表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

137年、交趾刺史が遠征できない

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

なぜ134年か。梁冀の登場を、確認したいから。たまたま『資治通鑑』52巻が、134年から始まる。だから、134年を訳してみた。


137年春、武陵郡の反乱、李進が平定

孝順皇帝下永和二年(丁丑,公元一三七年)
春,武陵蠻二萬人圍充城,八千人寇夷道。
二月,廣漢屬國都尉擊破白馬羌。
帝遣武陵太守李進擊叛蠻,破平之。進乃簡選良吏,撫循蠻夷,郡境遂安。
三月,乙卯,司空王卓薨。丁丑,以光祿勳郭虔為司空。

137年春、武陵蛮2万人が、充城をかこんだ。武陵蛮8千人が、夷道を寇した。

胡三省はいう。充県は、武陵郡にある。夷道は、南郡にある。武陵郡でない。
ぼくは補う。前年136年は、武陵太守が「南蛮に増税しましょう」と言い、順帝が賛成した。尚書の虞詡が反対したのに。おかげで南蛮は叛き、漢族の役人を殺した。

137年2月、廣漢屬國の都尉は、白馬羌を破った。

胡三省はいう。安帝は、蜀郡の北部都尉を、広漢属国の都尉と改めた。この都尉はべつに、陰平、ジュン氐、剛氐の3道を益州にくっつけて、領した。
ぼくは思う。陰平は、益州だった。諸葛亮の北伐は、益州の内部での拡大だったとも言える。区切り方によっては。

順帝は、武陵太守の李進に、南蛮を平定させた。李進は、よい官吏をえらび、南蛮をなでた。武陵の境界は、安んじた。
137年3月乙卯、司徒の王卓が薨じた。3月丁丑、光祿勳の郭虔が司空。

137年夏秋、交趾刺史が遠征できない

夏,四月,丙申,京師地震。
五月,癸丑,山陽君宋娥坐構奸誣罔,收印綬,歸裡捨。黃龍、楊佗、孟叔、李建、 張賢、史泛、王道、李元、李剛等九侯坐與宋娥更相賂遺,求高官增邑,並遣就國,減 租四分之一。

137年夏4月丙申、京師で地震。
5月癸丑、山陽君の宋娥は、人を誣告したとして、印綬を没収。里舎にかえった。黃龍、楊佗、孟叔、李建、 張賢、史泛、王道、李元、李剛ら9侯は、宋娥に連座した。9侯は賄賂して、たかい官位とおおい封邑をもとめた。9侯は国にゆかされ、収入の4分の1を減らされた。

『考異』はいう。『後漢書』孫程伝はいう。黄龍は、曹騰と孟賁をそしったと。梁商伝では、曹騰と孟賁をそしったのは、黄龍でなく、張逵である。
ぼくは思う。黄龍ら9侯か、張逵だか、分からないが。曹操の祖父・曹騰は、おおくの政敵にそしられた。これだけは、確認できる。曹騰がどれくらいスゴいのか。曹操を見積もるためには、避けて通れない話。


象林蠻區憐等攻縣寺,殺長吏。交趾刺史樊演發交趾、九真兵萬餘人救之;兵士憚 遠役,秋,七月,二郡兵反,攻其府。府雖擊破反者,而蠻勢轉盛。

象林の蛮・區憐らは、県の役所を攻め、長吏を殺した。

胡三省はいう。いま広中に、区氏がいる。『姓譜』はいう。いま長沙に、区姓がある。

交趾刺史の樊演は、交趾と九真の1万余で、象林を救った。兵は、遠征をいやがる。秋7月、交趾と九真の兵が反し、交趾刺史の役所を攻めた。交趾刺史は、兵士こそ破ったが、象林の蛮は、ますます盛んだ。

136年にある。象林県は、日南郡だ。晋宋よりあと、林邑国とした。つまり、今日の中国の最南端の兵をつかい、ベトナム方面を攻めようとした。けっきょく、どちらにも叛かれた。ここ、交趾刺史はいるが、「国外」だな。


