表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

121年、鄧太后が死に、安帝が身内と親政する

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

121年2月、鄧太后が死に、安帝が親政

孝安皇帝建光元年(辛酉,公元一二一年)
春,護羌校尉馬賢召盧匆++心,斬之,因放兵擊其種人,獲首虜二千餘,忍良等皆 亡出塞。 幽州刺史巴郡馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等將兵擊高句麗,高句麗王宮遣 嗣子遂成詐降,而襲玄菟、遼東,殺傷二千餘人。

121年春、護羌校尉の馬賢は、前年に分裂した当煎を、斬って追い出した。 幽州刺史する巴郡の馮煥と、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡諷らは、高句麗を撃つ。高句麗はいつわって後漢に降り、玄菟、遼東で2千余人を殺傷した。

二月,皇太后寢疾,癸亥,赦天下。三月,癸巳,皇太后鄧氏崩。未及大斂,帝復 申前命,封鄧騭為上蔡侯,位特進。丙午,葬和熹皇後。太后自臨朝以來,水旱十載, 四夷外侵,盜賊內起,每聞民饑,或達旦不寐,躬自減徹以救災厄,故天下復平,歲還 豐穰。

121年2月、鄧太后は寝こんだ。2月癸亥、天下を赦した。3月癸巳、鄧太后は報じた。大斂の前に、安帝は鄧騭を上蔡侯、特進とした。2月丙午、和熹皇后(鄧太后)を葬った。

范曄はいう。漢室では、皇后に諡号はない。夫の皇帝の諡号をつける。前漢の呂氏と上官氏は、専政したから、例外として号はない。後漢で、明帝が「光烈皇后」を贈ったのが、はじまり。あとは、賢愚や優劣にかかわらず、皇后に諡号をつける。馬皇后と竇皇后は、徳を称えられた。和帝よりあと、のこりの皇帝は、傍系から入り、あとから号をもらう。
初平年間、はじめて蔡邕は、鄧皇后に「和熹」を贈る。安帝の閻皇后、順帝の梁皇后より以下、みな同じパタン。

鄧太后が臨朝してより、水旱は10載。四夷は外侵し、盜賊は內起した。いつも鄧太后は、民の飢えを聞いた。鄧太后は、朝まで眠れず、みずから食事を減らした。天下は平らかにもどり、豊作となった。

ぼくは思う。たかが3日くらい、鄧太后の記事を読んだだけでも、鄧太后を好きになりそうだ。鄧太后を、称えたくなる。笑


上始親政事,尚書陳忠薦隱逸及直道之士穎川杜根、平原成翊世之徒,上皆納用 之。忠,寵之子也。初,鄧太后臨朝,根為郎中,與同時郎上書言:「帝年長,宜親政 事。」太后大怒,皆令盛以縑囊,於殿上撲殺之,既而載出城外,根得蘇;太后使人檢 視,根遂詐死,三日,目中生蛆,因得逃竄,為宜城山中酒家保,積十五年。成翊世以 郡吏亦坐諫太后不歸政抵罪。帝皆征詣公車,拜根侍御史,翊世尚書郎。或問根曰: 「往者遇禍,天下同義,知故不少,何至自苦如此?」根曰:「周旋民間,非絕跡之處, 邂逅發露,禍及親知,故不為也。」

安帝は、はじめて親政する。尚書の陳忠は、隱逸および直道之士を薦めた。穎川の杜根、平原の成翊世らである。安帝は採用した。

ぼくは補う。鄧太后に対して「隱逸」で、鄧太后に対して「直道」な人を、採用したのだ。つまり、鄧太后の政権で、日の目を見なかった人を、採用せよと言ったのだ。紛争のモトなのになあ。不満を積もらせた人間は、素材がどんなに素晴らしくても、ロクなことがない。

陳忠は、陳寵の子だ。
はじめ鄧太后が臨朝したとき、杜根は郎中だ。杜根は、鄧太后に上書した。「安帝は年長だ。親政させよ」と。鄧太后は大怒し、殿上で撲殺しようとした。杜根は逃げて、目にウジをわかせ、死んだふりをした。南郡の山中に、15年かくれた。
成翊世は、鄧太后を諌めて、罪をうけた。

