表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

107年、西域都護をやめ、国運が衰退しはじめる

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

107年春、蜀郡と永昌の外から、帰順をうける

孝殤皇帝永初元年(丁未,公元一零七年)
春,正月,癸酉朔,赦天下。 蜀郡徼外羌內屬。 二月,丁卯,分清河國封帝弟常保為廣川王。 庚午,司徒梁鮪薨。
三月,癸酉,日有食之。 己卯,永昌徼外僬僥種夷陸類等舉種內附。 甲申,葬清河孝王於廣丘,司空、宗正護喪事,儀比東海恭王。 自和帝之喪,鄧騭兄弟常居禁中,騭不欲久在內,連求還第,太后許之。

107年春正月癸酉ついたち、天下を赦した。 蜀郡の徼外にいる羌が、內屬した。 2月丁卯、清河國を分けて、安帝の弟・劉常保を、廣川(信都)王とした。 2月庚午、司徒の梁鮪が薨じた。
3月癸酉、日食した。 3月己卯、永昌の徼外にいる僬僥種の夷・陸類らが、種族をあげて內附した。 3月甲申、清河孝王を廣丘に葬る。司空、宗正は、東海恭王の前例にならって葬儀した。和帝が死んでから、鄧騭の兄弟は、つねに禁中にいる。鄧隲は、禁中にながく居たくないが、太后は禁中から還さない。

107年夏、鄧隲に1万3千戸、西域都護をやめる

夏,四月, 封太傅張禹、太尉徐防、司空尹勤、車騎將軍鄧騭,城門校尉鄧悝、虎賁中郎將鄧弘、 黃門郎鄧閶皆為列侯,食邑各萬戶,騭以定策功增三千戶;騭及諸弟辭讓不獲,遂逃避 使者,間關詣闕,上疏自陳,至於五六,乃許之。
五月,甲戌,以長樂衛尉魯恭為司徒。恭上言:「舊制,立秋乃行薄刑,自永元十 五年以來,改用孟夏。而刺史、太守因以盛夏征召農民,拘對考驗,連滯無已。上逆時 氣,下傷農業。按月令『孟夏斷薄刑』者,謂其輕罪已正,不欲令久系,故時斷之也。 臣愚以為今孟夏之制,可從此令。其決獄案考,皆以立秋為斷。」又奏:「孝章皇帝欲 助三正之微,定律著令,斷獄皆以冬至之前。小吏不與國同心者,率入十一月得死罪賊, 不問曲直,便即格殺,雖有疑罪,不復讞正。可令大辟之科,盡冬月乃斷。」朝廷皆從 之。
丁丑,詔封北海王睦孫壽光侯普為北海王。 九真徼外、夜郎蠻夷,舉土內屬。 西域都護段禧等雖保龜茲,而道路隔塞,檄書不通。公卿議者以為「西域阻遠,數 有背叛,吏士屯田。其費無已。」

107年夏4月、太傅の張禹、太尉の徐防、司空の尹勤、車騎將軍の鄧騭,城門校尉の鄧悝、虎賁中郎將の鄧弘、 黃門郎の鄧閶を、みな列侯とする。食邑は1萬戶ずつ。鄧隲は、安帝を立てたから、、3千戸を増やす。鄧隲の兄弟は、5、6回辞退して、辞退を許された。

鄧隲をムリにでも偉くしたいのは、鄧太后のようだ。親族を抜擢するとは、もう「名君」ではないですが。鄧太后の心境を、推測せねばなるまい。竇憲に近づいてきた。

5月甲戌、長樂衛尉の魯恭は、司徒となる。魯恭はいう。「夏や秋に裁判すると、農業に支障がある。冬に裁け」と。朝廷は、みな従う。

ぼくは思う。前に見た、「北至」に刑をつける件など。重要なテーマのようなので、論文を探してみよう。手に余る問題のようだ。背景の思想とか。

5月丁丑、北海王・劉睦の孫で、壽光侯・劉普を、北海王とした。 九真の徼外にいる、夜郎の蠻夷が、土地をあげて內屬した。 西域都護の段禧らは、龜茲を保つが、道路を塞がれて、檄書が通じず。公卿は、西域が遠く、ペイしないから、放棄しろと言った。

