表紙 > 人物伝 > 群雄としての資格がない、場当たり的な男・太史慈伝

01) 青州と敵対し、母を捨てる

「呉志」巻6より、太史慈をやります。
『三国志集解』を片手に、翻訳します。
グレーかこみのなかに、ぼくの思いつきをメモします。

太史慈は「呉志」での扱いが重い。劉繇と士燮に並んでいる。だが、記述の内容を鵜呑みにしたって、とても群雄と呼べる人物ではない。ちょっと強いだけの小隊長である。

「陳寿の、この記述はウソだ」と、妄想で切り捨てるまでもない。

「呉志」は太史慈を、なぜ重く扱ったか。きっと、孫策が一騎打ちした記録が、疑いなき事実として残っていた。孫策の顔を立てるために、太史慈を群雄扱いしたのだ。

太史慈と組みついた孫策も、このとき小隊長だ。笑
太史慈の同行者は1人、孫策の護衛は13人だ。たまたま少人数同士で、鉢合わせしたんじゃない。部下の人数が、もともと少なかった。

では、本文を見ていきましょう。

青州をだまし、遼東に避難するハメになる

太史慈字子義,東萊黃人也。少好學,仕郡奏曹史。

太史慈は、字を子義という。東莱郡の黄県の人だ。

胡三省がいう。「太史」は、官名を姓としたものだ。
黄県は、『集解』臧洪伝を参照。東黄城は、むかしの莱子国の都であった。後漢になり、東莱郡の郡治となった。

年少から学を好み、郡に仕え、奏曹史となった。

『続百官志』がいう。郡には、諸曹掾史、諸曹略をおいた。三公の府の曹と同じだ。
盧弼がみる。三公の府には、奏曹があり、奏上を担当した。


會郡與州有隙,曲直未分,以先聞者為善。時州章已去,郡守恐後之,求可使者。慈年二十一,以選行,晨夜取道,到洛陽,詣公車門,見州吏始欲求通。(中略)由是知名,而為州家所疾,恐受其禍,乃避之遼東。

たまたま東莱郡と青州のあいだで、もめた。どちらが正しいか、明らかでない。先に洛陽に報告したほうが、正しいと認定される。
青州はすでに、使者を出した。東莱郡は、おくれた。使者になる人材を求めた。太史慈は21歳だ。東莱郡から、使者に選ばれた。昼夜を走って、洛陽についた。太史慈は、公車門にきた。

『続百官志』がいう。公車司馬令は、定員1人である。宮殿の南門をまもる。役人や人民の上章、四方からの貢献をとりつぐ。公用車を手配する。

太史慈は、青州の役人に、面会を求めた。(中略)

いま太史慈の、強引なトンチは省略。以前に、書きました。
呂布・劉備と同じ穴の梟、太史慈
ここに『集解』は、異説をつけない。ただ「面白い」だけの話だ。
いつもなら裴注に紛れそうな、孤立した面白エピソードが、陳寿の本文だ。太史慈を群雄扱いするため、陳寿は分量を増やすのに苦心したようだ。陳寿が得意な「史料切りすて」を最小限にしたか。

このトンチにより、太史慈は名を知られた。しかし青州から嫌われた。太史慈は、禍いを恐れて、遼東に逃げた。

186年のこと。青州刺史はだれ? 焦和の前任者だろうね。
州牧が189年に設置され、州の権限が強まる時期だ。いくら郡に仕える身とはいえ、州に敵対するのは、賢くない。しかもサギみたいな手口を使うとは。太史慈は目の前しか見えていない。
今回、東莱郡が訴訟に勝ったって、東莱太守が、ちょっと喜ぶのみ。太史慈にメリットはない。そんな手柄、すぐに忘れられる。会社のために自殺する人と、同類だなあ。報いられないのに、がんばり過ぎる。
太史慈の逃げたルートが、海路だったら面白い。


