜、馬玩等十部皆反,其眾十萬,屯據潼關;操遺安西將軍曹仁督 諸將拒之,敕令堅壁勿與戰。

211年春、正月。曹操は曹丕を、五官中郎将にした。官属をおき、丞相の副官とした。
211年3月、曹操は、司隷校尉の鍾繇に、張魯を討たせた。征西護軍の夏侯淵は、河東から出て、鍾繇と合流した。
倉曹 屬の高柔は、曹操をいさめた。
「韓遂と馬超は、自分が攻められると、思いこむでしょう。さきに三輔(長安周辺)を平定してから、漢中に通達を出して、平定すべきです」

曹操は本心で、張魯を討ちたかったのか。韓遂と馬超を討ちたかったのか。後日の課題とします。

曹操は、高柔の意見を聞かなかった。はたして関中の十部は、10万にふくらみ、潼関で曹操をふせいだ。
曹操は、安西将軍の曹仁に、諸将を督させ、かたく守らせた。

命五官將丕留守鄴,以奮武將軍程昱參丕軍事,門下督廣 陵徐宣為左護軍,留統諸軍,樂安國淵為居府長史,統留事。

曹操が不在のあいだ、曹丕に鄴を守らせた。奮武将軍の程昱は、曹丕の軍事をたすけた。門下督をつとめる広陵の徐宣は、左護軍となり、鄴の軍を統べた。楽安の国淵は、鄴の長史となり、政務を統べた。

曹丕、程昱、徐宣、国淵という顔ぶれ。この人事の分析も、後日やりたい。


211年秋、曹操が、馬超と韓遂をやぶる

秋,七月,操自將擊超等。議者多言:「關西兵習長矛,非精選前鋒,不可當也。」 操曰:「戰在我,非在賊也。賊雖習長矛,將使不得以刺,諸君但觀之。」

211年秋7月。みずから曹操は、馬超を討った。
みな曹操に警告した。「関西の兵は、長い矛に習熟しています。よほどの精鋭でないと、敵わないです」と。
曹操は反論した。「長い矛を、使わせないように、戦えばいいのだ」

八月,操至潼關,與超等夾關而軍。操急持之,而潛遣徐晃、硃靈以步騎四千人渡 浦阪津,據河西為營。
閏月,操自潼關北渡河。兵眾先渡,操獨與虎士百餘人留南岸斷 後。馬超將步騎萬餘人攻之,矢下如雨,操猶據胡床不動。許褚扶操上船,船工中流矢 死,褚左手舉馬鞍以蔽操,右手刺船。校尉丁斐,放牛馬以餌賊,賊亂取牛馬,操乃得 渡。遂自蒲阪渡西河,循河為甬道而南。超等退拒渭口,操乃多設疑兵,潛以舟載兵入 渭,為浮橋,夜,分兵結營於渭南。超等夜攻營,伏兵擊破之。超等屯渭南,遣信求割 河以西請和,操不許。

211年8月、曹操は潼関で、馬超らと戦った。曹操はじっくり守った。ひそかに徐晃と朱霊に、4千人をあたえ、長江の西に渡らせた。
211年閏月、曹操は潼関から、黄河を北に渡った。馬超が、曹操を奇襲した。許褚が曹操を守った。丁斐が、牛馬をバラまいた。曹操は、逃げることができた。馬超は曹操に、「黄河の西を割譲しろ」と交渉した。曹操は、ことわった。

九月,操進軍,悉渡渭。超等數挑戰,又不許;固請割地,求送 任子。賈詡以為可偽許之。操復問計策,詡曰:「離之而已。」操曰:「解!」韓遂請 與操相見,操與遂有舊,於是交馬語移時,不及軍事,但說京都舊故,拊手歡笑。時秦、 胡觀者,前後重沓,操笑謂之曰:「爾欲觀曹公邪!亦猶人也,非有四目兩口,但多智 耳!」既罷,超等問遂:「公何言!」遂曰:「無所言也。」超等疑之。他日,操又與 遂書,多所點竄,如遂改定者;超等愈疑遂。操乃與克日會戰,先以輕兵挑之,戰良久, 乃縱虎騎夾擊,大破之,斬成宜、李堪等。遂、超奔涼州,楊秋奔安定。

211年9月。賈詡の計略により、馬超が韓遂をうたがった。曹操は虎騎をつかい、馬超を大破した。韓遂と馬超は、涼州ににげた。楊秋は、安定郡ににげた。

訳文、はぶきすぎですね。すみません。ワザとです。
『資治通鑑』を読む価値は、どの記事を、どのタイミングで引用してくるかを、確かめることだ。全体の流れを、見渡すことだ。ただ、潼関の戦いの経緯を詳しく知りたいなら、登場人物の列伝を、『三国志集解』とともに読んだほうが、よほどいい。


