表紙 > 読書録 > 升味準之輔『なぜ歴史が書けるか』抜粋と感想

01) 歴史とは、個人的な追体験だ

升味準之輔『なぜ歴史が書けるか』千倉書房2008
読みました。
3000円で320ページだが、要点は少ない。抜粋します。

タイトルに引かれて買った。「なぜ書けるか」「どのように書けるか」という、枠組や手続を期待した。しかし、具体例が多すぎた。しかも、ぼくの興味がうすい西洋史。ジャケ買いは、こわいなあ。
ある老歴史家のエッセイだと割り切ると、おもしろい。


緒言

問題関心:歴史家はどのようにして歴史を書くのか
結論:史料を読み、個人に取りこんで追体験し、感動を物語る!

序章 歴史家の誕生_001

ヘロドトスは、重大事件(ペルシャ戦争)の原因を書いた。
ツキュディデスは、ペロポネソス戦争の教訓を書いた。

ツキュディデスは、歴史はくり返すという前提をもつ。くり返すから、過去の戦争が、未来の参考になるだろう。そういう発想だ。


ポリュビオスは、ローマが覇権を確立した過程を描いた。ローマは全世界におよぶ。だから全体の構図を知らなければならない。部分を知っても全体は分からない。そう考えた。
ピレンヌは、ローマと中世の断絶を指摘した。あいだにイスラムの進入があり、構造の転換があったと考えた。
トレンビーは、出来事の類似を比較した。

いろんな歴史の著作があるよー、というご紹介でした。


1章 史料と追体験_021

歴史家は、史料をあつめ、重ねあわせる。日記や書簡のさりげない日付や片言隻句が、接触し、呼応して、息づく。やがて歴史の中を遊泳しはじめる。その瞬間は、感動的なものである。だから歴史家は、史料に耽溺する。

ざっくり、冒頭文を写してみた。小説的にすぎるが、分からなくはない。

記録は、歴史の死骸だ。だが歴史家が「生の関心」を吹きこむと、息をふきかえす。

EHカーはいう。
「自分が主要史料と考えるものを少し読み始めた途端、猛烈に腕がムズムズしてきて、自分で書き始めてしまうのです」

『歴史とは何か』より。こんな面白そうな本だっけ。岩波新書に収まってしまうと、硬くてつまらん、と思いこんでしまう。へんな思いこみだなあ。

升味氏は、自分の経験をかたる。おびただしい史料のなかから、私の筋書に吸いつくようにして、史料があらわれる、と。

人間の経験は、孤立している。だから歴史家は、史料を自分の経験に照らして、想像する。
「類似した経験がないから、私には想像ができない」
というのでは、熱意が不足している。追体験あるのみだ。

でました。今どき、根性論や精神論だ。

チッポケな歴史家が、英雄を想像する。下種に勘ぐられる英雄にとっては、「とんだ災難」だ。だが歴史家は、英雄の外的な環境と、内的な感情を想像するしかない。錯覚でもいいから、感触に頼るしかない。

いわゆる「歴史哲学」とは無縁の、大雑把な開き直りである。

歴史家は、自分にも偏見があることを、自覚しておこう。

歴史家は、歴史を書くことで、個性を暴露する。18世紀のフランスの文人・ビュッフォンは「文は人なり」といった。EHカーはいう。
「歴史の書物を読むとき、最初の関心事は、それを書いた歴史家であるべきです。その書物がふくんでいる、事実ではありません」

歴史家が、史料を読んで追体験をする。これは、俳優の役づくりに似ている。俳優は、観客を説得できるように演じる。
演技には、配役の中に入りこむ(キツネ憑き)方法と、配役の上に立つ(冷静な分析家)方法がある。歴史家の参考となる。

2章 カオス、原因と結果_057

歴史家は、散乱した史実の、因果関係を整理する。カオスに、秩序をあたえる。
ひとの行為は、ひとの内側にある、意図や目的、動機や感情から生まれる。過去の行為のなかには、未来への目的がふくまれる。
だから、原因-結果は、目的-手段に転換される。ひとの行動とは、結果を、原因(すなわち目的)とすることだ。

正直、よく分からん。しかし、考えたいテーマだから、抜粋。
ぼくが関心を持っているのは、ただの出来事の前後関係を、ムリに因果関係だと取り違えるミス。前後即因果の誤謬というらしい。論理学で、注意されていることです。
前-後、原因-結果、目的-手段、は気になる対立構図。
いま目先で目的に設定し、熱中していることがあるとする。数年たてば、その目的は、新しい目的を達成するための、ただの手段だったと回顧する。そんなことを思った個人的な経験がありますが、、今回の話とどうつながるのか、展望なし。ごめんなさい。


トクヴィルは、一般的原因と偶然的要因を区別せよという。
事件が起きたとする。なんとなく事件を取りまく、間接の原因がある。まさに事件のトリガーになった、直接の原因がある。これを区別せよと。
要因の区別とは、可能性を判断することだ。可能性は、定量的に計れない。歴史家は、定性的に言うしかない。
ウェーバーは、定性的な可能性の分析について、2つの尺度を示した。1つは史料から読み取れる事実。2つは「人間なら、こうだろう」という経験則。だから歴史家は、人間通でなければ、務まらない。

また、ムチャなことを、、

歴史は、自然科学とはちがう。歴史は、1回しか起こらないことを、個性的な歴史家が理解するものだ。直観の想像でしかない。

ここまで開き直れば、ラクになれるのであります。


ポパーは、歴史家が想像するときの、手がかりを示す。
まず、すべての人間が、完全に合理的にうごくと仮定する。これをゼロの基準とする。ゼロから、どれだけブレたかを評価する。ブレたところから、因果関係を想像することができる。

「ゼロ方法」というらしい。ピンとこない翻訳だなあ。
経済は感情で動くという話がある。完全に合理的な「ホモ・エコノミクス」からのブレについて、指摘した話だったっけ。歴史の分析でも、使えるのですね。ただし分析結果は、いつでも定性的で、言ったもの勝ちだが。


後半につづきます。「なぜ書けるか」の結論あり!

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