六月,壬戌,罷西域都護,遣騎都尉王弘發關中兵, 迎禧及梁慬、趙博、伊吾盧、柳中屯田吏士而還。
初,燒當羌豪東號之子麻奴隨父來降,居於安定。時諸降羌布在郡縣,皆為吏民豪 右所徭役,積以愁怨。及王弘西迎段禧,發金城、隴西、漢陽羌數百千騎與俱,郡縣迫 促發遣。群羌懼遠屯不還,行到酒泉,頗有散叛,諸郡各發兵邀遮,或覆其廬落;於是 勒姐、當煎大豪東岸等愈驚,遂同時奔潰。麻奴兄弟因此與種人俱西出塞,先零別種, 滇零與鍾羌諸種大為寇掠,斷隴道。時羌歸附既久,無復器甲,或持竹竿木枝以代戈矛, 或負板案以為楯,或執銅鏡以象兵,郡縣畏懦不能制,丁卯,赦除諸羌相連結謀叛逆者 罪。

107年6月壬戌、西域都護をやめた。騎都尉の王弘は、關中の兵を発し、西域の諸将を呼びもどす。段禧、梁慬、趙博、伊吾盧、柳中の屯田にいる吏士らは、かえった。

胡三省はいう。和帝の永元3年(91年)、西域都護をおいた。いまやめた。

はじめ燒當羌の東號の子・麻奴は、父とともに後漢に降った(88年)。安定郡に住んだ。羌族は、後漢に徭役を課されて、愁怨がつのる。いま西域都護の撤収に借り出された。酒泉で、羌族は後漢にそむいた。郡県の手に追えない。6月丁卯、そむいた羌族の罪を赦すことにした。

107年秋、はじめて三公を、災異で代える

秋,九月,午,太尉徐防以災異,寇賊策免。三公以災異免,自防始。辛未,司空 尹勤以水雨漂流策免。

107年秋9月庚午、太尉の徐防を、災異と寇賊のせいで、免じた。三公が災異でやめるのは、これより始まる9月辛未、司空の尹勤を、水雨が漂流するせいで、免じた。

以下、『資治通鑑』は、三公をやめさせることについて、仲長統の話をひく。


══仲長統昌言曰:光武皇帝慍數世之失權,忿強臣之竊命,矯枉過直,政不任下, 雖置三公,事歸台閣。自此以來,三公之職,備員而已;然政有不治,猶加譴責。而權 移外戚之家,寵被近習之豎,親其黨類,用其私人,內充京師,外布列郡,顛倒賢愚, 貿易選舉,疲駑守境,貪殘牧民,撓擾百姓,忿怒四夷,招致乖叛,亂離斯瘼,怨氣並 作,陰陽失和,三光虧缺,怪異數至,蟲螟食稼,水旱為災。此皆戚宦之臣所致然也, 反以策讓三公,至於死、免,乃足為叫呼蒼天,號咷泣血者矣!又,中世之選三公也, 務於清愨謹慎,循常習故者,是乃婦女之檢柙,鄉曲之常人耳,惡足以居斯位邪!勢既 如彼,選又如此,而欲望三公勳立於國家,績加於生民,不亦遠乎!昔文帝之於鄧通, 可謂至愛,而猶展申徒嘉之志。夫見任如此,則何患於左右小臣哉!至如近世,外戚、 宦豎,請托不行,意氣不滿,立能陷人於不測之禍,惡可得彈正者哉!曩者任之重而責 之輕,今者任之輕而責之重。光武奪三公之重,至今而加甚;不假後黨以權,數世而不 行;蓋親疏之勢異也!今人主誠專委三公,分任責成,而在位病民,舉用失賢,百姓不 安,爭訟不息,天地多變,人物多妖,然後可以分此罪矣!

仲長統は言う。光武帝は、三公でなく尚書に、権力をおいた。前漢の後期、つよい臣に実権をとられたことを反省したのだ。光武帝のとき、三公は政治をせず。だが外戚に権力がうつり、外戚の縁者が、内外に満ちた。外戚が百姓や四夷を苦しめた。のちに宦官が、権力を持った。三公をクビや死に追い込んでも、対処が的外れである。

壬午,詔:太僕、少府減黃門鼓吹以補羽林士;廄馬非乘輿常所御者,皆減半食; 諸所造作,非供宗廟園陵之用,皆且止。 庚寅,以太傅張禹為太尉,太常周章為司空。
大長秋鄭眾、中常侍蔡倫等皆秉勢豫政,周章數進直言,太后不能用。

9月壬午、鄧太后は詔した。「太僕や少府は、黃門の鼓吹を減らして、羽林の士を補充せよ。使わない馬のエサを半減せよ。宗廟や園陵に用いない作業は、みな辞めよ」と。

鄧太后は、とにかく削減する人。胡三省は、黃門の鼓吹について、ながく注釈する。

9月庚寅、太傅の張禹を、太尉とした。太常の周章を、司空とした。
大長秋の鄭眾と、中常侍の蔡倫らは、権勢があるが、鄧太后は用いない。

107年冬、鄧太后を廃し、直系の劉勝を擁立?

