表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

143年、南匈奴を、後漢が鎮定する

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

143年夏、兜樓儲を南単于を立てる

孝順皇帝下漢安二年(癸未,公元一四三年)
夏,四月,庚戌,護羌校尉趙沖與漢陽太守張貢擊燒當羌於參絲,破之。
六月,丙寅,立南匈奴守義王兜樓儲為呼蘭若屍逐就單于。時兜樓儲在京師,上親 臨軒授璽綬,引上殿,賜車馬、器服、金帛甚厚。詔太常、大鴻臚與諸國侍子於廣陽城 門外祖會,饗賜、作樂、角抵、百戲。

143年夏4月庚戌、護羌校尉の趙沖と、漢陽太守の張貢は、參県で燒當羌をやぶった。
6月丙寅、南匈奴の守義王・兜樓儲を、呼蘭若屍逐就單于とした。

中華書局は「呼蘭若屍逐就單于」を固有名詞とする。なんのこっちゃ。
胡三省はいう。永和五年、吾斯と車紐が後漢にそむいた。陳亀は、単于の休利を殺した。南単于は、空位となった。ここにきて、南単于が立てられた。
『考異』はいう。袁紀によれば、142年6月、兜樓儲を単于とした。いま司馬光は、范曄『後漢書』にしたがう。

ときに兜樓儲は、京師にきた。みずから順帝は、璽綬らを与えた。太常と大鴻臚に命じ、諸國の侍子とともに、廣陽城の 門外で宴をした。

胡三省はいう。太常と大鴻臚は、四夷の客をもてなす。
賢はいう。広陽とは、洛陽穣の西面、南頭門だ。


143年冬、匈奴の元凶を刺殺する

冬,閏十月,趙衝擊燒當羌於阿陽,破之。
十一月,使匈奴中郎將扶風馬寔遣人刺殺句龍吾斯。涼州自九月以來,地百八十震,山谷坼裂,壞敗城寺,民壓死者甚眾。

143年冬、閏10月、趙衝は阿陽で、燒當羌を破った。

賢はいう。阿陽権は、漢陽郡に属す。いまの秦州、隴城県の西北。

11月、匈奴中郎將する扶風の馬寔に命じ、句龍と吾斯を刺殺させた。

140年代、匈奴で反乱を起こしていた張本人だ。烏桓や羌胡をあつめて、後漢を圧迫した。140年代の危機は、ここで収束するのかな。外圧が減ると、緊張がゆるんで、内乱が始まる。どうなるか、お楽しみ。

涼州では9月より、地震が180回。山谷はさけ、城府はくずれた。死者は、とてもおおい。

尚書令黃瓊以前左雄所上孝廉之選,專用儒學、文吏,於取士之義猶有所遺,乃奏 增孝悌及能從政者為四科;帝從之。

尚書令する黄瓊は言った。「まえ左雄が孝廉をあげるとき、儒學だけを基準に、文吏を選んだ。孝悌など、ほかの基準4つでも、政治がうまい人を選ぼう」と。順帝はみとめた。101128

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