表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

144年、順帝が崩じ、馬勉が皇帝を称す

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

144年春、趙沖が羌族の伏兵に殺される

孝順皇帝下建康元年(甲申,公元一四四年) 春,護羌從事馬玄為諸羌所誘,將羌眾亡出塞,領護羌校尉衛琚追擊玄等,斬首八 百餘級。趙沖復追叛羌到建威鸇陰河;軍度竟,所將降胡六百餘人叛走;沖將數百人追 之,遇羌伏後,與戰而歿。沖雖死,而前後多所斬獲,羌由是衰耗。詔封沖子為義陽亭 侯。

144年春、護羌從事する馬玄は、諸羌に誘われた。馬玄は羌族をひきいて、塞外にでた。護羌校尉する衛琚は、馬玄をおい、8百余の首級をとる。

馬玄は、後漢を裏切ったのかなあ? 西方は、馬氏がおおく出てくる。血縁と功績を整理したい。だって、馬援から馬超につながるのだ。笑

趙沖は、ふたたび叛羌をおい、建威の鸇陰河にきた。

賢はいう。『続漢書』は建威を武威とする。鸇陰は県名で、安定郡にぞくす。また涼州のコゾウ県の東南に、鸇陰県の故城がある。県名は、川の名にちなむ。『水経注』はいう。黄河は東に流れ、勇士県の北をとおる。趙沖がきたのは、ここだ。

趙沖が国境を越えると、ひきいた降胡6百余人が、叛いてにげた。趙沖は追ったが、羌族の伏兵にあい、趙沖は死んだ。趙沖は死んだが、羌族にダメージを与えた。趙沖の子を、義陽亭侯とした。

144年夏、南匈奴のつぎ、長江の賊へ

夏,四月,使匈奴中郎將馬寔擊南匈奴左部,破之。於是胡、羌、烏桓悉詣寔降。

144年夏4月、匈奴中郎將の馬寔が、南匈奴の左部を破った。ここにおいて、胡と羌と烏桓は、すべて馬寔に降った

胡三省はいう。南匈奴の左部とは、吾斯の党だ。ぼくは思う。順帝は、北方異民族との戦いで、寿命を使い果たしてしまった。


辛巳,立皇子炳為太子,改元,赦天下。太子居承光宮,帝使侍御史種暠監其家。
中常侍高梵從中單駕出迎太子,時太傅杜喬等疑不欲從而未決,暠乃手劍當車曰:「太 子,國之儲副,人命所系。今常侍來,無詔信,何以知非奸邪?今日有死而已!」梵辭 屈,不敢對,馳還奏之。詔報,太子乃得去。喬退而歎息,愧暠臨事不惑;帝亦嘉其持 重,稱善者良久。

4月辛巳、皇子の劉炳を、皇太子とした。改元して、天下を赦した。

胡三省はいう。劉炳は、虞貴人の子だ。

太子は、承光宮にいる。順帝は、侍御史する種暠に、太子を監督させた。中常侍の高梵は、車1台で劉炳を迎えにきた。ときに太傅の杜喬らは、皇太子を行かせてよいか、決められない。
種暠は剣をぬき、剣を車にあてた。「皇太子は国のナンバー2だ。詔がないのに、皇太子を連れ出す高梵は、奸賊ではないか。高梵には、死んでもらう」と。高梵は身をまげ、答えられず、ひき返した。
順帝の詔がきて、皇太子は承光宮から去ることができた。杜喬は、種暠のように振舞えなかったことを愧じた。順帝は、種暠をほめた。

皇太子は、ただ帰りたいだけである。種暠のような、堅苦しい勤務をされると、迷惑である。家に帰るのが、おそくなる。
でも、ルールはルールとして、厳然としてある。ルールの制定には、背景がある。どんな背景か。皇太子が政敵につれ出され、殺されるリスクだろう。


揚、徐盜賊群起,盤互連歲。秋,八月,九江范容、周生等寇掠城邑,屯據歷陽, 為江、淮巨患;遣御史中丞馮緄督州兵討之。

揚州と徐州で、盜賊が群起した。連年やまず。
144年秋8月、九江の范容、周生らは、城邑を寇掠した。歷陽に拠った。范容は長江や淮水で、巨患となった。御史中丞の馮緄は、州兵で范容を攻めた。

南匈奴が治まれば、長江の流域で反乱。順帝、休まらず。
いや、違うのか。南匈奴があばれるあいだ、並行して長江流域も、あばれた。でも後漢は、放置せざるを得なかった。長江流域の「賊」は、挙兵した年数がボカされている。そうとう長く、放置されたんだろう。後漢として不名誉だ。討伐ができたタイミングで、史書にはじめて登場させる。


144年8月、順帝が崩じ、皇甫規が梁冀を批判

庚午,帝崩於玉堂前殿。太子即皇帝位,年二歲。尊皇後曰皇太后。太后臨朝。 丁丑,以太尉趙峻為太傅,大司農李固為太尉,參錄尚書事。 九月,丙午,葬孝順皇帝於憲陵,廟曰敬宗。 是日,京師及太原、雁門地震。

144年8月庚午、順帝は玉堂前殿で死んだ。太子が皇帝となる。2歳。梁皇后を、皇太后とした。梁太后が臨朝した。8月丁丑、太尉の趙峻は、太傅となる。大司農の李固は、太尉となり、錄尚書事を参じた。
9月丙午、順帝を憲陵に葬り、廟号を敬宗とした。この日、京師と太原、雁門で、地震した。