ぼくは思う。安帝の親政は、鄧太后への反動。主義主張の差異ではなく、ただの派閥争いに陥るリスクが高い。案の定、安帝の朝廷は、そうなる。ぼくは注意ぶかく、史料批判のヨロイを、まとったはずが。鄧太后への思慕が、どうも引きずる。以降しばらく、安帝と外戚の閻氏の、つまらん記事を読まされる。なおさら、鄧太后が懐かしい。
2010年の冬休みの初めは、鄧太后に染まった。列伝を読もう。っていうか、鄧禹伝を読もう。分量が多いが、やりたい。
ぼくは思う。内憂と外患は、並列でなく、二者択一だ。外に脅威があれば、内は団結する。外に脅威が去れば、内で紛争する。『資治通鑑』で後漢が該当する。なぜぼくは、これを強調するか。前職での経験のせい。営業部署は、社外で叩かれるため、社内で団結。内勤部署は、社内に敵を見つけて、要らぬ対立をしたがる。当事者として、上司を失脚させ、つぎはぎゃくに、失脚させられた実体験がある。

順帝は、杜根を侍御史に、成翊世を尚書郎とした。ある人が杜根に問う。「杜根は、言いたいことを言って、鄧太后から禍いを受けた。天下に義とされるが、動機を知られない。なぜ鄧太后に直言したのか」と。杜根は言った。「うっかり言っちゃった」と。

ぼくは思う。なんか杜根の意味を、分かってない。


戊申,追尊清河孝王曰孝德皇,皇妣左氏曰孝德後,祖妣宋貴人曰敬隱後。初,長 樂太僕蔡倫受竇後諷旨誣陷宋貴人,帝敕使自致延尉,倫飲藥死。

2月戊申、清河孝王を孝德皇とした。皇妣の左氏を、孝德后とした。祖妣の宋貴人を、敬隱后とした。はじめ(082年)、長樂太僕の蔡倫は、竇皇后に命じられて、安帝の祖母・宋貴人を誣陷した。安帝は、蔡倫を毒死させた。

胡三省はいう。安帝の直系の先祖を、尊んだのだ。ぼくは補う。安帝の父・清河孝王とは、劉慶である。劉慶は、章帝の子だが、皇太子を廃された。


121年夏、鄧太后の一族を、ほぼ殺す

夏,四月,高句麗復與鮮卑入寇遼東,蔡諷追擊於新昌,戰歿。功曹掾龍端、兵馬 掾公孫酺以身扞諷,俱沒於陳。 丁巳,尊帝嫡母耿姬為甘陵大貴人。 甲子,樂成王萇坐驕淫不法,貶為蕪湖侯。
己巳,令公卿下至郡國守相各舉有道之士一人。尚書陳忠以詔書既開諫爭,慮言事 者必多激切,或致不能容,乃上疏豫通廣帝意曰:「臣聞仁君廣山藪之大,納切直之謀, 忠臣盡謇諤之節,不畏逆耳之害,是以高祖捨周昌桀、紂之譬,孝文嘉袁盎人豕之譏, 武帝納東方朔宣室之正,元帝容薛廣德自刎之切。今明詔崇高宗之德,推宋景之誠,引 咎克躬,諮訪群吏。言事者見杜根、成翊世等新蒙表錄,顯列二台,必承風響應,爭為 切直。若嘉謀異策,宜輒納用;如其管穴,妄有譏刺,雖苦口逆耳,不得事實,且優遊 寬容,以示聖朝無諱之美;若有道之士對問高者,宜垂省覽,特遷一等,以廣直言之 路。」書御,有詔,拜有道高第士沛國施延為侍中。

121年夏4月、高句麗と鮮卑が、遼東を寇した。蔡諷は追擊し、新昌で戰歿した。遼東の功曹掾と兵馬掾も、陣没した。
4月丁巳、安帝の嫡母・耿姬を、甘陵(劉慶の陵)の大貴人とした。 4月甲子、樂成王の劉萇が、驕淫で不法だから、蕪湖(廬江)侯に貶めた。

ぼくは補う。霊帝は貧乏だと言うが。いま霊帝の父・劉萇が、県侯に落ちたから、貧乏だったのだ。霊帝が蓄財を工夫するのは、この因果のめぐった結果。

4月己巳,公卿から郡國の守相まで、有道之士を1人ずつ挙げさせた。この命令が、物議をかもすリスクがある。尚書の陳忠は、安帝の意図をくみとり、上疏した。「いま安帝は、杜根、成翊世らを、新たに用いた。有道之士に、きちんと耳を傾ける準備がある」と。約束どおり、沛國の施延が採用され、侍中となった。

