表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』劉縯を抄訳、更始帝に荊州北を奪われた敗者(光武帝の兄)

01) 天にとどく、漢室復興の志

『後漢書』列伝第四、劉縯(劉伯升)伝をやります。
吉川忠夫訓注をみて、抄訳と感想をつけます。

光武帝を知ることが目的。

劉縯は、光武帝の兄です。はやくに更始帝に殺された。

こころざし先行の兄

齊武王縯字伯升,光武之長兄也。性剛毅,慷慨有大節。自王莽篡漢,常憤憤,懷複社稷之慮,不事家人居業,傾身破產,交結天下雄俊。

齊武王の劉縯は、あざなを伯升という。光武帝の長兄だ。

『後漢書』では、劉伯升と書いてある。これは、皇帝の兄のいみなを避けたのであって、文字化け対策ではないのだ。笑

劉縯は、性質が剛毅で、気性がはげしく、自分イメージがしっかり固まっていた。王莽が漢室をうばったので、つねに怒りまくっていた。
国家のことばかり考え、生業をやらない。劉縯は、財産をバラまいて、天下の雄俊とむすんだ。

急進的な学生運動家みたいな人物だ。気合と理念が先行して、アジりまくり、地に足がついていない感じでしょうか。
劉縯は、光武帝の地味さを、からかって笑ったりもする。


新軍にやぶれて、弟と姉をうしなう

莽末,盜賊群起,南方尤甚。伯升召諸豪傑計議曰:「王莽暴虐,百姓分崩。今枯旱連年,兵革並起。此亦天亡之時,複高祖之業,定萬世之秋也。」眾皆然之。於是分遣親客,使鄧晨起新野,光武與李通、李軼起于宛。伯升自發舂陵子弟,合七八千人,部署賓客,自稱柱天都部。

王莽の末期、盗賊が起きた。南方の荊州で、もっとも盗賊が多かった。劉縯は、豪傑をアジった。
「王莽は暴虐であり、百姓は分崩した。飢饉のせいで、挙兵があいついだ。天が王莽をほろぼす。永遠なる劉氏の王朝を立てる秋だ」

秋と書いて、トキと読ませる。諸葛亮の出師の表で有名な用法だ。劉縯も、つかっている。

豪傑たちは、劉縯に賛成した。
鄧晨は新野で起ち、光武帝と李通と李軼は、宛城で起った。劉縯は、地元の舂陵の子弟を、7,8千人あつめた。賓客をひきいて、みずから劉縯は「柱天都部」と名のった。

鄧晨と李通は、列伝五にある。
称号は、「天の柱みたいに、部曲をひきいる」という意味。皇帝とか藩王とかでなく、オリジナルの称号をつくった。劉縯は、既存のワクにこだわらず、エキセントリックな自己イメージがあったのだと思う。
オリジナルな称号をつくるのは、いわゆる「賊」とおなじ。笑


使宗室劉嘉往誘新市、平林兵王匡、陳牧等,合軍而進,屠長聚及唐子鄉,殺湖陽尉,進拔棘陽,因欲攻宛。至小長安,與王莽前隊大夫酎阜、屬正樑丘賜戰。時天密霧,漢軍大敗,姊元弟仲皆遇害,宗從死者數十人。伯升複收會兵眾,還保棘陽。

劉縯は、宗室の劉嘉をおくって、新市兵と平林兵を誘った。王匡と陳牧らが、劉縯に合わさった。

新市も平林も、荊州南部の兵。新市と平林のなかから、更始帝がでる。
更始帝の故郷は、舂陵である。つまり劉縯の地盤と同じだ。父と弟のアダ討ちがらみで、南に逃げていたにすぎない。
劉縯と、新市と平林の、力関係や命令系統がどうなっていたか、気になる。

劉縯は勝ちすすみ、棘陽をぬいた。宛城を攻めようとした。
新室の王莽が送りこんだ、前隊大夫・酎阜と、屬正の樑丘賜と、たたかった。ときに霧が濃く、劉縯は、おおいに敗れた。劉縯の姉と弟は、殺された。宗室は、数十人が死んだ。劉縯は、棘陽にもどった。

