表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』列伝四より、舂陵侯の家柄(光武の族兄)光武と更始のあいだ

01) 舂陵侯の嫡流・劉祉

『後漢書』列伝第四より、光武帝の族兄をやります。
城陽恭王祉 泗水王歙 安成孝侯賜 成武孝侯順 順陽懷侯嘉
吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想をつけます。

光武帝を知ることが目的。

更始帝も光武帝も、ともに舂陵侯の傍流です。
もちろん、舂陵侯の宗族は、この2人だけじゃない。近しい親戚たちが、どのように新末後漢初を過ごしたか。更始帝と光武帝との関係性に注意して、見ていきます。

更始帝や光武帝の本流、嫡流の皇族・舂陵侯

城陽恭王祉字巨伯,光武族兄、舂陵康侯敞之子也。

城陽恭王の劉祉は、あざなを巨伯という。光武帝の族兄である。舂陵康侯である、劉敞の子だ。

舂陵侯は、更始帝や光武帝をだした、皇族の嫡流である。前漢の景帝の孫・劉買が、舂陵侯になった。
いま読んでいる劉祉は、更始帝や光武帝より、血筋が貴い。以下、舂陵侯の家について、時代をさかのぼった記述がある。


敞曾祖父節侯買,以長沙定王子封于零道之舂陵鄉,為舂陵侯。買卒,子戴侯熊渠嗣。熊渠卒,子考侯仁嗣。仁以舂陵地勢下濕,山林毒氣,上書求減邑內徙。元帝初元四年,徙封南陽之白水鄉,猶以舂陵為國名,遂與從弟巨鹿都尉回及宗族往家焉。

劉敞の曾祖父は、劉買である。前漢の景帝の孫、長沙定王・劉発の子だ。零陵の舂陵郷に封じられた。劉買-熊渠-劉仁と、嗣いだ。
劉仁のとき、国替えをもとめた。舂陵は低湿地で、山林に毒気があるからだ。

零陵郡は、住むだけでも、イヤな土地だったのですね。

元帝の初元四年(前45年)南陽の白水郷にうつった。国名だけは、舂陵のままとした。劉仁の従弟であり、光武帝の祖父にあたる劉回も、いっしょに南陽に移住した。

劉崇や翟義の挙兵につうじ、王莽への抵抗を継続

仁卒,子敞嗣。敞謙儉好義,盡推父時金寶財產與昆弟,刑州刺史上其義行,拜廬江都尉。歲余,會族兄安眾侯劉崇起兵,王莽畏惡劉氏,征敞至長安,免歸國。

劉仁が死に、子の劉敞がついだ。劉敞は、つつましくて、義を好んだ。父の財産をバラまき、弟たちを養った。ときの荊州刺史は、劉敞のおこないを見て、廬江都尉にした。
1年余して、族兄・安衆侯の劉崇が、王莽に挙兵した。王莽は、劉氏をにくんだ。王莽は、劉敞を長安に召しだし、官位を剥がして、国許に返した。

先是平帝時,敞與崇俱朝京師,助祭明堂。崇見莽將危漢室,私謂敞曰:「安漢公擅國權,群臣莫不回從,社稷傾覆至矣。太后春秋高,天子幼弱,高皇帝所以分封子弟,蓋為此也。」敞心然之。

これより先、前漢の平帝のとき。劉敞は、朝廷で祭祀にでた。(のちに王莽に挙兵する)劉崇は、劉敞にこっそり云った。
「王莽が、権勢を独占した。郡臣は、王莽にかなわない。社稷は、傾いている。王太后は、老齢だ。平帝は、幼弱だ。高皇帝の劉邦が、わたしたち皇族を国々に封じたのは、今のためだ
劉敞は、心のうちで、劉崇の云うとおりだと思った。

劉氏の血統をまもるため、皇族が立ち上がれ!と。


及崇事敗,敞懼,欲結援樹黨,乃為祉娶高陵侯翟宣女為妻。會宣弟義起兵欲攻莽,南陽捕殺宣女,祉坐系獄。敞因上書謝罪,願率子弟宗族為士卒先。莽新居攝,欲慰安宗室,故不被刑誅。及莽篡立,劉氏為侯者皆降稱子,食孤卿祿,後皆奪爵。及敞卒,祉遂特見廢,又不得官為吏。

劉崇が挙兵したが、王莽に敗れた。劉敞はおそれ、味方をつくるため、翟宣のむすめを、子の劉祉のつまとした。

翟宣は、丞相・翟方進の子だ。

翟宣の弟・翟義が、王莽に挙兵した。南陽郡の官吏は、翟宣の娘を、とらえて殺した。夫の劉祉は連座して、獄につながれた。劉敞は王莽に、ゆるしを乞うた。王莽は、劉祉をゆるした。王莽は摂政をはじめたばかりで、劉氏を手なずけようと思ったからだ。
王莽が漢室に代わると、劉氏の爵位をランクダウンした。劉敞が死ぬと、劉祉は国を除かれた。官吏になることも、できない。

