表紙 > 漢文和訳 > 『後漢書』劉永伝:河南の天子、袁紹が曹操をやぶるモデルとなる

前漢の梁王が、新末に天子となる

『後漢書』列伝二、劉永伝より。
劉永とは、光武帝に負けた、河南の独立勢力です。
袁紹が黄河を南渡し、曹操と献帝を討つとき、きっとモデルにした。
「曹操は、劉永のように滅びるがいいさ!」という具合に。

前漢の梁王が、王莽に断絶される

劉永者,梁郡睢陽人,梁孝王八世孫也。傳國至父立。元始中,立與平帝外家衛氏交通,為王莽所誅。

劉永という人は、梁国の睢陽県の人だ。

名前の後ろに「者」がある。ムリに訓読するなら「劉永なるもの」です。読者には、おなじみではありませんが、そういう人物がおりましてね。こんなニュアンスだと、吉川幸次郎氏が書かれていた。

前漢の梁孝王の8世孫である。

梁王は『漢書』四七。前漢の文帝の子・劉武だそうです。
文帝の子孫は、めずらしい。景帝の子孫より、さらに昔に分岐した。
梁国は、後漢末は豫州の北辺。兗州の済陰や陳留と接する。のちに曹操が拠点にする、河南に位置する国です。

梁王は、劉永の父・劉立までつづいた。元始中(後1-5年)平帝の外戚・衛氏とまじわったから、劉立は王莽に殺された。

平帝は、即位する前、中山王だった。ご近所ではなさそうだが。


更始帝から梁王に封じられ、河南で天子を名のる

更始即位,永先詣洛陽,紹封為梁王,都睢陽。

更始帝が即位すると、劉永は先んじて洛陽にいった。父のとき断絶した、梁王をついだ。

すぐに洛陽に行けたのは、アクセスがいいから。洛陽も、河南の一部です。曹操が兗州や豫州から、洛陽に献帝を回収しに行ったのと同じである。
更始帝の政策は、王莽が断絶させた前漢の王を、もどすこと。劉永の帰順をもって、更始帝は、いちおう河南をおさえたことになるだろう。ぼくは更始帝のファンだから、更始帝の最大版図を、妄想しなければならない。笑

劉永は、睢陽に都した。

永聞更始政亂,遂據國起兵,以弟防為輔國大將軍,防弟少公御史大夫,封魯王。遂招諸豪傑沛人周建等,並署為將帥,攻下齊陰、山陰、沛、楚、淮陽、汝南,凡得二十八城。又遣使拜西防賊帥山陽佼彊為橫行將軍。

劉永は、更始帝の政治が乱れたと聞き、梁国で起兵した。兄弟を、梁国の高官に任じた。以下のとおり。
・劉防:劉永の弟、輔國大將軍
・劉少公:劉防の弟、御史大夫,魯王。

なぜ下の弟が魯王で、中の弟は王号がないの? 劉永にとって頼りになるから、梁国に残したかった?

劉永は、豪傑をまねいた。沛人の周建らがきた。周建らに、兵をひきいさせ、周囲を攻めた。攻め落としたのは、28城。齊陰、山陰、沛、楚、淮陽、汝南である。

豫州と兗州あたりを支配した。この時代の特徴は、なびくのが速いこと。王莽がつくりだした混乱のせいで、みんな秩序がほしい。28城は、ほぼ説得だけで味方にできたのだろう。

西防にいる賊帥に使者をおくり、山陽の佼彊を橫行將軍とした。

是時,東海人董憲起兵據其郡,而張步亦定齊地。永遣使拜憲翼漢大將軍、步輔漢大將軍,與共連兵,遂專據東方。及更始敗,永自稱天子。

このとき、東海の董憲が、起兵して東海郡によった。張歩は、斉国を定めた。
劉永は、董憲を翼漢大將軍とした。張歩を輔漢大將軍とした。

官位を与えるだけで、味方につける。いちばん費用対効果がよい。

劉永は、東海と斉国と、兵をつらねた。ついに劉永は、東方で第一勢力となった。更始帝が敗れると、劉永は天子を称した。

徐州と青州も手に入れた。官渡前の曹操につうじる領土だ。 鮑信が曹操に、河北より河南の攻略を優先せよと云ったとき、劉永が参考になっただろう。もちろん、反面教師としてだろうが。
劉永伝には、洛陽や潁川を治めたという記述がない。更始帝の部将が、守っていたのだろう。誰かなあ。


陳留の蘇茂が光武帝を裏切るが、蓋延が鎮圧

建武二年夏,光武遣虎牙大將軍蓋延等伐永。初,陳留人蘇茂為更始討難將軍,與朱鮪等守洛陽。

建武二年(26年)夏、光武帝は劉永を攻めた。光武帝がさし向けたのは、虎牙大將軍の蓋延らだ。

蓋延は『後漢書』列伝八。功臣に分類されてる。

はじめ陳留の蘇茂は、更始帝から討難將軍に任じられた。蘇茂は、朱鮪らとともに、更始帝のために洛陽を守った。

鮪既降漢,茂亦歸命,光武因使茂與蓋延俱攻永。軍中不相能,茂遂反,殺淮陽太守,掠得數縣。據廣樂而臣於永。永以茂為大司馬、淮陽王。

朱鮪が光武帝にくだると、蘇茂も光武帝にくだった。だから光武帝は、蘇茂を蓋延にくっつけて、劉永を攻めさせた。
だが、蘇茂と蓋延は、軍中でぶつかった。蘇茂は光武帝にそむき、淮陽太守を殺した。蘇茂は、数県でぬすんだ。蘇茂は廣樂に拠って、劉永の臣下を称した。劉永は蘇茂を、大司馬・淮陽王とした。