諸將問操曰:「初,賊守潼關,渭北道缺,不從河東擊馮翊而反守潼關,引日而後 北渡,何也?」操曰:「賊守潼關,若吾入河東,賊必引守諸津,則西河未可渡,吾故 盛兵向潼關;賊悉眾南守,西河之備虛,故二將得擅取西河;然後引軍北渡。賊不能與 吾爭西河者,以二將之軍也。連車樹柵,為甬道而南,既為不可勝,且以示弱。渡渭為 堅壘,虜至不出,所以驕之也;故賊不為營壘而求割地。吾順言許之,所以從其意,使 自安而不為備,因畜士卒之力,一旦擊之,所謂疾雷不及掩耳。兵之變化,固非一道 也。」

諸将は曹操に、不可解な渡河の作戦について、質問した。曹操は、自分がいかに兵法に優れ、さきを読んでいたか、自慢した。

どうせ、あと知恵である。ここで曹操が死んでいたら、面白かったのに。劉備と孫権が、揚州と荊州で、地位を固めているときだから。
曹操の関西征伐と、荊州と揚州の情勢が、どうつながるのか。よく分かりません。後日のテーマとします。


始,關中諸將每一部到,操輒有喜色。諸將問其故,操曰:「關中長遠,若賊各依 險阻,征之,不一二年不可定也。今皆來集,其眾雖多,莫相歸服,軍無適主,一舉可 滅,為功差易,吾是以喜。」

はじめ関中の諸将が集まるごとに、曹操は喜んだ。
「関中は遠い。順番に平定して回ったら、1年や2年では、すまない。集まってくれたら、いちどに滅ぼすことができる」

荊州や揚州も、順番に平定して回ったら、時間がかかりますね。赤壁では、周瑜が出てきてくれたと思ったんだが。


211年冬、河東太守の杜畿が、曹操軍を支える

冬,十月,操自長安北征楊秋,圍安定。秋降,復其爵位,使留撫其民。 十二月,操自安定還,留夏侯淵屯長安。以議郎張既為京兆尹。既招懷流民,興復 縣邑,百姓懷之。遂、超之叛也,弘農、馮翊縣邑多應之,河東民獨無異心。操與超等 夾渭為軍,軍食一仰河東。及超等破,餘畜尚二十餘萬斛,操乃增河東太守杜畿秩中二 千石。

211年、冬10月。曹操は長安から北伐し、安定で楊秋をかこんだ。楊秋は降伏した。曹操は、楊秋の爵位をそのままにし、安定郡をまかせた。
12月、曹操は安定郡から、鄴に帰った。夏侯淵が、長安に屯した。
議郎の張既を、京兆尹にした。張既は、万民に懐かれた。
韓遂と馬超が叛いた。弘農郡、左馮翊が、反乱におうじた。河東郡だけが、叛かなかった。曹操は、河東郡から供給して、馬超らを破った。河東郡は、まだ20余万石の備蓄があった。曹操は、河東太守の杜畿の俸禄をふやした。

ふつう後漢の地図では、河東郡と左馮翊は、つながっていない。でも、北のほうのルートが通じている。夏侯淵が、河東郡から関中に入ったときも、ここを通った。


劉璋が曹操の征西におびえ、劉備をまねく

扶風法正為劉璋軍議校尉,璋不能用,又為其州裡俱僑客者所鄙,正邑邑不得志。 益州別駕張松與正善,自負其才,忖璋不足與有為,常竊歎息。松勸璋結劉備,璋曰: 「誰可使者?」松乃舉正。璋使正往,正辭謝,佯為不得已而行。還,為松說備有雄略, 密謀奉戴以為州主。會曹操遣鐘繇向漢中,璋聞之,內懷恐懼。松因說璋曰:「曹公兵 無敵於天下,若因張魯之資以取蜀土,誰能御之!劉豫州,使君之宗室而曹公之深仇也, 善用兵。若使之討魯,魯必破矣。魯破,則益州強,曹公雖來,無能為也。今州中諸將 龐羲、李異等,皆恃功驕豪,欲有外意。不得豫州,則敵攻其外,民攻其內,必敗之道 也。」璋然之,遣法正將四千人迎備。主簿巴西黃權諫曰:「劉左將軍有驍名,今請到, 欲以部曲遇之,則不滿其心;欲以賓客禮待,則一國不容二君,若客有泰山之安,則主 有累卵之危。不若閉境以待時清。」璋不聽,出權為廣漢長。從事廣漢王累,自倒縣於 州門以諫,璋一無所訥。

扶風の法正は、劉璋の軍議校尉である。法正は移住者だから、劉璋のもとで、活躍できない。益州別駕の張松は、法正と仲がよい。張松は劉璋に、劉備と結ぶことを勧めた。
ちょうど劉璋は、曹操が、鍾繇を漢中に向かわせたと聞いた。張松は、劉璋に説いた。「劉備に張魯を討たせれば、曹操が来ても、防いでくれます」