無謀なことを云い、孔融に疎んじられる

北海相孔融聞而奇之,數遣人訊問其母,並致餉遺。

北海の国相・孔融は、太史慈を聞き、評価した。何度か人をやり、太史慈の母に贈り物をした。

孔融は、太史慈の母を、生活保護したのでしょう。いま太史慈は逃げて、遼東にいる。母に生活費を送れない。
母の話が出てくるから「太史慈は孝行者」だと考えるのは、勘違い。太史慈は、母の生活苦を考えず、できるだけ遠くに逃げただけだ。


時融以黃巾寇暴,出屯都昌,為賊管亥所圍。慈從遼東還,母謂慈曰:「汝與孔北海未嘗相見,至汝行後,贍恤殷勤,過於故舊,今為賊所圍,汝宜赴之。」

ときに孔融は、都昌で、黄巾の管亥に囲まれた。

盧弼がいう。北海国の治所は、劇である。きっと孔融は、都昌に治所を移したのだろう。
ぼくは考える。193年、陶謙の声かけで、学者官僚を中心とした、反長安政権連合ができた。孔融が治所をはなれて「屯」したのは、連合に参加するためじゃないか? その矢先、手薄なところを、黄巾に突かれた。
193年なら、青州刺史が交代しており、太史慈はホトボリが冷めている。故郷に戻ることが可能だ。190年に焦和がやめ、袁紹が臧洪をおいた。191年、公孫瓚が田楷をおいた。

太史慈は遼東からもどった。母は太史慈に云った。
「おまえと孔融さんは、面会がない。だが孔融さんは、私を大切にした。孔融さんが、賊に囲まれた。助けにいきなさい」

恩返しを勧めているように見えて、母は辛辣だ。
「お前がウロウロしている間、孔融さんのおかげで食いつないだ。不孝者のお前は死んでもいいから、孔融さんを助けなさい」


慈留三日,單步徑至都昌。時圍尚未密,夜伺間隙,得入見融,因求兵出斫賊。融不聽,欲待外救。未有至者,而圍日偪。融欲告急平原相劉備,城中人無由得出,慈自請求行。

太史慈は、母に3日とどまり、1人で歩いて都昌にいった。太史慈はこっそり入りこみ、孔融に会えた。太史慈は、
「私に兵をくれたら、黄巾賊を切ります」
と孔融に云った。孔融は、太史慈をゆるさず。

当たり前だ。太史慈は、無鉄砲すぎる。
1人で歩いてやってくる時点で、太史慈は「援軍」ですらない。のちに劉繇に用いられなかったのも、孫策と一騎打ちできたのも、見境のない無鉄砲が原因である。あとで本文に出てきます。
劉繇は「許劭に笑われないだろうか」と云い、太史慈を遠ざけた。これは劉繇が、自分の意見を持たないバカだからではない。オブラートに包んだ、大人の断り文句だった。本音は「お前は兵卒だ。将士じゃない」だ。

包囲は、日に日に、きつくなった。孔融は、平原の国相・劉備に助けを求めたい。誰も、使者を引き受けない。太史慈は、使者になりますと、自ら願いでた。

劉備を平原相に任じたのは、公孫瓚だ。公孫瓚は、青州刺史に田楷をおいている。青州は、公孫瓚の影響下にある。孔融は、劉備の人柄を聞いて、助けを求めたのではない。公孫瓚の部将としての劉備に、期待した。
のちに陶謙が、曹操に攻められ、公孫瓚に助けを求めた。田楷と劉備が、助けにきた。いまの孔融と同じだ。
劉備は、同じような救援の仕事を、たびたび、こなしていたか。


太史慈が包囲をぬけるトンチは、省略します。弓の稽古で包囲軍をあざむいた話が、陳寿の本文にあるのが、そもそも不自然ですねえ。
次回、劉繇に疎んじられ、孫策と一騎打ちします。

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