表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

139年、梁氏を頼りすぎる順帝

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

139年正月、順帝が張逵の連座をふやす

孝順皇帝下永和四年(己卯,公元一三九年)
春,正月,庚辰,逵等伏誅。事連弘農太守張鳳、安平相楊皓,皆坐死。辭所連染, 延及在位大臣。

139年春正月庚辰、張逵らを殺した。

前年に、梁商や曹騰をねたみ、捕まえようととした宦官です。順帝に見抜かれて、失敗した。宦官として、つねに順帝に侍るくせに、順帝の意向が分からないのは、かなりフシアナだ。それとも、別の意図があったのだろうか。動機が、「ねたみ」という個人的な感情に、史書で矮小化された。怪しいと言えば、怪しいパタンだ。

弘農太守の張鳳、安平相の楊皓が、張逵に連座して死んだ。大臣にまで、連座がおよぶ。

商懼多侵枉,乃上疏曰:「《春秋》之義,功在元帥,罪止首惡。大獄 一起,無辜者眾,死囚久系,纖微成大,非所以順迎和氣,平政成化也。宜早訖章,以 止逮捕之煩。」帝納之,罪止坐者。

梁商は冤罪をおそれ、順帝をとどめた。「『春秋』の大義では、首謀者だけ罪とします。もう充分です」と。順帝は、連座させるのを辞めた。

胡三省は、『春秋左氏伝』から典拠をひくが。はぶきます。
ものすごく巨大な「陰謀」があったに、違いない。数人の宦官の「ねたみ」で、こんな事件とはならない。どういう内容をもつ対立か。『後漢書』にきちんと書いてあるのかなあ。後日、探してみたい。


139年2月、順帝が梁不疑を抜擢する

二月,帝以商少子虎賁中郎將不疑為步兵校尉。商 上書辭曰:「不疑童孺,猥處成人之位。昔晏平仲辭鄁殿以守其富,公儀休不受魚飧以 定其位。臣雖不才,亦願固福祿於聖世!」上乃以不疑為侍中、奉車都尉。

138年2月、梁商の幼子は、梁不疑である。順帝は、虎賁中郎將の梁不疑を、歩兵校尉とした。梁商は『左伝』をひき、順帝に反対した。順帝はゆるし、梁不疑を侍中、奉車都尉とした。

斉の晏子や、魯相の公儀休は、もらいものを辞退した。
ぼくは思う。順帝が幼子を校尉にするのは、ヤリスギである。想像するに。138年におきた張逵の策謀は、順帝その人の立場すら、ひっくり返す事件だった。だから順帝は、梁商を味方につけて、これを乗り切りたい。
順帝は過剰に、張逵につらなる人を罰した。順帝に、あせりが見える。
梁商は「そこまでムキにならなくても、順帝さんは安泰ですよ。私は、あなたの味方ですよ」となだめたのだ。
胡三省はいう。梁商は『経』『伝』に通じていたと。胡三省ですら(ぼくから見ると)司馬光に引きずられている。司馬光は、梁商が古典をひき、順帝をなだめた話を、読者(皇帝)に読ませたい。だから梁商の、ほどよい政治手腕を、強調した。
しかし、ぼくがおもしろいのは、順帝の極端なふるまいだ。梁商でない。皇位、あぶないのかなあ。いまだに順帝に対立する皇統を、『後漢書』から見つけると、楽しいかも。のちに梁冀と曹騰が、皇帝を廃立する話に、つながるかも。


139年3月~、馬賢が燒當羌を斬る

三月,乙亥,京師地震。 燒當羌那離等復反;夏,四月,癸卯,護羌校尉馬賢討斬之,獲首虜千二百餘級。 戊午,赦天下。
五月,戊胡,封故濟北惠王壽子安為濟北王。 秋,八月,太原旱。

139年3月乙亥、洛陽で地震。燒當羌の那離らが、ふたたび反した。夏4月癸卯、護羌校尉の馬賢は、那離を斬った。1200の首級をとった。
4月戊午、天下を赦した。
5月戊胡、もと濟北惠王の劉壽の子・劉安を、濟北王とした。101127

『後漢書』の皇族の列伝、またやりたくなってきた。
胡三省はいう。去年、済北王の劉多が死んだ。子なし。いま劉安につがせた。范曄『後漢書』列伝では、劉安国とする。本紀にしたがい、劉安とする。

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