更始帝や光武帝は、傍流です。しかし舂陵侯の嫡流では、王莽への抵抗を、陰に陽に継続していた。もう少しオモテに出たら、確実に誅殺されていた。殺される直前で、寸止めしていた。
更始帝や、劉縯と光武帝の挙兵は、ポッと出ではない。舂陵侯の嫡流が、継続して王莽に抵抗してきた文脈で、読むべきである。いきなり思いつきで、輿論があつまるわけない。


嫡流の族兄・劉祉は、傍流の更始帝に臣従する

祉以故侯嫡子,行淳厚,宗室皆敬之。及光武起兵,祉兄弟相率從軍,前隊大夫甄阜盡收其家屬系宛獄。及漢兵敗小長安,祉挺身還保棘陽,甄阜盡殺其母弟妻子。更始立,以祉為太常將軍,紹封舂陵侯。從西入關,封為定陶王。別將擊破劉嬰於臨涇。

劉祉は、舂陵侯の嫡子である。しかも行動が淳厚だから、宗室はみな劉祉をうやまった。
光武帝が挙兵すると、劉祉の兄弟は、軍をひきいて従った。

「従った」というのが、ウソくさい。挙兵したときは、劉祉がリーダーだったのでは? 荊州北部との人脈は、劉祉の家のものだった。
劉縯(光武帝の兄)は、劉祉のもとに集まった、その他大勢の皇族だった。

新室の前隊大夫・甄阜は、劉祉の家属を、すべて宛城の監獄につないだ。劉氏が小長安で敗れると、劉祉は棘陽にもどった。甄阜は、劉祉の母、弟、妻子をみな殺した。

舂陵侯の軍は、新軍の甄阜に、ほぼ壊滅させられた。嫡流の家は衰えた。このあと、生き残った劉縯と光武帝の兄弟が、台頭したとか。
劉縯のライバルとなったのが、劉玄だ。劉玄は、おなじ舂陵侯の分家だが、劉縯よりも血筋がとうとい。劉玄は、罪で南方に逃亡していた。しかし現地の緑林兵を率いて、荊州北部にきた。
劉玄は、緑林の兵力をつかって、皇帝を名のった。劉玄は、劉縯を殺した。

劉玄が更始帝となった。劉祉は、太常將軍となり、舂陵侯の爵位を復興してついだ。関中攻めにしたがい、定陶王に封じられた。別隊をひきい、劉嬰を臨涇で破った。

劉嬰とは、王莽がたてた孺子嬰のこと。更始帝に対抗して、方望という人が、皇帝にかついだ。
このころになると、劉祉は、更始帝の臣下でしかない。小長安で、ほぼ100%の兵力や人材を失ったのだろう。宗室のリーダーだったのに。


及更始降於赤眉,祉乃間行亡奔洛陽。是時宗室唯祉先至,光武見之歡甚。建武二年,封為城陽王,賜乘輿、禦物、車馬、衣服。追諡敞為康侯。十一年,祉疾病,上城陽王璽綬,願以列侯奉先人祭祀。帝自臨其疾。祉薨,年四十三,諡曰恭王,竟不之國,葬於洛陽北芒。

更始帝が赤眉に降った。劉祉は裏道から、洛陽ににげた。皇族のうち、劉祉だけが、先に洛陽に着いた。光武帝は、劉祉とまみえて、ひどく歓んだ。

劉祉が、ほかの皇族にない人脈を持っていたことを、伺わせる。道案内や、食糧の供給を世話してくれる人が、いただろう。ほかの皇族はムリでも、劉祉だけが、脱出に成功した。

建武二年(26年)城陽王に封じられた。劉祉は、天子の乗物や衣服を賜った。父の劉敞を、康侯とおくり名した。

光武帝は、25年から皇帝を名のる。劉祉に天子のアイテムを与えたら、重複する。「無力な嫡流」は、扱いに困るね。殺すことも出来ない。

建武十一年(35年)光武帝に看とられて、病死した。劉祉は、上城陽王をやめて、舂陵侯の陵墓に入りたいと望んだ。国にゆかず、洛陽に葬られた。43歳だった。恭王とおくり名された。

なぜ、舂陵に帰れなかったのだろうか。光武帝にとって、劉祉は嫡流だから、正統性をおびやかすライバルだったのかも。


つぎは、光武帝の族兄の劉終です。

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