表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

150年、梁冀の専横を、朱穆が諌める

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

150年春、梁太后の死

孝質皇帝和平元年(庚寅,公元一五零年) 春,正月,甲子,赦天下。改元。 乙丑,太后詔歸政於帝,始罷稱制。二月,甲寅,太后梁氏崩。 三月,車駕徙幸北宮。甲午,葬順烈皇後。增封大將軍冀萬戶,並前合三萬戶;

150年春甲子、天下を赦した。改元した。
正月乙丑、梁太后は、桓帝に政治をかえした。2月甲寅、梁太后は死んだ。

梁太后は、梁冀の妹だっけ。姉だっけ。桓帝に政治をかえしたのは、梁氏が衰えたからでない。梁太后の健康問題だ。

150年3月、桓帝の車駕は、北宮にゆく。3月甲午、梁太后(順烈皇后)を葬った。大將軍・梁冀を1万戶ふやす。合わせて梁冀は、3万戸。

150年、梁冀と孫寿の横暴

封冀妻孫壽為襄城君,兼 食陽翟租,歲入五千萬,加賜赤紱,比長公主。壽善為妖態以蠱惑冀,冀甚寵憚之。冀 愛監奴秦宮,官至太倉令,得出入壽所,威權大震,刺史、二千石皆謁辭之。冀與壽對 街為宅,殫極土木,互相誇競,金玉珍怪,充積藏室;又廣開園圃,採土築山,十裡九 阪,深林絕澗,有若自然,奇禽馴獸飛走其間。冀、壽共乘輦車,游觀第內,多從倡伎, 酣謳竟路。或連日繼夜以聘娛恣。客到門不得通,皆請謝門者,門者累千金。又多拓林 苑,周遍近縣,起兔苑於河南城西,經亙數十裡,移檄所在調發生兔,刻其毛以為識, 人有犯者,罪至死刑。嘗有西域賈胡不知禁忌,誤殺一兔,轉相告言,坐死者十餘人。

梁冀の妻・孫寿を、襄城君にした。陽翟の税収を与えた。歳入は5千萬。赤紱を賜り、長公主なみとした。

胡三省はいう。襄城、陽翟は、どちらも潁川郡。漢室の制度では、公主(皇帝の娘)は、儀服が公侯と同レベル。公主は、紫綬をつける。長公主(皇帝の長女)は、儀服が諸王と同レベル。赤綬をつける。ぼくは補う。孫寿は、諸王とおなじ。
ぼくは思う。潁川や汝南は、洛陽のそば。洛陽とちょっと距離をおき、洛陽の様子を眺めることができる。いわゆる清流たちは、故郷が孫寿に巻き上げられるのを、確かに見た。のちの政治運動の原動力かも。

孫寿は、病気のふりをして、梁冀に愛された。

【追記】goushu氏はいう。(引用はじめ)
「壽善為妖態以蠱惑冀」 「妖」の字には「艶麗」の意味がある。美人の意味で「妖人」「妖女」という熟語が曹植や建安七子の詩に出てきたりする。ここは「孫寿は媚態で梁冀を魅惑した」ぐらいの意味だと思う。媚態の具体的な内容が胡注に詳しく書かれているw(引用おわり)

孫寿は、大倉令から収入をえる。孫寿の威権がふるった。刺史や太守は、孫寿に挨拶した。

胡三省はいう。大倉令は、秩600石。郡国から集めた、漕穀を担当する。大司農に属す。ぼくは補う。孫寿は、国家の税収を、自分のものにした。
【追記】goushu氏はいう。(引用はじめ)
「冀愛監奴秦宮,官至太倉令,得出入壽所」 「梁冀は監奴の秦宮を愛し、(秦宮の)官は太倉令に至り、(秦宮は)孫寿の所に出入りすることができた」ということで、「孫寿は、大倉令から収入をえる。」とまで解釈するのはちょっと飛躍しすぎな気がする。
次の「威權大震,刺史、二千石皆謁辭之。」は、『後漢書』梁冀伝には「威權大震」の前に「宮(秦宮)内外 寵を兼ね、」の一文があり、威権がふるい刺史や太守が挨拶したのも孫壽じゃなく秦宮についての描写。
なんかちょっと検索してみた感じだと、この李賀「秦宮詩」の秦宮に対する絢爛豪華な描写から、明代あたりには秦宮は美少年で梁冀と同性愛的な関係が…みたいなイメージが作られてたっぽいんですけどw
ざっと眺めてみた感じだと、寵奴風情が大きな権力を握ってしまう社会矛盾を強調するために、あえて(苦しむ庶民を尻目に)秦宮がすばらしい着物をきて贅沢三昧をし…みたいなことを、美しく歌い上げるみたいな感じがしました 。(引用おわり)

