表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』より、四世三公の楊震伝をまとめ、袁氏と比べる

4世三公の楊氏は、袁氏を娶って滅ぶ

「袁術本紀」を作ろうとしています。
袁氏をよく知るため、ツイをなす楊氏をまとめます。

楊氏の最期を飾るのは、あの楊修だ。
楊修が曹操に殺された原因は、『後漢書』で「袁術の甥だから」である。
三公を輩出しつづけた両家。協調し、どちらも曹操に滅ぼされた。

史料の解釈を云々するほど細かくやりません。吉川忠夫氏の訓注を見ながら、エイヤー!と口語訳をするだけです。気になった記述をメモし、あとで返ってくる目安とします。
判明する年号は、省略せずにメモりました。

三公の祖「四知」の楊震

宮城谷『三国志』の最初の主人公です。
楊震、あざなは伯起。弘農郡華陰県の人。
 ●8代前の楊喜:劉邦に赤泉侯に封ぜらる
 ●祖父の楊敞:昭帝の丞相、安平侯
 ●父の楊宝:『欧陽尚書』を習い、哀・平帝に隠居、建武に病死

楊震も『欧陽尚書』を習い、「関西の孔子」と呼ばれる。
50歳で始めて、州郡に召しだされた。
大将軍の鄧隲が召す。荊州刺史、東莱太守。
「闇夜の賄賂でも、天と地と、我とあなたが知っている。要らん」

117年、太僕、太常。120年、司徒。
121年、鄧太后が死ぬ。安帝の乳母の専横を諌め、安帝は省みず。
123年、太尉。安帝の舅の人選を却下し、楊震は憎まれる。
たびたび楊震が諌めるので、疎まれて投獄された。
124年、服毒自殺。70余歳。

楊賜の死後、1年あまりで順帝が即位。
順帝は、楊震を死に追いやった人を誅死させた。
順帝は、楊震の子を郎にした。

霊帝をほめ、李傕を討った曾孫

楊震の長子は、楊牧。楊牧の孫は、楊奇。
霊帝に「桓帝と比べて、私の政治はどうかな」と聞かれ、
「舜帝と堯帝を比べるようなもので、ございます」と答えた。
楊奇は、鍾繇とともに李傕を攻撃。献帝は長安を脱出できた。

2人目の三公、宦官を攻撃した楊秉

楊賜の3年は、楊秉である。『京氏易』を学ぶ。
40歳余で、司空に召さる。豫、荊、徐、兗州の刺史。
故吏に銭100万を贈られるが、門を開けず。廉潔で聞こゆ。

147年、桓帝が即位し『尚書』の先生となる。
桓帝が梁胤(梁冀の子)の家に遊び、昼から暗く、嵐になった。
楊秉は「天は嵐で、桓帝さんを咎めた。やめなさい」桓帝は納れず。
梁冀が執政した6年、楊秉は病を称す。梁冀が滅び、太僕、太常。

中常侍の単超の弟は、楊秉に弾劾されるのを恐れた。
160年、諌めた罪により、楊秉は免官。河南尹に復帰。
日食。皇甫規は「楊秉は忠正だから、もっと用いなさい」
だが楊秉は、お召しを断る。不敬を罪とされた。太常となる。

162年、太尉。太尉の楊秉と司空の周景は、宦官を批判。
「宦官は子弟を公職に任じ、貪っています」霊帝は、従った。
匈奴中郎将、青州刺史、遼東太守は、宦官の身内だから罷免。
楊秉が取り締まったから、天下は粛然。

164年、霊帝が荊州に墓参り。人足の挑発について諌めた。
165年、侯覧の弟の侯参は、益州刺史。楊秉が弾劾。

京兆尹の袁逢が、侯参の財産を没収したのは、このとき。

同じ165年、楊秉は死ぬ。74歳。「酒、色、財が、3つの不惑」

黄巾の乱を予測した、3人目の三公、楊賜

楊賜、あざなは伯献。梁冀の誘いを断る。
建寧(168-172)霊帝は『尚書』の先生として招く。
172年、玉座に青蛇。霊帝が理由を聞く。楊賜は政治指導。

173年、司空。176年、袁隗に代わって司徒。
任官の順序は逆転。霊帝は、外苑へのお忍びを好む。楊賜が諌めた。
党錮の禁で、免官。

178年、嘉徳殿に虹。楊賜と蔡ヨウは、中常侍の曹節と王甫を批判。 蔡ヨウは朔北に流された。楊賜は霊帝の先生だから、罪を免がる。
同年冬、楊賜は三老(徳行の高齢者への名誉称号)を得る。
179年10月、司徒。霊琨苑の造園を諌めたが、中常侍が押し切る。

