表紙 > 読書録 > 『歴史読本』09年10月:渡邉義浩「光武帝」をまとめる

三国志の英雄たちの理想の君主像

09年10月刊行の雑誌『歴史読本』で、
渡邉義浩氏が光武帝について、書かれています。
6ページの一般向けの記事ですが、
渡邉氏が書かれたということに価値があります。

内容をまとめておきます。っていうか、ほぼ丸写し?
せっかくサイトに載せるので、グレイかこみに、ぼくの感想を挿入。

王莽が殺されたのは、劉秀が昆陽で新軍を破ったから

光武帝は、前漢景帝の子孫。南陽の豪族。
『尚書』を学んだから、歴代建国者で一二を争う教養人。

本を1つ学ぶだけで、まれな教養人。歴代の建国者は、よほど学問から縁遠いのか。いま二五史の本紀をチェックする気力は、、ぼくにはない。笑

先頭で戦うタイプではない。兄の劉縯が立ち上がった。

渡邉氏のルビは「りゅうえん」です。しかし『後漢書』の注釈では「引」とおなじ音だとする。つまり「りゅういん」と。
益州牧の劉焉、前趙の劉淵と区別したいから、「りゅういん」がいいかな。ぼくのパソコンは、2つとも登録してみた。笑

農業に専念した劉秀は、劉邦の兄・劉仲になぞらえられた。

劉縯の挙兵は、8年に建国された、莽新が乱れたから。

「莽新」という史学用語があるのですね。使っていこう!

莽新は、豪族の大土地所有に苦しむ、小農民を守るため、
周の井田制をモデルに、王田制を創設した。
大土地所有を制限し、奴婢の売買を禁じた。
1つの政策だけで、豪族は土地を手放さない。現実離れした。

劉章を信仰した、火徳の赤眉の乱。荊州の緑林の乱。これが二大勢力。
22年、劉縯は緑林の流れをくむ、新市・平林と合流。
小長安で敗北。下江と合流。荘尤と陳茂を破り、宛城をかこむ。

莽新の将軍は、厳尤じゃないの?

新市・平林や下江は、軍事能力も指導力もある劉縯をおそれて殺害。

殺害の動機が、劉縯バンザイになっている。
ぼくは思う。劉縯は、『後漢書』がホメるほどの逸材ではない。
『後漢書』劉縯を抄訳、更始帝に荊州北を奪われた敗者(光武帝の兄)

平林は、凡庸な劉玄をたてて、更始帝とする。

王莽は、王邑と王尋に、百万を与えた。
劉秀は陽関での迎撃をあきらめ、昆陽を守る。13騎で城外に出た。
決死を示すため、意外にも先頭に立って戦い、敵の先兵をやぶる。

誰が誰に対して意外か。劉秀の行動が、渡邉氏にとって意外なんだ。渡邉氏のなかで劉秀は、兄のカゲに隠れたとおり、陣頭指揮のタイプではない。

莽新の宛城が陥落したと、虚報した。
決死の三千をひきい、王尋の首級をあげた。新軍は総くずれ。
昆陽は、天下分け目だ。王莽は権威がおち、長安で豪族に殺された。

ぼくは、まだ検証できておりませんが。昆陽が天下分け目だから、王莽がほろびて劉秀がのし上がったか。劉秀が活躍したから、昆陽こそ天下分け目だったと、さかのぼって認定したか。微妙なところである。
王莽が殺されたトリガーは、渡邉氏が単純化するほどには、昆陽の戦いではない。『漢書』王莽伝を読めば、分かることである。
(さすがにぼくも、莽新の滅亡に、昆陽の影響がゼロだとは云わない)


昆陽の戦いの3日前、劉縯は宛城を陥落。劉秀の虚報は、真実に。
だが更始帝は、功績ある劉縯を警戒して、無実なのに殺害。
昆陽の英雄・劉秀は、宛城で兄の罪をわびた。破虜大将軍となる。

ほんとに罪がなければ、わびる発想がない。もしかして劉縯は、殺されても(見かたによっては)仕方がないほど、軍紀を乱していたのかも知れない。

だが、更始帝と劉秀の内紛のせいで、河北で王郎が台頭した。

王郎が自立した理由、こんなだっけ? 列伝を近日読みます。

更始帝は、中国を統一することができなかった。

まったく、ちがうと思う!
更始帝は、これから中国を統一するところです。まだ成否は、分からんでしょ。更始帝は、洛陽と長安を手に入れた次に、河北を抑えるため、更始帝の大司馬・劉秀に北伐させたのです。とちゅうで劉秀が独立するから、結果的に更始帝は、統一できなかったけど。


更始帝からの独立は孫策、河北の基盤は袁紹の規範

劉秀は更始帝の命により、少数の部下と、薊にきた。
台頭した王郎は、劉秀の首に、十万戸(諸侯)の懸賞をかけた。
劉秀は野宿。名将・馮異が薪を運び、軍師・鄧禹が火をおこした。

河北に行ったとき、更始帝はどんな待遇をあたえ、劉秀はどんな陣容だったのか、自分なりに確かめたい。馮異と鄧禹と、寒さと飢えをしのぐシーンは、美しい。しかし、神話がかっていないか?
『三国志』武帝紀で、官渡における曹操の兵力が過少に書かれ、神がかった大勝利たアピールされたかも知れない。同質のあやしさである。