初,汝南薛包,少有至行,父娶後妻而憎包,分出之。包日夜號泣,不能去,至被 驅撲,不得已,廬於捨外,旦入灑掃。父怒,又逐之,乃廬於裡門,昏晨不廢。積歲餘, 父母慚而還之。及父母亡,弟子求分財異居。包不能止,乃中分其財,奴婢引其老者, 曰:「與我共事久,若不能使也。」田廬取其荒頓者,曰:「吾少時所治,意所戀也。」 器物取朽敗者,曰:「我素所服食,身口所安也。」弟子數破其產,輒復賑給。帝聞其 名,令公車特徵,至,拜侍中。包以死自乞,有詔賜告歸,加禮如毛義。

汝南の薛包は、父の後妻にいびられたが、孝をやりとげた。財産の分配で、モメなかった。安帝は、薛包を侍中とした。

ただの面白エピソードだ。安帝の人材登用を言うため、ここに挿入されたのだろう。


帝少號聰明,故鄧太后立之。及長,多不德,稍不可太后意;帝乳母王聖知之。太 後征濟北、河間王子詣京師,河間王子冀美容儀,太后奇之,以為平原懷王后,留京師。 王聖見太后久不歸政,慮有廢置,常與中黃門李閏、江京候伺左右,共毀短太后於帝, 帝每懷忿懼。及太后崩,宮人先有受罰者懷怨恚,因誣告太后兄弟悝、弘、閶先從尚書 鄧訪取廢帝故事,謀立平原王。帝聞,追怒,今有司奏悝等大逆無道,遂廢西平侯廣宗、 葉侯廣德、西華侯忠、陽安侯珍、都鄉侯甫德皆為庶人,鄧騭以不與謀,但免特進,遣 就國;宗族免官歸故郡,沒入騭等貲財田宅。徙鄧訪及家屬於遠郡,郡縣逼迫,廣宗及 忠皆自殺。又徙封騭為羅侯;五月,庚辰,騭與子鳳並不食而死。騭從弟河南尹豹、度 遼將軍舞陽侯遵、將作大匠暢皆自殺;唯廣德兄弟以母與閻後同產,得留京師。復以耿 夔為度遼將軍,征樂安侯鄧康為太僕。丙申,貶平原王翼為都鄉侯,譴歸河間。翼謝絕 賓客,閉門自守,由是得免。

おさない安帝は、聡明だった。ゆえに鄧太后は、安帝を立てた。だが成長し、安帝は不德がおおい。鄧太后は、濟北王と河間王の子を、京師に集めて教育した。河間王の子・劉翼(桓帝の父)は、容儀は美しい。鄧太后は劉翼を奇とし、平原懷王を嗣がせ、京師にとどむ。
乳母の王聖は、鄧太后が安帝を廃し、劉翼を立てると見た。王聖は、中黃門の李閏、江京と、つるむ。安帝は、鄧太后に忿懼を懷く。鄧太后が死ぬと、安帝は、鄧氏を一掃した。みな殺され、鄧隲は帰国させられた。

鄧氏への処分は、見れば分かるので、訳さず。後日、列伝をやります。

5月丙申、平原王の劉翼を、都郷侯に貶め、河間にかえす。劉翼は賓客を謝絕し、閉門した。だから、安帝に殺されず。

ぼくは思う。鄧太后の功罪は、べつに論じねば。何人の皇帝候補を却下してきたか。ちゃんとカウントしたい。皇帝の人選は、理屈で割り切れるものじゃないし、、


121年夏、硃寵が、鄧氏を名誉回復する

初,鄧後之立也,太尉張禹、司徒徐防欲與司空陳寵共奏追封後父訓,寵以先世無 奏請故事,爭之,連日不能奪。及訓追加封謚,禹、防復約寵俱遣子奉禮於虎賁中郎將 騭,寵不從,故寵子忠不得志於鄧氏。騭等敗,忠為尚書,數上疏陷成其惡。

