表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

134年、周挙と張衡が、順帝を批判

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

なぜ134年か。梁冀の登場を、確認したいから。たまたま『資治通鑑』52巻が、134年から始まる。だから、134年を訳してみた。


134年夏、尚書の周挙が、順帝を批判

孝順皇帝下陽嘉三年(甲戌,公元一三四年) 夏,四月,車師後部司馬率後王加特奴等,掩擊北匈奴於閶吾陸谷,大破之;獲單 於母。

134年夏4月、車師後部の司馬は、後王の加特奴らをひきい、北匈奴を閶吾陸谷でフクロ叩きにした。おおいに破り、北匈奴の単于の母をとらえた。

固有名詞、なんのことやら、分かりませんが。胡三省の注釈もなし。北匈奴は、光武帝になびかなかった、匈奴のカタワレです。


五月,戊戌,詔以春夏連旱,赦天下。上親自露坐德陽殿東廂請雨。以尚書周舉才 學優深,特加策問。舉對曰:「臣聞陰陽閉隔,則二氣否塞。陛下廢文帝、光武之法, 而循亡秦奢移之欲,內積怨女,外有曠夫。自枯旱以來,彌歷年歲,未聞陛下改過之效, 徒勞至尊暴露風塵,誠無益也。陛下但務其華,不尋其實,猶緣木希魚,卻行求前。誠 宜推信革政,崇道變惑,出後宮不御之女,除太官重膳之費。《易﹒傳》曰:『陽惑天 不旋日。』惟陛下留神裁察!」

134年5月戊戌、春も夏も日照だから、天下を大赦した。後漢の順帝は外出し、みずから德陽殿にすわり、雨乞いした。

胡三省は『後漢書』桓帝紀をひく。徳陽殿は、北宮のエキテイの中にある。

尚書の周挙は、学問がある。順帝は、日照への対策を質問した。周挙はこたえた。「順帝は、文帝や光武帝の方法をやめ、始皇帝の方法をしてます。ゼイタクがいけません。ゼイタクを辞めねば、雨乞しても、無益です」と。

帝復召舉面問得失,舉對以「宜慎官人,去貪污,遠佞 邪。」帝曰:「官貪污、佞邪者為誰乎?」對曰:「臣從下州超備機密,不足以別群臣。 然公卿大臣數有直言者,忠貞也;阿諛苟容者,佞邪也。」

順帝は、ふたたび周挙に聞いた。「どうしたらよいか」と。周挙は答えた。「ゼイタクで、邪悪な臣下を除きなさい」と。順帝は聞いた。「だれを除けばよいか」と。
周挙は答えた。「私は中央に出てきて、機密をあずかっています。私の口から、個人名は言えません。ただし、公卿や大臣のうち、順帝に直言してくる人は、忠貞な臣下です」と。

胡三省はいう。周挙は冀州刺史から、尚書に異動した。ぼくの補足。尚書は、機密をあずかってます。


134年夏、太史令の張衡が、順帝を批判

太史令張衡亦上疏言:「前年京師地震土裂。裂者,威分;震者,民擾也。竊懼聖 思厭倦,制不專己,恩不忍割,與眾共威。威不可分,德不可共。願陛下思惟所以稽古 率舊,勿使刑德八柄不由天子,然後神望允塞,災消不至矣。」

太史令の張衡も、順帝に上疏した。「前年に洛陽で地震がありました。順帝の政治が悪く、民衆が騒いでいるからです。『周礼』が説く8つを守れば、地震は起きません」と。

胡三省はいう。『周礼』はいう。王は、8つの方法で、郡臣をあやつる。1つ、爵で貴をきめる。2つ、禄で富をきめる。(こんな調子なんだが、以下略)
ぼくは思う。順帝の朝廷がザックバランで、皇帝への批判がしやすかったのでは、ないだろう。司馬光が、順帝への諫言を、好んで載せているはず。司馬光が想定した『資治通鑑』の読者は、皇帝である。非主流の臣下だてらに、皇帝をそとから「教育」するため、これを読ませている。


衡又以中興之後,儒者 爭學《圖緯》,上疏言:「《春秋元命包》有公輸班與墨翟,事見戰國;又言別有益州, 益州之置在於漢世。又劉向父子領校秘書,閱定九流,亦無《讖錄》。則知《圖讖》成 於哀、平之際,皆虛偽之徒以要世取資,欺罔較然,莫之糾禁。且律歷、卦候、九宮、 風角,數有征效,世莫肯學,而競稱不佔之書,譬猶畫工惡圖犬馬而好作鬼魅,誠以實 事難形而虛偽不窮也!宜收藏《圖讖》,一禁絕之,則硃紫無所眩,典籍無瑕玷矣!」

太史令の張衡は、また言った。「光武帝のあと、儒者は争って『図緯』を学んでいる。ウソばかりだから、辞めさせよう」と。

胡三省が、気合を入れて、『図緯』の書名や記述の中身を、注釈している。手にあまるので、引きません。益州(前漢の武帝がはじめて設置)に、ひとつの独立した学派があるよ、など、おもしろそうな話もあるが。


134年秋冬、ゼイタクな二公を罷免

秋,七月,鐘羌良封等復寇隴西、漢陽。詔拜前校尉馬賢為謁者,鎮撫諸種。
冬, 十月,護羌校尉馬續遣兵擊良封,破之。

134年秋7月、鐘羌の良封らが、また隴西と漢陽を寇した。前の校尉・馬賢を謁者として、羌たちを鎮撫させた。
134年冬10月、護羌校尉の馬續は、良封を破った。

十一月,壬寅,司徒劉崎、司空孔扶免,用國舉之言也。乙己,以大司農黃尚為司 徒,光祿勳河東王卓為司空。
耿貴人數為耿氏請,帝乃紹封耿寶子箕為牟平侯。

11月壬寅、司徒の劉崎と、司空の孔扶を免じた。周挙の提案を、順帝が採用したのだ。11月乙己、大司農の黃尚を司 徒とし、光祿勳をする河東の王卓を司空とした。

劉崎と孔扶が、ゼイタクで邪悪な臣だった。2人は『後漢書』に列伝なし。

耿貴人は、しばしば実家・耿氏のために、順帝にネダった。順帝は、耿寶の子・耿箕を、牟平侯とした。(つづく)

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