表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

097年、竇太后が死に、和帝の母・梁氏が台頭

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

097年春夏、皇后の父・陰綱が吳防侯に

孝和皇帝下永元九年(丁酉,公元九七年)
春,三月,庚辰,隴西地震。 癸巳,濟南安王康薨。 西域長史王林擊車師後王,斬之。
夏,四月,丁卯,封樂成王黨子巡為樂成王。 五月,封皇後父屯騎校尉陰綱為吳防侯,以特進就第。 六月,旱,蝗。

097年春3月庚辰、隴西で地震あり。 3月癸巳、濟南安王の劉康が薨じた。 西域長史の王林は、車師後王(涿ロク)を斬った。
096年夏4月丁卯、樂成王・劉黨の子である劉巡を樂成王とした。 5月、皇后の父・屯騎校尉の陰綱を、吳防侯(汝南)とした。特進として、就第した。

胡三省はいう。『左伝』にいう。房国は、楚の霊王に滅ぼされた。また楚の昭王は、呉王の夫概を、ドウテンに封じた。『地道記』はいう。呉城がある。呉房は、おそらく呉城と、房国との、2つの県名を合わせたものだ。ぼくは思う。「呉防」とは、おもしろいなあ。

6月、日照とイナゴ。

097年秋、竇太后が死に、尊号をもらう

秋,八月,鮮卑寇肥如,遼東太守祭參坐沮敗,下獄死。
閏月,辛巳,皇太后竇氏崩。初,梁貴人既死,宮省事秘,莫有知帝為梁氏出者。 舞陰公主子梁扈遣從兄示亶奏記三府,以為「漢家舊典,崇貴母氏,而梁貴人親育聖躬, 不蒙尊號,求得申議。」太尉張酺言狀,帝感慟良久,曰:「於君意若何?」酺請追上 尊號,存錄諸舅。帝從之,會貴人姊南陽樊調妻A148上書自訟曰:「妾父竦冤死牢獄, 骸骨不掩;母氏年逾七十,及弟棠等遠在絕域,不知死生。願乞收竦朽骨,使母、弟得 歸本郡。」帝引見A148,乃知貴人枉歿之狀。三公上奏,「請依光武黜呂太后故事,貶 竇太后尊號,不宜合葬先帝,」百官亦多上言者。帝手詔曰:「竇氏雖不遵法度,而太 後常自減損。朕奉事十年,深惟大義,禮,臣子無貶尊上之文,恩不忍離,義不忍虧。 案前世,上官太后亦無降黜,其勿復議。」丙申,葬章德皇後。

097年秋8月、鮮卑が肥如(遼西)を寇した。遼東太守の祭參は、鮮卑に敗れたから、獄死した。

ぼくは補う。南北の匈奴が駆逐され、これからは鮮卑の時代。

閏月辛巳、皇太后の竇氏が崩じた。はじめ(章帝の083年)、梁貴人が死んだ。和帝の母が梁氏だと、知る人はいない。

胡三省はいう。和帝の母・梁貴人は、わかくに母を失い、舞陰公主に育てられた。ぼくは思う。だから和帝の母が、梁氏の出身だと、知られてないってこと?

舞陰公主の子・梁扈は、從兄の梁ダンを通じ、三公府に上奏した。「漢室の前例では、母の一族を崇貴する。だが梁貴人は、尊號をもらっていない。梁貴人に、尊号がほしい」と。和帝は、感慟した。太尉の張酺が、尊号に賛成した。梁皇后に、尊号がつけられた。
たまたま梁貴人の姉で、南陽の樊調の妻・梁イが、上書した。「私の父・梁竦は、冤罪で獄死した。母は70歳をこえた。弟の梁棠らは、遠くにうつされ、生死を知らない。どうか梁竦の朽骨をひろいあつめ、母と弟を本郡に帰したい」と。和帝は、梁イに引見し、梁貴人の枉歿した事実を知った。

梁統伝を読まねば。以前やったが、すでに忘れている。
破壊者・梁冀の血の成分


三公上奏,「請依光武黜呂太后故事,貶 竇太后尊號,不宜合葬先帝,」百官亦多上言者。帝手詔曰:「竇氏雖不遵法度,而太 後常自減損。朕奉事十年,深惟大義,禮,臣子無貶尊上之文,恩不忍離,義不忍虧。 案前世,上官太后亦無降黜,其勿復議。」丙申,葬章德皇後。

(話は竇太后に戻って)、三公は上奏した。「光武帝が、呂太后の尊号をつけなかったように、竇太后に尊號をつけるな。竇太后を、章帝と合葬するな」と。だが和帝は、竇太后に尊号をつけた。「竇氏は法度にそむいたが、竇太后は、そむかなかった」と。閏月丙申、竇太后を、章德皇后として葬った。

ぼくは補う。桓帝の時代に、竇武が出てきて、竇皇后をだす。後漢の外戚は、いちど失脚しても、のちに復活する例である。梁氏については、よく分かってないので、列伝を読もう。


燒當羌迷唐率眾八千人寇隴西,脅塞內諸種羌合步騎三萬人擊破隴西兵,殺大夏長。 詔遣行征西將軍劉尚、越騎校尉趙世副之,將漢兵、羌、胡共三萬人討之。尚屯狄道, 世屯枹罕;尚遣司馬寇盱監諸郡兵,四面並會。迷唐懼,充老弱,奔入臨洮南。尚等追 至高山,大破之,斬虜千餘人,迷唐引去,漢兵死傷亦多,不能復追。乃還。 九月,庚申,司徒劉方策免,自殺。

燒當羌の迷唐は、8千で隴西を寇した。行征西將軍の劉尚を主将に、越騎校尉の趙世を副将にして、迷唐を大破した。だが漢兵の死傷も多く、迷唐を追わず。
097年9月庚申、司徒の劉方を免じた。劉方は、自殺した。

いつもどおり、羌族がらみは、短縮してます。劉方、なぜ自殺?