信都太守の任光は、劉秀をむかえた。まだ兵力不足。
劉秀は、王郎の配下で、十余万をもつ真定王・劉揚に接近。
劉揚の妹が、郭昌にとついで産んだ、郭聖通をめとった。

十余万をもつ、河北の皇族。劉秀の河北統一を考えるとき、ぜったいキーになる人物です。劉秀は、劉揚のめいを妻とした。のちの郭皇后。

上谷太守の耿況は、呉漢をよこした。
漁陽太守の彭寵は、寇恂をよこした。烏丸突騎が合流。
更始帝もまた、申しわけ程度に、尚書僕射の謝キュウをおくった。

どのように「申しわけ程度」なのか、史料で確かめたい。更始帝が、ふつうに真っ当に、河北を補強したかも知れないじゃないか。


24年、劉秀は邯鄲を陥落させ、王郎を誅殺。
王郎の文書を押収すると、焼いた。官渡の曹操におなじ。
劉秀を恐れる更始帝は、蕭王にして、長安に召し返した。
『後漢書』光武帝紀は、このとき初めて離反を考えたという。
袁術に江東の平定を命じられた孫堅が、自立したのは、劉秀の影響。

まったく最低なミスだ。孫堅じゃなくて、孫策です。
きっと雑誌をつくる人のミスに違いない。
ともあれ。勢力ある部将が自立するのは、よくあること。孫策が、劉秀を手本にしたとは、言えないと思うけどなあ。

劉秀は、銅馬の賊をくだした。
河北を平定すると『赤伏符』という予言書により、即位を受諾。
おなじ25年、更始帝は赤眉に降伏、殺害さる。赤眉は山東へ帰る。
27年、大司徒の鄧禹と、征西大将軍の馮異をおくり、赤眉を編入。
28年、山東を平定。31年、隴西に親征して、隗囂を破る。
33年、隗囂の子・隗純を降伏させた。隴を得て、蜀を望んだ。
35年、蜀の公孫述を滅ぼし、中国を統一。

河北を平定したあとは、すごい駆け足でした。つまらないのか? それとも、三国志の人物が、手本にしたエピソードが、少ないのだろうか。


劉秀は南陽の豪族だが、河北に行った。
河北のおかげで、北方異民族の強兵を得た。赤眉の被害は小さい。
郭聖通を皇后にして、河北の劉揚に期待した。
汝南郡の袁紹は、河北に行った。袁紹も劉秀は、規範とした。

劉秀も袁紹も「地元を根拠地にできず、仕方なく外に出た」ことを忘れてはいけないと思う。
地縁バンザイの時代だ。地縁=派閥になる時代だ。地元が有利に決まっているのだ。いくら河北が有利な土地でも、積極的に故郷を捨ててまで、行ってはいけない。河北には河北の、在地勢力がいる。異民族の強兵も、豊かな生産力も、タダ取りはできないのだ。
劉秀は、更始帝に追い出された。袁紹は、袁術に追い出された。袁紹は、董卓を包囲しているとき、袁術から豫州(汝南郡をふくむ)を奪おうとして、敗れている。袁紹だって、故郷が良かったんだ。劉秀のマネは、苦肉の次善策である。
光武帝に憧れ、好んで故郷を捨てたなら、それはマゾである。


三国志の英雄たちの理想の君主像

光武帝は、軍事拠点の長安でなく、文化の中心・洛陽を首都にした。
軍備を縮小した。功臣から軍権をうばい、儒教を学ばせた。
国家の正統性に、儒教が役割が大きかったから。

以下の解説が、さすが渡邉氏です。光武帝紀を読むだけでは、分からない。研究をふまえた解説です。勉強になります。


孔子は人生の哲学をいい、国家支配の正統化は二の次だった。
前漢の董仲舒は、春秋公羊学に属す。孔子に、漢の成立を予言させた
『春秋』『尚書』は漢と無関係だ。公羊学派は、緯書を生み出した。
経書をおぎなうため、孔子が緯書を書いたと、漢に迎合。
緯書には、予占の要素を含む。孔子が漢を祝福する、予言がおおい。

王莽は、緯書を利用。「孔子は王莽を祝福している」と。
公孫述は「漢に代わるのは当塗高」を掲げた。
真定王の劉揚は「赤九(漢の九代・光武帝)の後、エイ揚が主君」と。
光武帝も、緯書を根拠に即位。儒教なくして、政権安定はない。

後漢の正統を予言する儒教にしぼって、天下に広めた。
郷挙里選で、豪族にも、後漢を正統とする儒教を学ばせた。
明清の考証学者は、後漢を理想的な儒教国家として、光武帝を評価。

袁術や曹丕や譙周は、おなじ緯書で、後漢の滅亡を予言。
劉備や諸葛亮は、不都合な緯書を抑えこんだ光武帝を、尊敬した

読み終えて思うこと

後漢末から見て光武帝は、150年くらい前の人だ。
現代日本人から見れば、幕末の人物に、規範を求めるようなもの
大河ドラマで、坂本竜馬をやってますね。
後世の歴史家が、2010年のメディアに竜馬が頻出するのを見て、
「国難を自覚した日本人は、幕末に規範を求めた」
と論じた場合、どれくらい当世を生きるぼくらの感覚と合うのやら。

もしぼくが、未来の大学で学んでいたら「10年の日本=竜馬が理想」と卒論に書くだろう。教授は、否定はできず、まあ受け流すだろう。笑

ちがうのかな。
21世紀のぼくらは、古今東西、参考にできる情報がひろい。
だが後漢末は、参考にできる情報が、きわめて限定的だった。
坂本竜馬の比じゃないのか。検討の手法が思いつきません。100809

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