梁冀は、兎を集めた。兎の毛皮を取れば、死刑だ。禁令を知らず、西域の商人が、兎を1羽殺した。梁冀は商人を殺した。兎の殺害に、10余人が連座した。

又起別第於城西,以納奸亡;或取良人悉為奴婢,至數千口,名曰自賣人。冀用壽言, 多斥奪諸梁在位者,外以示謙讓,而實崇孫氏。孫氏宗親冒名為侍中、卿、校、郡守、 長吏者十餘人,皆貪饕兇淫,各遣私客籍屬縣富人,被以它罪,閉獄掠拷,使出錢自贖, 貲物少者至於死、徙。扶風人士孫奮,居富而性吝,冀以馬乘遺之,從貸錢五千萬,奮 以三千萬與之。冀大怒,乃告郡縣,認奮母為其守藏婢,雲盜白珠十斛、紫金千斤以叛, 遂收考奮兄弟死於獄中,悉沒貲財億七千餘萬。冀又遣客周流四方,遠至塞外,廣求異 物,而使人復乘勢橫暴,妻略婦女,驅擊吏卒,所在怨毒。

孫寿と梁冀は、贅沢を競った。孫氏の宗親は、侍中、卿、校、郡守、 長吏となる人が10余人だ。扶風の人士・孫奮は、梁冀に貸ししぶった。梁冀は、孫奮の兄弟を殺して、財産の1億7千餘萬を没収した。

ぼくは思う。梁冀をけなすための記事だ。細かく訳しても、あまり意味がない。梁冀の所業をわざと悪く書いているのか。それとも、後漢の権力者なら、誰でもやることを、わざと省略せず書いているのか。ぼくには、判断がつかない。

梁冀の食客は、四方で横暴した。怨毒された。

侍御史硃穆自以冀故吏,奏記諫曰:「明將軍地有申伯之尊,位為群公之首,一日 行善,天下歸仁;終朝為惡,四海傾覆。頃者官民俱匱,加以水蟲為害,京師諸官費用 增多,詔書發調,或至十倍,各言官無見財,皆當出民,手旁掠割剝,強令充足。公賦 既重,私斂又深,牧守長吏多非德選,貪聚無厭,遇民如虜,或絕命於棰楚之下,或自 賊於迫切之求。又掠奪百姓,皆托之尊府,遂令將軍結怨天下,吏民酸毒,道路歎嗟。 昔永和之末,綱紀少弛,頗失人望,四五歲耳,而財空戶散,下有離心,馬勉之徒乘敝 而起,荊、揚之間幾成大患;幸賴順烈皇後初政清靜,內外同力,僅乃討定。今百姓戚 戚,困於永和,內非仁愛之心可得容忍,外非守國之計所宜久安也。夫將相大臣,均體 元首,共輿而馳,同舟而濟,輿傾舟覆,患實共之。豈可以去明即昧,履危自安,主孤 時困而莫之恤乎!宜時易宰守非其人者,減省第宅園池之費,拒絕郡國諸所奉送,內以 自明,外解人惑;使挾奸之吏無所依托,司察之臣得盡耳目。憲度既張,遠邇清壹,則 將軍身尊事顯,德燿無窮矣!」冀不納。

侍御史の硃穆は、梁冀の故吏である。朱穆は、梁冀を諌めた。「梁冀は、三公より偉い。京師の諸官がつかう費用は、10倍する。慎みなさい。順帝の永和年間、政治が4、5年ゆるんだ。財政がカラになり、人心が離れた。馬勉が皇帝を名のった。荊州と揚州が乱れた。梁太后が臨朝して回復したが、いま乱れている。改めなさい」と。梁冀は、きかず。