097年冬、和帝の母・梁氏、劉慶の母・宋氏

甲子,追尊梁貴人為皇太后,謚曰恭懷,追服喪制。冬,十月,乙酉,改葬梁太后 及其姊大貴人於西陵。擢樊調為羽林左監。追封謚皇太后父竦為褒親愍侯,遣使迎其喪, 葬於恭懷皇後陵傍。征還竦妻子;封子棠為樂平侯,棠弟雍為乘氏侯,雍弟翟為單父侯, 位皆特進,賞賜以巨萬計,寵遇光於當世,梁氏自此盛矣。

097年9月甲子、梁貴人を追尊して、恭懷皇太后とした。追って喪制に服す。
097年冬10月乙酉、梁太后を改葬した。梁太后の姉・大貴人を、西陵に葬る。樊調を、羽林左監とした。皇太后の父・梁竦を、追って褒親愍侯に封じた。梁竦を、梁太后のとなりに葬る。梁竦の妻子を、呼びもどす。梁竦の子・梁棠を、樂平侯とした。其の弟の梁雍を、乘氏侯とした。その弟の梁翟を、單父侯とした。みな位は、特進だ。梁氏は、これより盛んとなる。

ぼくは補う。和帝の母系だから、梁氏は盛んになる。章帝の皇后・竇氏が死んだから、章帝の貴人&和帝の母の梁氏が台頭する。皇后と生母は、対立関係にある。この梁氏は、のちに梁冀をだす。


清河王慶始敢求上母宋貴人塚,帝許之,詔太官四時給祭具。慶垂涕曰:「生雖不 獲供養,終得奉祭祀,私願足矣!」欲求作祠堂,恐有自同恭懷梁後之嫌,遂不敢言, 常泣向左右,以為沒齒之恨。後上言:「外祖母王年老,乞詣雒陽療疾。」於是詔宋氏 悉歸京師,除慶舅衍、俊、蓋、暹等皆為郎。

清河王の劉慶は、母・宋貴人の塚をつくりたい。和帝が許した。

胡三省はいう。劉慶の母系・宋氏は、章帝の建初7年(082年)に、中央から排除された。ぼくは補う。和帝が、生母の梁氏を名誉回復した。これに乗じて、和帝の弟・劉慶も、生母の宋氏を名誉回復した。
章帝のまわりに、後漢の外戚の対立のタネが、すべてあるのかも。後漢末期までの役者が、すべて揃ってる。対立する外戚、という意味での役者が。
劉慶は、はじめ章帝の皇太子だったが、宋氏もろとも、退けられた。この劉慶の子が、安帝だ。安帝の子が、順帝だ。つまり劉慶は、順帝の祖父にあたる。つながった!

劉慶の母系・宋氏は、みな洛陽に復帰した。劉慶のおじ、宋衍、宋俊、宋蓋、宋暹らは、みな郎となる。

十一月,癸卯,以光祿勳河南呂蓋為司徒。 十二月,丙寅,司空張奮罷。壬申,以太僕韓稜為司空。
西域都護定遠侯班超遣掾甘英使大秦、條支,窮西海,皆前世所不至,莫不備其風 土,傳其珍怪焉。及安息西界,臨大海,欲度,船人謂英曰:「海水廣大,往來者逢善 風,三月乃得度,若遇遲風,亦有二歲者。故入海,人皆□三歲糧。海中善使人思土戀 慕,數有死亡者。」英乃止。

097年11月癸卯、光祿勳する河南の呂蓋を、司徒とした。
12月丙寅、司空の張奮をやめた。12月壬申、太僕の韓稜を、司空とした。

ぼくは思う。韓稜は『後漢書』に列伝がないが、索引から集めたい。しばしば、正しいことを言って、権臣と対決する。


西域都護定遠侯班超遣掾甘英使大秦、條支,窮西海,皆前世所不至,莫不備其風 土,傳其珍怪焉。及安息西界,臨大海,欲度,船人謂英曰:「海水廣大,往來者逢善 風,三月乃得度,若遇遲風,亦有二歲者。故入海,人皆□三歲糧。海中善使人思土戀 慕,數有死亡者。」英乃止。

西域都護・定遠侯の班超は、掾の甘英を、大秦や條支に行かせた。安息の西境で、船人に言われた。「海(地中海?)は広い。もし風があれば3ヶ月でつくが、風がなければ2年かかる。3年の食糧をつめ。また風土が変わり、よく人が死ぬ」と。甘英は、海に出ず。101228

西域の地理は、興味深いですが、はぶく。袁氏と関係ない。笑

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