表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

201年、倉亭の戦、劉璋の安定

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

201年春夏、倉亭の戦い

春,三月,丁卯朔,日有食之。
曹操就谷於安民。以袁紹新破,欲以其間擊劉表。荀彧曰:「紹既新敗,其眾離心, 宜乘其困,遂定之。而欲遠師江、漢,若紹收其餘燼,承虛以出人後,則公事去矣。」 操乃止。

201年春3月丁卯ついたち、日食した。
曹操は穀物をくばった。袁紹を撃ったばかりで、劉表も撃ちたい。荀彧は反対した。「とおく長江や漢水に行っているあいだ、袁紹が復活したら危ない」と。曹操は、劉表をやめた。

夏,四月,操揚兵河上,擊袁紹倉亭軍,破之。

201年夏4月、曹操は黄河をさかのぼった。袁紹を倉亭で破った。

201年秋冬、劉備と昌豨を討つ

秋,九月,操還許。
操自擊劉備於汝南,備奔劉表,龔都等皆散。表聞備至,自出郊迎,以上賓禮待之, 益其兵,使屯新野。備在荊州數年,嘗於表坐起至廁,慨然流涕。表怪,問備,備曰: 「平常身不離鞍,髀肉皆消。今不復騎,髀裡肉生。日月如流,老將至矣,而功業不建, 是以悲耳。」

201年秋9月、曹操は倉亭から許都にもどる。
みずから曹操は、汝南で劉備を撃った。劉備は、劉表ににげた。龔都らは、みな散った。劉表は劉備をむかえ、賓客とした。新野においた。
数年たった。劉備は、脾肉を嘆いた。

曹操遣夏侯淵、張遼圍昌豨於東海,數月,糧盡,議引軍還。遼謂淵曰:「數日已 來,每行諸圍,豨輒屬目視遼,又其射矢更稀。此必豨計猶豫,故不力戰。遼欲挑與語, 倘可誘也。」乃使謂豨曰:「公有命,使遼傳之。」豨果下與遼語。遼為說操神武,方 以德懷四方,先附者受大賞,豨乃許降。遼遂單身上三公山,入豨家,拜妻子,豨歡喜, 隨遼詣操。操遣豨還。

曹操は、夏侯淵と張遼に、東海で昌豨を囲ませた。数ヶ月で兵糧がつき、かえる。張遼は夏侯淵に言った。「昌豨は私(張遼)の弓術を見て、評価してくれた。私が語れば、昌豨は降るだろう」と。
張遼は、ひとりで昌豨の家にゆき、昌豨の妻子にも会った。昌豨は、曹操に降った。曹操は昌豨と会い、昌豨を東海に帰らせた。

東海郡は、曹操の許都から、とおい。泰山とおなじで、敵にならない約束をして、自治をゆだねるしかないのかな。


201年、劉璋と張魯の支配確立

趙韙圍劉璋於成都。東州人恐見誅滅,相與力戰,韙遂敗退,追至江州,殺之。龐 羲懼,遣吏程祁宣旨於其父漢昌令畿,索賨兵。畿曰:「郡合部曲,本不為亂,縱有讒 諛,要在盡誠,若遂懷異志,不敢聞命。」羲更使祁說之,畿曰:「我受牧恩,當為盡 節;汝為郡吏,自宜效力。不義之事,有死不為。」羲怒,使人謂畿曰:「不從太守, 禍將及家!」畿曰:「樂羊食子,非無父子之恩,大義然也。今雖羹祁以賜畿,畿啜之 矣。」羲乃厚謝於璋。璋擢畿為江陽太守。
朝廷聞益州亂,以五官中郎將牛亶為益州刺 史。征璋為卿,不至。

趙韙は、成都で劉璋をかこんだ。東州兵が、趙韙を退け、江州で趙韙を殺した。龐羲は懼れ、漢昌令の程畿に、異民族の兵を集めさせようとした。程畿は、龐羲を説得して、劉璋に味方させた。龐羲は、劉璋にあやまった。劉璋は程畿を、江陽太守とした。

こまかい経緯は、以下でやってます。
荊州の劉表と孫権をマネしつづけた、孤児の君主・劉璋伝

曹操は益州の乱れを聞き、五官中郎將の牛亶を、益州刺史とした。劉璋がふさいだので、牛亶は着任できず。

張魯以鬼道教民,使病者自首其過,為之請禱,實無益於治病,然小人昏愚,競共 事之。犯法者,三原,然後乃行刑。不置長吏,皆以祭酒為治。民、夷便樂之,流移寄 在其地者,不敢不奉其道。
後遂襲取巴郡,朝廷力不能征,遂就寵魯為鎮民中郎將,領 漢寧太守,通貢獻而已。民有地中得玉印者,群下欲尊魯為漢寧王。功曹巴西閻圃諫曰: 「漢川之民,戶出十萬,財富土沃,四面險固。上匡天子,則為桓、文,次及竇融,不 失富貴。今承製署置,勢足斬斷,不煩於王。願且不稱,勿為禍先。」魯從之。

張魯は鬼道をする。長吏をおかず、祭酒をおいて、漢中を治めた。漢族も蛮族も、張魯になびいた。
のちに巴郡を襲った。朝廷は張魯を征てないから、鎮民中郎將, 漢寧太守として、貢献のみさせた。
漢中の民が、玉印を見つけた。張魯は、漢寧王を名のりたい。功曹をする巴西の閻圃がいさめた。張魯は、漢寧王をやめた。

『資治通鑑』では、張魯が初登場のようだ。そして曹操に降伏する直前の、漢寧王の話題まで、ブチこんだ。ザツだなあ。劉備の脾肉も、サッサと描いてしまったし。


翌年、202年につづく。

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