庚戌,詔舉賢良方正之士,策問之。皇甫規對曰:「伏惟孝順皇帝初勤王政,紀綱 四方,幾以獲安;後遭奸偽,威分近習,受賂賣爵,賓客交錯,天下擾擾,從亂如歸, 官民並竭,上下窮虛。陛下體兼乾坤,聰哲純茂,攝政之初,拔用忠貞,其餘維綱,多 所改正,遠近翕然望見太平,而災異不息,寇賊縱橫,殆以奸臣權重之所致也。其常侍 尤無狀者,宜亟黜遣,披掃兇黨,收入財賄,以塞痛怨,以答天誡。大將軍冀、河南尹 不疑,亦宜增修謙節,輔以儒術,省去游娛不急之務,割減廬第無益之飾。夫君者,舟 也;民者,水也;群臣,乘舟者也;將軍兄弟,操楫者也。若能平志畢力,以度元元, 所謂福也。如其怠弛,將淪波濤,可不慎乎!夫德不稱祿,猶鑿墉之趾以益其高,豈量 力審功,安固之道哉!凡諸宿猾、酒徒、戲客,皆宜貶斥,以懲不軌。令冀等深思得賢 之福,失人之累。」梁冀忿之,以規為下第,拜郎中;托疾,免歸,州郡承冀旨,幾陷 死者再三,遂沉廢於家,積十餘年。

9月庚戌、賢良方正な人材をあげさせた。皇甫規は、政策をこたえた。
「順帝は、くだらない小人に惑わされ、ワイロが、はびこりました。大将軍の梁冀と、河南尹の梁不疑の兄弟を除きなさい」

皇甫規は、長々と喋っているが「梁冀を除け」でこと足りる。

梁冀は怒った。皇甫規を宮殿から下がらせ、郎中とした。皇甫規は病気だと辞退して、帰郷した。皇甫規の故郷では、梁冀をはばかり、皇甫規をもちいず。皇甫規は、10余年くすぶった。

『考異』は皇甫規伝をひく。沖帝と質帝のとき、皇甫規は政策を提言し、クビになった。14年ひきこもったと。だが本紀を見ても、皇甫規は、もう提言しない。すでに質帝のとき、皇甫規は公職にもどっていたか。だから皇甫規伝に「質帝のとき」とあるのか。つぎの145年から数え、梁冀が誅殺されるまで、ちょうど14年である。
ぼくは補う。質帝のとき、皇甫規は何も提言していないのだ。


144年冬、馬勉が皇帝を称す

揚州刺史尹耀、九江太守鄧顯討范容等於歷陽,敗歿。
冬,十月,日南蠻夷復反,攻燒縣邑。交趾刺史九江夏方招誘降之。
十一月,九江盜賊徐鳳、馬勉等攻燒城邑;鳳稱無上將軍,勉稱皇帝,築營於當塗 山中,建年號,置百官。

揚州刺史の尹耀と、九江太守の鄧顯は、歴陽で范容らに、敗死した。

刺史と太守が、戦死したよ!おどろかねば!

144年冬10月、日南の蠻夷が、ふたたび反した。蛮夷は、縣邑を焼いた。交趾刺史する九江の夏方は、蛮夷を降らせた。
11月、九江の盜賊・徐鳳と馬勉らが、城邑を焼いた。徐鳳は、無上將軍を称した。馬勉は、皇帝を称した。當塗の山中に、営を築いた。

『考異』はいう。順帝紀は、永嘉元年(145年)3月、馬勉が皇帝を称した。いま滕撫伝にしたがい、『資治通鑑』を144年とした。
賢はいう。当塗県の山は、いまの宣州だ。『両漢志』を見ると、当塗県は、九江郡にぞくす。『続志』はいう。当塗県は、馬丘衆と徐鳳が、ここで反した。また、塗山がある。禹が諸侯に会したところだ。
晋室が南にわたり、淮水の民は、長江をわたった。東晋の成帝のとき、于胡に、当塗の地名をつくった。東晋がおいた当塗は、唐代に宣州にぞくした。いま(胡三省の時代)の当塗県は、後漢の当塗県とはちがう。
ぼくは補う。東晋のとき、当塗の地名が徙された。もとの当塗は、五胡十六国に取られたから。ぼくにとっては、胡三省のときの当塗より、後漢の当塗のほうが、馴染みぶかい。いらん注釈である。笑

馬勉は年号を立て、百官をおいた。

ぼくは思う。馬勉は、孫権の先例である。
九江郡で馬勉が皇帝を称したのは、南匈奴の反乱で、順帝が北に兵力を向けすぎたから。順帝の時代、徐州や揚州は、頻繁に独立する。時代は下りまして。孫権が献帝に叛いて赤壁を開戦できたのは、曹操が烏桓北伐を長引かせたから。孫策を嗣いだ直後の孫権は、張昭や張紘に導かれ、献帝の平凡な臣下だ。いちおう会稽太守だけど、独立とか、そういう話はそもそもない。
ついでに。
徐州や揚州とおなじで、泰山郡も遠心する。順帝の時代、李固が泰山太守になってから、治まったが。曹操のとき、泰山には臧覇がいた。臧覇は曹操から見て、単純な部下では、なさそうだ。


十二月,九江賊黃虎等攻合肥。是歲,群盜發憲陵。

144年12月、九江の賊・黃虎らが、合肥を攻めた。
この歳、群盜が憲陵をあばいた。101128

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