ぼくは思う。梁冀の時代から見て、順帝の時代は、政治がゆるんでいた。荊州や揚州が平定できないのは、やはり問題視されていたんだ。朱穆の言葉には、梁太后ら梁氏に対する、おもねりもあるだろうが。梁冀が執政してから、地方の反乱の記述が、ごく僅かなのは、事実である。求心力はホンモノだ。
ところで、梁冀はどこに地域的基盤は、関中である。後漢の建国以来、つよい兵を養っていたかも。
梁冀と対立した、河間王・劉蒜は、河北に地盤があった。後漢の抱える内憂と外患をしずめるには、河北では内地すぎて、役に立たないか。河北は、恵まれた土地だ。劉秀も袁紹も曹操も、目をつけた。条件に恵まれると、人間は弱くなる。っていうか、強くある必要性がない。もし劉蒜や謝暠が執政したら、儒教的には美しい政治だが、辺境がろくに治まらなかったかも。


冀雖專朝縱橫,而猶交結左右宦官,任其子弟、 賓客以為州郡要職,欲以自固恩寵。
穆又奏記極諫,冀終不悟,報書雲:「如此,僕亦 無一可邪!」然素重穆,亦不甚罪也。

梁冀は専横したが、なお宦官と交結した。梁冀は、宦官の子弟や賓客を、州郡の要職につけた。

宦官とは、皇帝権力の延長。梁冀が宦官と結ぶとは、桓帝への求心力を、培っているに等しい。べつに、宦官=腐った連中、とは限らない。

ふたたび朱穆は、極諫した。「梁冀がやり方を変えねば、私は梁冀を裏切るかも知れない」と。ふだん梁冀は、朱穆を重んじる。梁冀は、朱穆を罪にしない。

ぼくは思う。梁冀は、知能の足らない暴君でない。ただ敵対勢力を、やっつけただけだ。その敵対勢力が、のちに史書の筆を握ったから、梁冀が暴君に描かれただけ。朱穆の件で、それがよく分かる。


樂安太守の陳蕃、京兆尹の延篤が抵抗

冀遣書詣樂安太守陳蕃,有所請托,不得通。使者詐稱它客求謁蕃;蕃怒,笞殺之。 坐左轉修武令。

梁冀は、樂安太守の陳蕃に、手紙した。陳蕃は受けとらず。梁冀の使者は、別人の名前をつかい、陳蕃に目通りした。陳蕃は怒り、梁冀の使者をムチで殺した。梁冀は陳蕃を、修武令に左遷した。

胡三省はいう。修武県は、河内郡に属す。


時皇子有疾,下郡縣市珍藥,而冀遣客□書詣京兆,並貨牛黃。京兆尹 南陽延篤發書收客,曰:「大將軍椒房外家,而皇子有疾,必應陳進醫方,豈當使客千 裡求利乎!」遂殺之。冀慚而不得言。有司承旨求其事,篤以病免。

ときに桓帝の皇子は、病気だ。珍藥をもとめた。梁冀の賓客が、京兆で牛黃を買ってきた。

胡三省は、いろんな本から、牛黄という薬草を説明してる。はぶく。

京兆尹する南陽の延篤は、梁冀の賓客をとらえた。「梁冀は外戚だ。皇子が病気なら、医者が薬を与えるはず。梁冀は、賓客に買物をさせ、手柄をつくる気だ」と。延篤は、賓客を殺した。これを聞いた梁冀は、怒りでものも言えない。延篤を免官した。

150年夏~、桓帝の母に、皇后の待遇

夏,五月,庚辰, 尊博園匽貴人曰孝崇後,宮曰永樂;置太僕、少府以下,皆如長樂宮故事。分巨鹿九縣 為後湯沐邑。
秋,七月,梓潼山崩。

150年夏5月庚辰、博園の匽貴人を、孝崇後とした。匽貴人の宮殿に、太僕や少府以下をおいた。みな長樂宮の故事にあわせた。

胡三省は『続漢志』をひく。徳陽前殿の西北に、入門した内に、永楽宮がある。

巨鹿の9縣 を分けて、匽貴人の湯沐邑とした。
150年秋7月、梓潼山が崩れた。101202

胡三省はいう。梓潼県は、広漢郡に属す。賢はいう。はじめ始州県だったが、梓潼水が流れるから、梓潼県となった。

inserted by FC2 system