137年冬、法正の祖父が、順帝をことわる

冬,十月,甲申,上行幸長安。扶風田弱薦同郡法真博通內外學,隱居不仕,宜就 加袞職。帝虛心欲致之,前後四征,終不屈。友人郭正稱之曰:「法真名可得聞,身難 得而見。逃名而名我隨,避名而名我追,可謂百世之師者矣!」真,雄之子也。

137年冬10月甲申、順帝は長安にゆく。扶風の田弱は、同郡の法真を三公に推薦した。法真は、内外の学問に通じ、官位につかず閉じこもっているから。

胡三省はいう。長安洛陽の儒者は、七緯を内学とし、六経を外学とする。へえ。
【追記】goushu氏はいう。(引用はじめ)
原文は「東都」の諸儒なので長安じゃなくて洛陽の儒者じゃないかな?もしからしたら「東都」で広い意味で洛陽を都とした後漢王朝のことかも知れないけど、ちょっとすぐにはわからん。
『後漢書』逸民伝の法真の伝で、王先謙『集解』は胡注を引用して「東漢の諸儒」と言っており、「東都」を「東漢」に言い換えている。また『後漢書』に「内學」という言葉が他に出て来る部分の注なんかも参照する限り、「東都諸儒」は「後漢の儒学者」のことだと思う。
後漢では七緯つまり緯書が儒家学者の間でも「内學」として重要視されていた。『後漢書』孔僖伝(「儒林上)の孔僖の息子長彦の記事に対する集解によると、具体的には経書を解釈するのに緯書を利用していたらしい。
【追記】goushu氏はいう。(引用つづく)
皮錫瑞『増註 經學歴史』によると漢代の人は孔子の教えは(将来漢王朝が天下を統一し安定させることを予想して)漢王朝のために作られたと考えていた。(惟だ漢人のみ孔子の維世立教の義を知り、故に孔子漢の爲に道を定め、漢の爲に制作する)
誰の著かよくわからないけど、『増註 經學歴史』の注によるとこういう考え方は前漢末から出てきた緯書によく見られる考え方で、一例として『春秋緯演孔圖』の「孔子仰推天命、俯察時變、卻觀未來、豫解無窮、知漢當繼大亂之後、故作撥亂之法以授之」という一文を引用する。(引用おわり)
ぼくは追記します。goushu氏の発言、後半はぼくのページへのご指摘ではありませんが、勉強になるので、引用させていただきました。「東都」を長安と書いたのは、ただのアホなミスです。すみません。

順帝は、法真を4回も召した。法真は、順帝に屈さず。友人の郭正は、法真をたたえた。「法真の名を聞くことはできるが、法真とは会えない。法真が名声から逃げようとしても、名声は法真についてくる。みなの手本だ」と。法真は、法雄の子である。

胡三省はいう。法雄は、『資治通鑑』49巻、安帝の永初四年にある。ぼくは補う。法真は、蜀漢の法正の祖父だっけ。玄徳先生です。


丁卯,京師地震。
太尉王龔以中常侍張昉等專弄國權,欲奏誅之。宗親有以楊震行事諫之者,龔乃止。
十二月,乙亥,上還自長安。

10月丁卯、洛陽で地震した。
太尉の王龔は、上奏する。「中常侍の張昉らが、国権をもてあそぶ。この宦官を殺しなさい」と。王龔の宗親は、王龔を諌めた。「楊震は皇帝を諌めて、どんな目に遭いましたか」と。王龔は、上奏をやめた。
137年十二月乙亥、順帝は長安から洛陽にもどる。101126

胡三省はいう。楊震は、『資治通鑑』50巻、安帝の延光三年にある。
ぼくは思う。もし順帝が、洛陽にいたら。王龔は、諌めてもらう間もなく、順帝に上奏しただろう。「宦官を除け」という主張の内容は、袁紹とおなじだ。

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