はじめ鄧皇后た立つとき。太尉の張禹、司徒の徐防は、司空の陳寵ともに、鄧皇后の父・鄧訓を追封したい。陳寵は、前例がないから、反対した。ゆえに陳寵の子・陳忠は、鄧氏のもとで、志を得ず。鄧隲らが敗れ、陳忠は尚書となった。しばしば上書して、陳忠は鄧氏への怨みを晴らした。

ぼくは思う。陳寵と陳忠、キャラ立ちしてそう。列伝を読もう。


大司農京 兆硃寵痛騭無罪遇禍,乃肉袒輿櫬上疏曰:「伏惟和熹皇後聖善之德,為漢文母。兄弟 忠孝,同心憂國,宗廟有主,王室是賴。功成身退,讓國遜位,歷世外戚,無與為比, 當享積善履謙祐。而橫為宮人單辭所陷,利口傾險,反亂國家,罪無申證,獄不訊鞫, 遂令騭等罹此酷濫,一門七人,並不以命,屍骸流離,冤魂不反,逆天感人,率土喪氣。 宜收還塚次,寵樹遺孤,奉承血祀,以謝亡靈。」寵知其言切,自致廷尉;陳忠復劾奏 寵,詔免官歸田裡。眾庶多為騭稱枉者,帝意頗悟,乃譴讓州郡,還葬騭等於北芒,諸 從昆弟皆得歸京師。

大司農する京兆の硃寵は、鄧隲の無罪をいい、肉袒・輿櫬して上疏した。「鄧太后は、善政をした」と。陳忠は、硃寵を劾奏した。硃寵を免官し、田裡に帰した。
鄧隲の無罪をいう人が多い。安帝は、鄧隲らを北芒に改葬し、鄧氏の從昆弟らを、京師にもどす。

ぼくは硃寵の発言を省きましたが。鄧太后と鄧隲は、後漢を存続させるうえで、プラスの功績があったということで、評価は一致したのだろう。すぐに鄧氏は、名誉が回復されたから。歴史の善悪をさばくのは、現代の歴史家の仕事ではない。ただ、後漢の同時代の人が、鄧氏に感謝しましたよと指摘するのみ。
鄧太后の自負を、濃厚に引きつぎ、エスカレートさせたのが、つぎの梁冀。


121年夏、楊震が、安帝の身内を攻撃

帝以耿貴人兄牟平侯寶監羽林左軍車騎,封宋楊四子皆為列侯,宋氏為卿、校、侍 中大夫、謁者、郎吏十餘人;閻皇後兄弟顯、景、耀,並為卿、校,典禁兵。於是內寵 始盛。
帝以江京嘗迎帝於邸,以為京功,封都鄉侯,封李閏為雍鄉侯,閏、京並遷中常侍, 京兼大長秋,與中常侍樊豐、黃門令劉安、鉤盾令陳達及王聖、聖女伯榮扇動內外,競 為侈虐;伯榮出入宮掖,傳通姦賂。

安帝は、嫡母の耿氏、祖母の宋氏、皇后の閻氏を、高位につけた。ここにおいて、内寵は初めて盛んだ。
安帝は、宦官の江京と李閏らと、乳母の王聖、王聖の娘・王伯榮を、取り立てた。內外を扇動し、競って侈虐した。

固有名詞は省きましたが。見苦しいなあーと。鄧太后に圧迫された反動だ。


司徒楊震上疏曰:「臣聞政以得賢為本,治以去穢 為務;是以唐、虞俊乂在官,四兇流放,天下鹹服,以致雍熙。方今九德未事,嬖倖充 庭。阿母王聖,出自賤微,得遭千載,奉養聖躬,雖有推燥居濕之勤,前後賞惠,過報 勞苦,而無厭之心不知紀極,外交屬托,擾亂天下,損辱清朝,塵點日月。夫女子、小 人,近之喜,遠之怨,實為難養。宜速出阿母,令居外捨,斷絕伯榮,莫使往來。令恩 德兩隆,上下俱美。」奏御,帝以示阿母等,內幸皆懷忿恚。而伯榮驕淫尤甚,通於故 朝陽侯劉護從兄瑰,瑰遂以為妻,官至侍中,得襲護爵。
震上疏曰:「經制,父死子繼, 兄亡弟及,以防篡也。伏見詔書,封故朝陽侯劉護再從兄瑰襲護爵為侯;護同產弟威, 今猶見在。臣聞天子專封,封有功;諸侯專爵,爵有德。今瑰無佗功行,但以配阿母女, 一時之間,既位侍中,又至封侯,不稽舊制,不合經義,行人諠譁,百姓不安。陛下宜 鑒鏡既往,順帝之則。」