曹操の征西と、張松のうごき。うまくつなげたい。ダイナミックな話です。これが同時に読めるのは、編年体だけ!紀伝体じゃムリ!
ただしこの記事、211年冬の話とは、限りません。211年には違いないが、曹操と馬超との戦いのあいだに、挿入しそびれた。だから年末に、まとめて載っているのだろう。司馬光、もうひとガンバリだった。

法正は4千人をひきい、劉備を迎えた。主簿をつとめる巴西の黄権は、劉璋をいさめた。黄権は、廣漢の県長に左遷された。従事をつとめる広漢の王累は、門に逆さづりになった。劉璋は、それでも劉備を迎えたい。

法正至荊州,陰獻策於劉備曰:「以明將軍之英才,乘劉牧之之懦弱;張松,州之 股肱,響應於內;以取益州,猶反掌也。」備疑未決。龐統言於備曰:「荊州荒殘,人 物殫盡,東有孫車騎,北有曹操,難以得志。今益州戶口百萬,土沃財富,誠得以為資, 大業可成也!」備曰:「今指與吾為水火者,曹操也。操以急,吾以寬;操以暴,吾以 仁;操以譎,吾以忠。每與操反,事乃可成耳。今以小利而失信義於天下,奈何?」統 曰:「亂離之時,固非一道所能定也。且兼弱攻昧,逆取順守,古人所貴。若事定之後, 封以大國,何負於信!今日不取,終為人利耳。」備以為然。乃留諸葛亮、關羽等守荊 州,以趙雲領留營司馬,備將步卒數萬人入益州。孫權聞備西上,遣舟船迎妹,而夫人 欲將備子禪還吳,張飛、趙雲勒兵截江,乃得禪還。

法正は荊州で、劉備に「益州をとれ」と勧めた。龐統が、ダメ押しした。
しかし劉備は「私は曹操の反対をゆく。曹操みたいに、国を奪わない」と主張した。龐統は「劉備さんが益州をとらねば、他人に奪われるだけです」と云った。劉備は、益州をとることを認めた。

龐統がいった「人の利」とは、曹操のメリットだろう。このあたり、龐統伝より。

諸葛亮と関羽を荊州にとどめた。趙雲は、留營司馬となった。劉備は数万をひきいて、益州に入った。孫権はこれを聞き、妹と劉禅を呉にもどした。張飛と趙雲は、劉禅をとり返した。

裴松之が、劉禅の誘拐事件と、張飛や趙雲の居場所について、文句をつけてなかったか? 後日やります。まあ、どちらでもいい事実判定&前後関係だが。



劉備が葭萌関で、劉璋の兵を引きぬく

劉璋敕在所供奉備,備入境如歸,前後贈遺以巨億計。備至巴郡,巴郡太守嚴顏拊 心歎曰:「此所謂『獨坐窮山,放虎自衛』者也。」備自江州北由墊江水詣涪。璋率步 騎三萬餘人,車乘帳幔,精光耀日,往會之。張松令法正白備,便於會襲璋。備曰: 「此事不可倉猝!」龐統曰:「今因會執之,則將軍無用兵之勞而坐定一州也。」備曰: 「初入他國,恩信未著,此不可也。」璋推備行大司馬,領司隸校尉;備亦推璋行鎮西 大將軍,領益州牧。所將將士,更相之適,歡飲百餘日。璋增備兵,厚加資給,使擊張 魯,又令督白水軍。備並軍三萬餘人,車甲、器械、資貨甚盛。璋還成教,備北到葭萌, 未即討魯,厚樹恩德以收眾心。

劉璋は、劉備を歓迎した。劉備は、巴郡にきた。巴郡太守の厳顔は、劉備の危険を嘆じた。劉璋は3万余人で劉備を迎えた。
張松は、劉備に「劉璋を殺せ」と伝えた。劉備は、ためらった。龐統が勧めた。劉備は、ことわった。劉璋は劉備を推薦し、行大司馬、司隷校尉とした。劉備は劉璋を推薦し、鎮西大将軍、益州牧とした。

だれの権限で、任命しあっているのだろうか。曹操との関係は?

劉備と劉璋は、100余日も宴会した。劉璋は、劉備に物資をあたえ、白水の軍を任せた。劉備は3万余人。劉備は葭萌にきたが、張魯を攻めない。兵に恩をほどこし、兵の心を引きつけた。

ちくま訳で「人心を収攬した」とある。葭萌の住民を、劉備が可愛がっている様子を、ぼくは思い浮かべていた。そりゃ劉璋さんが、怒るよな、と思った。ちがうのだ。「衆心」だから、劉璋兵の心だ。兵を引き抜いていたんだ。これなら、意味がとおる。不自然すぎない。


211年は、曹操も劉備も、張魯がトリガーで動いた。
たまたまか? なにか、張魯にも動きが? わからんが、つづく。
見切り発車なうえに、ザツな抄訳ですみません。あくまで、陳寿と裴松之を読むための、キッカケづくりだと思っています。101103

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