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123年、楊震が、順帝の取りまきと対決

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

123年夏、班超の子を、を西域長史とする

孝安皇帝延光二年(癸亥,公元一二三年) 春,正月,旄牛夷反,益州刺史張喬擊破之。
夏,四月,戊子,爵乳母王聖為野王君。

123年春正月、旄牛(蜀郡)の夷が反した。益州刺史の張喬が擊破した。
夏4月戊子、安帝の乳母・王聖を、野王君に封じた。

北匈奴連與車師入寇河西,議者欲復閉玉門、陽關以絕其患。敦煌太守張璫上書曰: 「臣在京師,亦以為西域宜棄,今親踐其土地,乃知棄西域則河西不能自存。謹陳西域 三策:北虜呼衍王常展轉蒲類、秦海之間,專制西域,共為寇鈔。今以酒泉屬國吏士二 千餘人集崑崙塞,先擊呼衍王,絕其根本,因發鄯善兵五千人脅車師後部,此上計也。 若不能出兵,可置軍司馬,將士五百人,四郡供其犁牛、谷食,出據柳中,此中計也。 如又不能,則宜棄交河城,收鄯善等悉使入塞,此下計也。」朝廷下其議。

北匈奴と車師は、河西を寇す。玉門と陽關を閉じよと議された。
敦煌太守の張璫は、上疏した。「西域を棄てたら、河西も危うい。西域への対処に、3つに作戦があります。上策は、。中策は、。下策は、交河城を棄て、鄯善らを塞内に入れることだ」と。朝廷は、下策をもちいた。

陳忠上疏曰: 「西域內附日久,區區東望扣關者數矣,此其不樂匈奴、慕漢之效也。今北虜已破車師, 勢必南攻鄯善,棄而不救,則諸國從矣。若然,則虜財賄益增,膽勢益殖,威臨南羌, 與之交通,如此,河西四郡危矣。河西既危,不可不救,則百倍之役興,不訾之費發矣。 議者但念西域絕遠,恤之煩費,不見孝武苦心勤勞之意也。方今敦煌孤危,遠來告急; 復不輔助,內無以慰勞吏民,外無以威示百蠻,蹙國減土,非良計也。臣以為敦煌宜置 校尉,按舊增四郡屯兵,以西撫諸國。」帝納之,於是復以班勇為西域長史,將兵五百 人出屯柳中。

陳忠は上疏した。「いま消極策を打てば、漢室の弱さを異民族に見せることになる。河西が危うい。以前のように、敦煌に校尉を置き、4郡に兵を増やせ。西域の諸国を撫せ」と。順帝は、陳忠をいれた。班勇(班超の子)を西域長史とし、5百をつけて、柳中におく。

123年冬、楊震が、乳母と宦官を責める

秋,七月,丹楊山崩。 九月,郡國五雨水。
冬,十月,辛未,太尉劉愷罷;甲戌,以司徒楊震為太尉,光祿勳東萊劉熹為司徒。 大鴻臚耿寶自候震,薦中常侍李閏兄於震曰:「李常侍國家所重,欲令公辟其兄;寶唯 傳上意耳。」震曰:「如朝廷欲令三府辟召,故宜有尚書敕。」寶大恨而去。執金吾閻 顯亦薦所親於震,震又不從。司空劉授聞之,即辟此二人;由是震益見怨。時詔遣使者 大為王聖修第;中常侍樊豐及侍中周廣、謝惲等更相扇動,傾搖朝廷。由是震益見怨。

123年秋7月、丹楊山が崩れた。 9月、郡國5で、雨水あり。
123年冬10月辛未、太尉の劉愷をやめた。10月甲戌、司徒の楊震を、太尉とした。光祿勳する東萊の劉熹を、司徒とした。
大鴻臚の耿寶は、楊震をたずねた。耿寶は楊震に、中常侍・李閏の兄を薦めた。「李閏は、安帝に重んじられる。李閏の兄を、楊震の太尉府に辟せ」と。楊震は、ことわった。耿寶は、楊震を恨んで去った。執金吾の閻顯(皇后の兄)は、親しい人を楊震に薦めた。楊震は、ことわった。司空の劉授が、楊震がことわった2人を辟した。

時詔遣使者 大為王聖修第;中常侍樊豐及侍中周廣、謝惲等更相扇動,傾搖朝廷。 震上疏曰:「臣 伏念方今災害滋甚,百姓空虛,三邊震擾,帑藏匱乏,殆非社稷安寧之時。詔書為阿母 興起第捨,合兩為一,連裡竟街,雕修繕飾,窮極巧伎,攻山采石,轉相迫促,為費巨 億。周廣、謝惲兄弟,與國無肺府枝葉之屬,依倚近幸奸佞之人,與之分威共權,屬托 州郡,傾動大臣。宰司辟召,承望旨意,招來海內貪污之人,受其貨賂,至有臧錮棄世 之徒,復得顯用;白黑混淆,清濁同源,天下讙嘩,為朝結譏。臣聞師言,上之所取, 財盡則怨,力盡則叛,怨叛之人,不可復使,惟陛下度之!」上不聽。

順帝の乳母が、宮殿をつくる。順帝の宦官が、朝廷を傾搖する。中常侍の樊豐、および侍中の周廣、謝惲らである。楊震は、順帝を諌めた。順帝は、楊震をきかず。

楊震が諌めた内容は、平凡。浪費とか僭越とか。まだ順帝の取りまきは、他人を陥れないだけ、質がいい。っていうか、そこまで政治の手腕がないのかも。霊帝のときと、なにが違うのだろう。清流のような対抗勢力が、まだ育っていないのか。太学がないから。


鮮卑其至鞬自將萬餘騎攻南匈奴於曼柏,薁鞬日逐王戰死,殺千餘人。 十二月,戊辰,京師及郡國三地震。
陳忠薦汝南周燮、南陽馮良學行深純,隱居不仕,名重於世;帝以玄纁羔幣聘之; 燮宗族更勸之曰:「夫修德立行,所以為國,君獨何為守東岡之陂乎?」燮曰:「夫修 道者度其時而動,動而不時,焉得亨乎!」與良皆自載至近縣,稱病而還。

鮮卑は、南匈奴を曼柏に攻めた。南単于の薁鞬日逐王が戦死した。123年12月戊辰、京師および郡國3で、地震あり。
陳忠は、汝南の周燮、南陽の馮良を薦めた。學行は深純、隱居して仕えず、名は世に重んじられた。安帝は、玄纁羔幣をプレゼントした。周燮の宗族は、仕官を薦めた。だが周燮は、「動く時期ではない」と言い、馮良とともに引き返した。101230

ぼくは思う。はっきり言えばいい。「安帝の朝廷は、仕える価値がない」と。

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