司徒の楊震が、順帝と乳母をとがめた。安帝は乳母に、楊震の上疏を見せた。乳母は、楊震に忿恚を抱いた。

ご大層なことを言っているが。後日、楊震伝をちゃんと読みたい。安帝が、身内かわいさのあまり、秩序やルールを、ひっくり返している。これを楊震が責めた。


尚書廣陵翟瑰上疏曰:「昔竇、鄧之寵,傾動四方,兼官重紱, 盈金積貨,至使議弄神器,改更社稷,豈不以勢尊威廣以致斯患乎!及其破壞,頭顙墮 地,願為孤豚,豈可得哉!夫致貴無漸,失必暴;受爵非道,殃必疾。今外戚寵幸,功 均造化,漢元以來未有等比。陛下誠仁恩周洽,以親九族,然祿去公室,政移私門,覆 車重尋,寧無摧折!此最安危之極戒,社稷之深計也。昔文帝愛百金於露台,飾帷帳於 皁囊,或有譏其儉者,上曰:『朕為天下守財耳,豈得妄用之哉!』今自初政已來,日 月未久,費用賞賜,已不可算。斂天下之財,積無功之家,帑藏單盡,民物雕傷,卒有 不虞,復當重賦,百姓怨叛既生,危敵可待也。願陛下勉求忠貞之臣,誅遠佞諂之黨, 割情慾之歡,罷宴私之好,心存亡國所以失之,鑒觀興王所以得之,庶災害可息,豐年 可招矣。」書奏,皆不省。

尚書する廣陵の翟瑰は、上疏した。「竇氏と鄧氏は、皇帝を弄んだ。だがいま閻氏は、漢室の歴史で、もっともひどい。ゼイタクをやめよ。安帝は、忠貞之臣をもとめ、佞諂之黨を殺せ」と。安帝は、省みず。

ぼくは思う。つらい過去があり、人格がゆがむのは、当然のこと。自然の流れ。でも、良識あるオトナなら、自然の流れを、断ち切る努力をすべきだと思う。安帝は、環境に流されただけ。まあ15年も、鄧太后が臨朝したから、人格のゆがみを修正できないかも知れないが。
ぼくは、安帝を弁護したいが、身内を高位にあげたのは、「曲筆」しにくい事実だろう。「閻皇后の執政が短いから、歴史家に責められた」と言いにくい。また范曄は、「後漢は宦官が滅ぼした」という認識をもつ。宦官の悪行は、増幅されるかも。だが、乳母の悪行は、増幅されない。安帝のアンバランスな人事は、事実なんだ。
安帝の朝廷の人事は、きわめて狭い身内だけで、運営された。だから(と因果づけて良いのか、自信がありませんが)、袁氏がオモテに出てこない。安帝、つまらんなあ。『資治通鑑』を読む前、安帝をよく知らないから、興味があった。でも読んでみれば、宮城谷『三国志』の範囲を出るものでない。ガッカリ。


121年秋、安帝は馮魴の孫と、10日飲む

秋,七月,己卿,改元,赦天下。 壬寅,太尉馬英薨。
燒當羌忍良等,以麻奴兄弟本燒當世嫡,而校尉馬賢撫恤不至,常有怨心,遂相結, 共脅將諸種寇湟中,攻金城諸縣。八月,賢將先零種擊之,戰於牧苑,不利。麻奴等又 敗武威、張掖郡兵於令居,因脅將先零、沈氐諸種四千餘戶緣山西走,寇武威。賢追到 鸞鳥,招引之,諸種降者數千,麻奴南還湟中。

121年秋7月己卯、建光と改元し、天下を赦した。 7月壬寅、太尉の馬英が薨じた。 校尉の馬賢は、燒當羌の後継に、恩を売れない。8月、金城、武威、張掖を攻められた。李賢は、諸羌を降した。燒當羌は、湟中にひいた。

ぼくは思う。方針なき、モグラ叩き。馬賢の戦歴を読むのは、しんどい。


甲子,以前司徒劉愷為太尉。初,清河相叔孫光坐臧抵罪,遂增禁錮二世。至是, 居延都尉范邠復犯臧罪,朝廷欲依光比;劉愷獨以為:「《春秋》之義,善善及子孫, 惡惡止其身,所以進人於善也。如今使臧吏禁錮子孫,以輕從重,懼及善人,非先王詳 刑之意也。」尚書陳忠亦以為然。有詔:「太尉議是。」