初,太后以 平原王勝有痼疾,而貪殤帝孩抱,養為己子,故立焉。及殤帝崩,群臣以勝疾非痼,意 鹹歸之;太后以前不立勝,恐後為怨,乃迎帝而立之。周章以眾心不附,密謀閉宮門, 誅鄧騭兄弟及鄭眾、蔡倫,劫尚書,廢太后於南宮,封帝為遠國王而立平原王。事覺, 冬,十一月,丁亥,章自殺。

はじめ鄧太后は、和帝の長子・劉勝を、病気だから即位させず。和帝の少子・殤帝が死んだので、みな劉勝を即けたい。鄧太后は、劉勝に怨まれるのを恐れ、あえて傍流の安帝を即けた。
司空の周章は、劉勝を即けたいという世論を受けて、鄧太后を閉門しておしこめたい。鄧隲の兄弟と、鄭眾や蔡倫を誅したい。尚書をうばい、鄧太后を廃したい。安帝を遠国の王に封じて、平原王・劉勝を皇帝としたい。
周章は発覚した。107年11月丁亥、自殺した。

ぼくは思う。じつは、政治史では、とても重要な事件だと思う。もし、劉勝が即位したら、和帝からの直系が、ずっと続いた。章帝の皇子の系統が、皇位をたらいまわしにすることは、なかった。せっかくの直系相続を、わざわざ途絶えさせた鄧太后は、罪がおもい。
劉勝の母系がつよい一族で、それを鄧太后が避けたとかかな。劉勝の母系は、あまり出てこないなあ。
ぼくは思う。後漢の直系が続かないのは、生母よりも、皇后が力を持つから。はじめて皇統の直系をはずした、鄧太后の例を見て、確信しました。


戊子,敕司隸校尉、冀、並二州刺史,「民訛言相驚,棄捐舊居,老弱相攜,窮困 道路。其各敕所部長吏躬親曉喻:若欲歸本郡,在所為封長檄;不欲,勿強。」 十二月,乙卯,以穎川太守張敏為司空。 詔車騎將軍鄧騭、征西校尉任尚將五營及諸郡兵五萬人,屯漢陽以備羌。

11月戊子、司隸校尉と、冀州と并州の刺史に、命じた。「民は故郷を捨てて、道にあふれる。故郷の長吏に連絡をとり、流民を帰郷させよ。もし流民が、帰郷をイヤがれば、強いるな」と。

ぼくは思う。和帝が死んだ。生産力がおちた。辺境が活発になった。西域都護をやめて、後漢は縮小をはじめた。以後、後漢が滅亡するまで、周辺の異民族に、ずっと劣勢がつづく。なにが、後漢が傾いたトリガーだか分からないが。和帝の時代と、鄧太后より後は、国勢の雰囲気がちがう。
いくら鄧太后の賢人ぶりを強調しても、マクロに見て、後漢は傾いている。
っていうか。鄧太后の、経費節減の政策は、ひどい生産力の低下をふまえた、苦肉の策かも知れない。よほどのバカでなければ、収入が減れば、支出を減らす。鄧太后の、後手に回った対策をとらえて、鄧太后を賢人だと評価するのは、史家のあやまちか。文系人間は、鄧太后が出した、命令の文面が儒教にかなっていれば、褒めてしまう。笑

12月乙卯、穎川太守の張敏を司空とした。車騎將軍の鄧騭と、征西校尉の任尚は、五營と諸郡の兵5万をひきい、漢陽で羌族に備えた。

胡三省はいう。本紀には6月とあるが、西羌伝に従う。ぼくは補う。漢陽は、羌族と戦う重要な拠点。三国志を読むときも、意識すべきだ。


是歲,郡國十八地震,四十一大水,二十八大風,雨雹。 鮮卑大人燕荔陽詣闕朝賀。太后賜燕荔陽王印綬、赤車、參駕,令止烏桓校尉所居 寧城下,通胡市,因築南、北兩部質館。鮮卑邑落百二十部各遺入質。

この107年、郡國18で地震、郡国41で大水、郡国28で大風と雨雹。 鮮卑の大人・燕荔陽に、太后は印綬を与えた。烏桓校尉がいる寧城のもとに、南北の質館をつくる。鮮卑の邑落120部が、後漢に人質をだした。101228

inserted by FC2 system