181年、楊賜は病で退職。182年、太尉。
184年、黄巾の乱を受け、楊賜は霊帝を切諌。免官。

「霊帝さんがダメだから、黄巾が起きたのですよ」かな。

これより前、楊賜が司徒のとき、張角について述べた。

179年10月から181年閏月のあいだ。

楊賜曰く「早めに張角を刈り取れば、戦わずに勝てますよ」
霊帝は楊賜の言い分に関心した。でも対策せず。バカだなあ。

185年、張温に代わって司空。同月に死んだ。

妻が袁術の姉妹で、曹操に殺されかけた4人目、楊彪

楊彪は、あざなを文先。
熹平(172-178)議郎、侍中、京兆尹。
光和(178-184)黄門の王甫が、門生に税金を横領させていたから、司隷に告発。楊彪がきっかけで、司隷校尉の陽球が、王甫を誅殺。天下が快哉。 侍中、五官中郎将。
潁川太守、南陽太守。侍中、永楽少府、太僕、衛尉。

189年、董卓に代わって司空。同年冬、黄琬に代わって司徒。
董卓は『石包讖』で長安遷都を主張。楊彪が反対。
董卓が楊彪に怒ったので、司空の荀爽がなだめた。罷免された。
光禄太傅、大コウロ。
長安に従い、少府、太常。京兆尹、光禄勲、光禄太夫。
192年、司徒。太常。
194年、太尉。李傕と郭汜から、献帝を守る。

献帝を洛陽に移す。196年、許都。曹操と対立。
曹操に暗殺される危機を覚え、トイレと言って逃亡。
曹操は、楊彪の妻は袁術の姉妹なので、楊彪を大逆罪とした。

これ以上、詳しい記述がない。洛陽で、同盟のために婚姻したか。
楊彪は142年生まれ。袁術は、推定で146年生まれ。年齢が近いから、義理の兄弟として成り立つ。

孔融が弁護してくれたので、曹操は仕方なく楊彪を釈放。

199年、太常。205年、罷免。漢室が終わりそうなので、楊彪は足の痙攣を理由に、籠もる。

199年とは、袁術が死んだタイミングである。

子の楊修が曹操に殺されて、曹操に恨み言を吐いた。

曹丕が禅譲を受けたとき、楊彪を太尉にしようとした。
楊彪は断った。225年、84歳で死んだ。

鶏肋のなぞなぞ王子、楊修

楊修は、あざなを徳祖。丞相たる曹操の主簿。
漢中で「鶏肋」を聞いて、劉備を討たずに撤退させた。
曹植とともに酔う。袁術の甥だから、曹操に殺された。

殺害の動機が「袁術の甥」なのは、そんなに重要だったのかな。楊修の母が袁氏だというのは、かなり膨らませそうだ。

これで終わり。楊氏は、袁氏と違い、一貫して学者官僚でした。

おわりに:霊帝の時代の袁氏は、宦官を攻撃した

結婚が15歳だと見積もると、楊彪と袁逢の子が結婚したのは、156年。しかし梁冀との関係から、あり得ない。なぜなら袁氏は梁冀と結びつき、楊氏は梁冀と敵対したからだ。
梁冀が滅びた159年の少しあと、袁氏が一時的に没落し、清流に転じたとき、婚姻が成立したと見たい。楊彪が20歳前である。

袁隗と楊賜は、よく交互に三公になる。袁氏と楊氏の方針は、同じだったと考えてよいだろう。
霊帝時代、袁氏の記述が少ない。しかし推測するのに、楊氏と同じく、宦官を批判する側に回っていたと考えて、間違いではあるまい。これが分かっただけでも、楊震列伝を読んだ甲斐がありました。100430

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