121年7月甲子、さきの司徒の劉愷を、太尉とした。はじめ、清河相の叔孫光は、ワイロの罪で、子の代まで禁錮された
いま居延都尉の范邠も、ワイロの罪を犯す。朝廷は、子の代まで禁錮したい。ひとり劉愷だけ、反対した。「『春秋』で、善善は子孫におよび、惡惡は本人にとどめる」と。尚書の陳忠も賛成したので、本人だけ禁錮とした。

鮮卑其至鞬寇居庸關。九月,雲中太守成嚴擊之,兵敗,功曹楊穆以身捍嚴,與之 俱歿;鮮卑於是圍烏桓校尉徐常於馬城。度遼將軍耿夔與幽州刺史龐參發廣陽、漁陽、 涿郡甲卒救之,鮮卑解去。
戊子,帝幸衛尉馮石府,留飲十許日,賞賜甚厚,拜其子世為黃門侍郎,世弟二人 皆為郎中。石,陽邑侯魴之孫也,父柱尚顯宗女獲嘉公主,石襲公主爵,為獲嘉侯,能 取悅當世,故為帝所寵。京師及郡國二十七雨水。

鮮卑は、居庸關を寇した。121年9月、雲中太守の成嚴が、鮮卑に敗れた。鮮卑は、烏桓校尉の徐常を、馬城にかこむ。度遼將軍の耿夔と、幽州刺史の龐參は、廣陽、漁陽、涿郡から、兵を発した。鮮卑は、かこみを解いた。

ぼくは思う。龐参、まだ生きてた。列伝、読まねば。

9月戊子、順帝は、衛尉の馮石の役所で、10日ばかり飲んだ。馮氏の子弟に、官爵をバラまく。馮石は、陽邑侯の馮魴の孫だ。父の馮柱は、章帝の獲嘉公主をめとる。馮石は、公主の爵をつぎ、獲嘉侯となる。安定に寵された。京師および郡國27で、雨水あり。

121年冬、三年喪をやめる

冬,十一月,己丑,郡國三十五地震。 鮮卑寇玄菟。
尚書令示殳諷等奏,以為「孝文皇帝定約禮之制,光武皇帝絕告寧之典,貽則萬世, 誠不可改,宜復斷大臣行三年喪。」尚書陳忠上疏曰:「高祖受命,蕭何創製,大臣有 寧告之科,合於致憂之義。建武之初,新承大亂,凡諸國政,多趣簡易,大臣既不得告 寧而群司營祿念私,鮮循三年之喪以報顧復之恩者,禮義之方,實為雕損。陛下聽大臣 終喪,聖功美業,靡以尚茲。《孟子》有言:『老吾老,以及人之老;幼吾幼,以及人 之幼,天下可運如掌。』臣願陛下登高北望,以甘陵之思揆度臣子之心,則海內鹹得其 所。」時宦官不便之,竟寢忠奏。庚子,復斷二千石以上行三年喪。

121年冬11月己丑、郡國35で地震あり。 鮮卑が玄菟を寇した。
尚書令の[示殳]諷らは、三年喪を辞めろと言った。「文帝も光武帝も、三年喪をやめた」と。尚書の陳忠は上疏して、三年喪の継続を言った。陳忠は却下され、11月庚子、ふたたび二千石以上は、三年喪をやめた。

袁宏は論ず。三年喪をやれよ。


十二月,高句驪王宮率馬韓、濊貊數千騎圍玄菟,夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人與 州郡並力討破之。是歲,宮死,子遂成立。玄菟太守姚光上言,欲因其喪,發兵擊之, 議者皆以為可許。陳忠曰:「宮前桀黠,光不能討,死而擊之,非義也。宜遣使吊問, 因責讓前罪,赦不加誅,取其後善。」帝從之。

121年12月、高句麗と濊貊が、しばしば玄菟を攻めた。この歳、高句麗王が死んだ。玄菟太守の姚光は、高句麗を攻めたい。だが陳忠は、「高句麗王の死に浸けこむのは、義じゃない」と言った。安帝は、陳忠をもちいた。101229

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