ここまで、光武帝を裏切った蘇茂の話。
蘇茂は陳留の人だ。河南が地元である。地元から見たら、河北にいる光武帝より、河南で天子となった劉永のほうが、頼もしく見えたのだろう。
石井仁『魏の武帝 曹操』は少しちがう。袁紹は、光武帝をモデルにしたとする。だが光武帝は、石井氏がおっしゃるように、「威風堂々の大軍」で「奇襲・奇計を採用しない」のではない。河南平定は、ひやひやの連続である。いま陳留の蘇茂は、劉永についてしまったしね。


蓋延遂圍睢陽,數月,拔之,永將家屬走虞。虞人反,殺其母及妻子,永與麾下數十人奔譙。蘇茂。佼彊、周建合軍救永,為蓋延所敗,茂奔還廣樂,彊、建從永走保湖陵。

蓋延は、睢陽をかこんだ。数ヶ月で、睢陽をぬいた。劉永は、家属をひきいて、虞県ににげた。虞県の人が、劉永に反して、劉永の母と妻子を殺した。劉永は、麾下の数十人とともに、譙県ににげた。
蘇茂、佼彊、周建は、軍をあわせて劉永をすくった。だが蓋延に敗れた。蘇茂は、廣樂にもどった。佼彊と周建は、劉永にしたがって、湖陵をたもった。

袁紹が、曹操の落ち目を想像するならば、劉永を重ねればいい。劉永=献帝かも知れないが。


大司馬の呉漢が劉永をやぶるが、残党は下邳に拠る

三年春,永遣使立張步為齊王,董憲為海西王。於是遣大司馬吳漢等圍蘇茂于廣樂,周建率眾救茂,茂、建戰敗,棄城複還湖陵,而睢陽人反城迎永。

建武三年(27年)劉永は使者をおくり、張歩を斉王にした。董憲を海西王にした。

上では、張歩が輔漢大將軍、董憲が翼漢大將軍でした。劉永の勢力が、縮小をはじめた。味方してくれる人には、インフレした称号を乱発する。笑

光武帝は、大司馬の吳漢らに、蘇茂を廣樂で囲ませた。周建は、軍をひきいて蘇茂をすくった。蘇茂と周建は、呉漢にやぶれた。城を捨てて、また湖陵にもどった。
睢陽の人は、城ごと光武帝にそむき、劉永をむかえた。

劉永は、落ちのびる先に困らない。河南の諸県は、光武帝ではなくて、劉永に期待していたのかも知れない。


吳漢與蓋延等合軍圍之,城中食盡,永與茂、建走酂。諸將追急,永將慶吾斬永首降,封吾為列侯。蘇茂、周建奔垂惠,共立永子紆為梁王。佼彊還保西防。

呉漢と蓋延らは、軍をあわせて睢陽をかこんだ。睢陽の城内では、食糧がつきた。劉永たちは、酂県ににげた。劉永を、きびしく追撃した。
劉永の部将・慶吾は、劉永の首を斬って、光武帝にくだった。慶吾は、列侯となった。
蘇茂と周建は、垂惠ににげた。劉永の子・劉紆を、梁王にした。

天子の看板をさげて、梁王にした。もしくは、天子を名のったのであるが、『後漢書』がそれを認めずに、梁王に格下げして記したのか。
始皇帝の子供たちは、皇帝を名のったがが、『史記』がおとしめて、秦王と記したという話がある。

佼彊は根拠地にもどり、西防をたもった。

四年秋,遣捕虜將軍馬武、騎都尉王霸圍紆、建于垂惠,蘇茂將五校兵救之,紆、建亦出兵與武等戰,不克,而建兄子誦反,閉城門拒之。建、茂、紆等皆走,建於道死,茂奔下邳與董憲合,紆奔佼彊。五年,遣驃騎大將軍杜茂攻佼彊於西防,彊與劉紆奔董憲。

建武四年(28年)秋、光武帝は、馬武と王覇をおくり、劉紆と周建をかこんだ。蘇茂が救いにきたが、光武帝の軍に勝てない。
周建は逃げ道で死んだ。蘇茂は下邳にゆき、董憲と合わさった。劉紆は、西防にいる佼彊をたよった。
翌年に佼彊は光武帝の部将にやぶれ、下邳の董憲をたよった。

河南の勢力は、意外にねばっこい。列伝は、ここで終わる、、


おわりに:官渡の分析に、劉永を使いたい

曹操と劉永は、なにが違ったのか。
これを分析したら、なにか言えると思います。
当然ながら曹操だって、劉永の前例を知っていたはずだ。100824

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