霧が濃いのは、敵もおなじ条件だと思うのだが。笑
今こそ、新室の人数を書き、大軍勢すぎて、負けても仕方なかったことを示すべきだ。後漢を、カッコ良く描かねばならないのだから。
姉と次兄が死んだのだから、末弟の光武帝も、死にかけたはず。光武帝は、ほぼ負けてないイメージで売っている。しかし、いま負けたじゃん。


もと緑林軍の下江兵をあわせ、新軍に金星をあげる

阜、賜乘勝,留輜重于藍鄉,引精兵十萬南渡黃淳水,臨B036水,阻兩川間為營,絕後橋,示無還心。新市、平林見漢兵數敗,阜、賜軍大至,各欲解去,伯升甚患之。會下江兵五千餘人至宜秋,乃往為說合從之勢,下江從之。語在《王常傳》。伯升於是大饗軍士,設盟約。休卒三日,分為六部,潛師夜起,襲取藍鄉,盡獲其輜重。明旦,漢軍自西南攻酎阜,下江兵自東南攻梁攻丘賜。至食時,賜陳潰,阜軍望見散走,漢兵急追之,卻迫黃淳水,斬首溺死者二萬餘人,遂斬阜、賜。

新軍の酎阜と樑丘賜は、川のあいだに、10万を置いた。新軍は、橋をこわして、退路を絶った。

なぜ、人数が多くて有利で、勝っている新軍が、退路を絶つのか。ぼくが思うに、もし成功しなければ、王莽にきびしく罰せられるからだ。新軍がこわいのは、劉縯でなくて、ボスの王莽である?

新市兵と平林兵は、劉縯が弱いので、解散しかけた。劉縯は、解散をおそれた。たまたま、下江兵の5千余人がいた。劉縯は下江兵に説いて、軍にあわせた。

新市と平林と下江は、もともと緑林兵だった。22年に疫病が起こり、分裂した。居住地がちがうから、名前が3つに分裂している。でも、まとめる人がいれば、ふたたび、合わさるだろう。
劉縯の求心力は、緑林軍を復活させた。功績は大。
くわしくは、列伝五の王常伝にあるらしい。

劉縯は、兵士をもてなし、休ませた。兵を6部に編成した。劉縯は、夜中と朝食のとき、攻撃した。新軍の酎阜と樑丘賜を斬った。

王莽納言將軍嚴尤、秩宗將軍陳茂聞阜、賜軍敗,引欲據宛。伯升乃陳兵誓眾,焚積聚,破釜甑,鼓行而前,與尤、茂遇育陽下,戰,大破之,斬首三千餘級。尤、茂棄軍走,伯升遂進圍宛,自號柱天大將軍。
王莽素聞其名,大震懼,購伯升邑五萬戶,黃金十萬斤,位上公。使長安中官署及天下鄉亭皆畫伯升像于塾,旦起射之。

王莽は、納言將軍・厳尤と、秩宗將軍・陳茂を、宛城におくった。

この新軍ペアの名前は、頻出。さかのぼって、『漢書』王莽伝で、ふたりがどんな前歴のある人か、追いかけてみたい。

劉縯は、調理器具を壊して、士気をを高めた。育陽でたたかい、劉縯が勝った。新軍の首級を、3千余とった。劉縯は宛城をかこみ、みずから「柱天大將軍」を名のった。

天にとどくほど、たかい意気。劉縯の自己イメージは、これか。

王莽は、劉縯の名を聞いた。劉縯を懼れ、5万戸と黄金10万斤と、上公の官位で、劉縯を新室に、買収しようとした。長安の役所の門に、劉縯のイラストを飾らせ、イラストを矢で射させた。

王莽の、おまじない主義が、バカにされている。しかし、多かれ少なかれ、どの軍でもやっていたのだろう。


次回、皇帝の位をめぐって、更始帝とあらそいます。

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